「第44回多摩めぐり 南町田にできた新しい街グランベリーパークを訪ね多摩最南端の地に足跡を残す」を5月18日(土)に開催します

第10回多摩めぐり~多摩を深める 甲武鉄道開業130年
開通当時の名勝小金井桜の花見へタイムスリップ

サクラ天井の玉川上水を遡る参加者たち

ガイド:味藤圭司さん

 JR中央線の前身、甲武鉄道新宿―立川停車場間(27.2㎞)が華々しくデビューした130年前の明治22年の開業日に合わせて4月11日に行った多摩めぐりの10回目は、題して「開業当時の名勝小金井桜の花見へタイムスリップ」。江戸時代からすでに関東でも指折りの桜の名所に歌い上げられていた玉川上水の桜の見ごろを読み取って一番列車は新橋停車場から新宿停車場を経由して甲武鉄道を下ったのだった。乗客は、中野停車場の次、境停車場(現在の武蔵境駅)でどっと降りた。その人の列は北へ向かい、小金井桜が植わる玉川上水の現在の桜橋から上水堤を小平市の喜平橋へ遡った。当時を再現したコースの多摩めぐりに参加した31人は、明治時代の上水沿いの桜の実相を聞き、花見の様子を想像した。折よく今春の桜のシーズンは長く、花を眺め、花びらを手に乗せて、うららかな春風に戯れた。 

主なコース
JR中央線武蔵境駅 玉川上水桜橋 境橋 梶野橋 真蔵院 都立小金井公園 小金井橋 海岸寺 貫井橋 茜屋橋 喜平橋

ガイド:味藤さん

 甲武鉄道が多摩地域の発展に大きく寄与したことには誰も異論はないと思います。その鉄道開業の130年目のアニバーサリーが2019年であることが分かった数年前から、今回のプランは密かに私の頭の中で芽生えていました(まだ「多摩めぐりの会」はありませんでしたが)。この機会を逃すと、私個人としては次のチャンス(10年後)はないかもしれない、との焦りもありました。
 うれしいことに、この企画を「面白い!」と思って多くの皆さんが応募され、キャンセル待ちをお願いするような状況にもなりました。
 これを機に、甲武鉄道とその昔の小金井桜に今一度思いを馳せて、多摩の一地域が桜の時期には多くの集客を実現していたことを記憶に留めていただけたらと思います。

花見客押し寄せて臨時列車

 一番列車は、新橋を午前6時30分に出発して新宿停車場から甲武鉄道に入り、中野の次、境停車場に止まった。当日の東京の空模様は、午前6時で気温8度、煙霧だったが、午前中に霧が晴れ、花見日和になった。鉄道の営業開始を前に甲武鉄道は、沿線の見どころや運行時刻表などを掲載した営業広告で、小金井桜をこう、アピールしていた。
 「東京よりこの地に遊ばんとするには(略)境の停車場にて下りるべし。然らば北五六町(600mほど)にして上水端に出づ。ここより桜花あるにより漸次に花を観て、小金井の西に至り帰途は喜平橋より左に入り十二三町を往き国分寺停車場にて乗車するを便なりとす」
 翌日は雨風が強かったが、13日は土曜日とあってか、泊りがけの行楽客が小金井桜を見ようと詰めかけた。「甲武鉄道は、発着とも乗客込み合い、客車12台を出したれど足りず、臨時に百人乗りの列車一台を増せし」と新聞記事にある。

馬車から汽車への鉄道変更

 鉄道の計画案が持ち上がったのは、明治5年に玉川上水の通船が取りやめになった後で、甲武馬車鉄道を計画した。日本橋区の実業家・岩田作兵衛らが中心になり、新宿―羽村間の玉川上水沿いに敷設する案を東京府に願い出ていた。許可が下りたのは明治19年(1886)11月、五日市街道沿いの新宿―八王子間だった。だが、当時すでに馬車鉄道は時代遅れ気味で、汽車鉄道の熱が高まっていたことから1カ月後に計画変更を申請した。
 一方、神奈川県知事らは東海道線川崎を起点にした八王子への路線計画(武蔵鉄道)を訴えていたが、「鉄道は首府を起点とすべし」という内務大臣・山形有朋の決済で甲武鉄道に軍配が上がった。東京―八王子区間は旅客が見込まれる、貨物輸送も多種多様、沿線には景勝地もあるという利点を上げた。
 境停車場の誘致に奔走したのは秋本喜七。後の武蔵野村長だ。三井謙太郎も土地を提供した。さらに停車場の北、田無へ抜ける新道建設にも着手すると訴え出て実現した。境停車場開業から12年後に田無まで道路を造り、乗合馬車を走らせ、沿道住民の鉄道利用につなげた。

独歩が愛した武蔵野の雑木林

 この道路は、いま、武蔵境駅前に近い商店街通りを「すきっぷ通り」といい、境駅開業100周年の折に「好き」と「切符」を合成して名付けた。この道路の先もまた「独歩通り」と愛称を付けている。作家・国木田独歩がこの界隈の光景が好きで散歩を欠かさなかったことを後世に知らせる意味も込めて名付けられた。沿道には商店や事業所が点在し交通量が多い道だ。

独歩の森に映える若葉とサクラを前に
雑木林の成り立ちを聞く

 江戸期まで武蔵野といえば、ススキ原が歌枕で登場し、新田開発で生活を潤す薪炭づくりのために雑木を植えた。そんな林を独歩は、こよなく愛し、作品に記した。その一説を刻んだ碑が玉川上水の桜橋のたもとにある。代表作「武蔵野」(明治31年発表)の一節だ。独歩50回忌に民俗学者・柳田国男らが世話人になり建立した。近くの境山野緑地にはコナラやイヌシデなどがすっくと立ち、典型的な雑木林を「独歩の森」として武蔵野市が保存している。春の陽を透かしたコナラの若葉と対比した桜の色合いが絵模様だった。
 「独歩橋」から再び上水沿いを歩く。この日は、東京の桜開花宣言から2週間余り経つが、上水堤の桜は、まだまだ生きがいい。ほかの木々の幼葉、若葉の淡い緑に浮き立つ桜の花びらに見とれる。

凶作対策で桜の観光名所に

 玉川上水になぜ、桜が多いのだろう。そのなぞは、海岸寺で解けた。境内にあった大久保峡南が文化7年(1810)に書いた「小金井桜樹碑」にこうあった。桜の根は堤を固めることや花や若葉が往来の芽を楽しませて憩いの場になる。また、実や皮には水毒を消す薬効があることなどが記されていた。
 もう一つ、訳があった。玉川上水が完成・通水して17年後の寛文10年(1670)に土手敷を3間幅に拡張したときに植栽した松や杉が老木となって桜に植え替えた。その中心人物は、押立村(府中市)の名主・川崎平右衛門定孝。植樹した距離は、小平市から武蔵野市までの五日市街道に沿った玉川上水の両岸1里半(約6㎞)。
 その目的の一つは、新田に名所を作り、花見客によって、凶作に苦しむ武蔵野新田の収入を増やすことだった。すでに将軍徳川吉宗の命で隅田堤(墨田区)、飛鳥山(北区)、御殿山(品川区)に植えた桜が江戸の遊覧地として名高かった。

広重も北斎も描いた小金井桜

 玉川上水も江戸の桜の名所として伝わるのは植樹してから約50年後の寛政年間(1790年代)から。五日市街道による交易と往来が江戸との交流を生み、文化元年(1804)以降、小金井桜は各種の案内書に掲載されて桜が人を呼び、人が人を呼ぶように広まった。歌川広重は「武州小金井堤満花之図」をはじめ、富士山を描きこむなど多数の錦絵を制作した。俳人・露庵有佐は内藤新宿から小金井までの名所を記した「玉花勝覧(ぎょっかしょうらん)」に、葛飾北斎は「金井橋(「小金井橋」の意)桜之道標」と名付けた一枚刷りの地図に仕立て、さらに医師で文人の賀陽済(かやわたる)は「武蔵野小金井桜順道絵図」を著し、小金井桜の注目度は上がる一方だった。

歌川広重作「武州小金井堤満花之図」

補植して桜折るべからず

 今、堤はケヤキやクヌギなどの雑木の樹勢が桜に勝る。五日市街道沿いに林立する古木の桜だが、当時は新橋付近の南岸から始まり、梶野橋から両岸が桜並木だった。幕末にはすでに老木が目立ち、枯死する木もあった。そんな中、天保15年(1844)12代将軍徳川家慶世子・家祥(13代将軍家定)の花見が行われ、「土地の名誉」と感じた代官大熊善太郎は、嘉永2年(1849)上水を管理する近隣の持ち場村に桜の補植を命じた。上水北岸の任に当たった田無村名主下田半兵衛富宅(とみいえ)は、嘉永4年、補植にかかわった民への礼を込めて関野橋下流の北岸に「桜樹接種碑」を造立して補植の経緯を記し、「さくら折るべからず」と保護を訴えている。家祥の花見を記念して御座所跡に植えられた黒松「御成の松」は、平成6年(1994)にマツクイムシに侵され伐採された。

花見客でにぎわい生活潤う

 江戸時代から昭和の初めまで、上水堤の桜のメインスポットは小金井橋付近だった。小金井橋の両岸には茶店があり、中でも酒楼柏屋(甚兵衛)で名物のアユや山菜などを楽しんだという。付近の民家でも花見席を設け、飲食を提供した。休憩や食後、上流の貫井(ぬくい)橋・留橋(喜平橋)へ行き、江戸へ引き返す組や、大宮八幡宮や妙法寺に立ち寄る人たち、あるいは国分寺停車場へと向かって帰った。

メインスポットだった小金井橋には往時の様子を伝えるモニュメントがある

泊組の客たちは小金井橋付近で宿をとり、翌日、喜平橋から国分寺跡を回って府中宿に出たそうだ。花見客は、文人墨客を問わず、各階層の人々が押し寄せた。茶店などは、この時季で一年分の生活費を賄ったという。

レンガ造りの小金井橋(昭和初年頃)に花見客があふれる

管理・保護熱高まる地元

 時代を経るに従い、桜の衰えが目に付くようになる。小金井桜を研究していた東京帝国大学教授の三好学(1861-1939)が訴えた保護と保存事業に大正2年(1913)から東京市公園課が本格的に乗り出した。地元も呼応して小金井、小平、武蔵野、保谷4村有志が「小金井保桜会」を結成して花見時の巡視や小金井産のヤマザクラ3千本ほどを育てて補植した。こうした経緯から大正13年(1924)、小金井橋を中心に約6㎞区間を国が名勝に指定した。

 玉川上水の小平監視所から下流には原水を流さなくなった昭和40年(1965)以降、堤の保護・管理もされなくなったが、平成9年(1997)東京都は、名勝区間で小金井桜の保全を前面にして管理を再開し、ケヤキなどの高木二次林や草地を整備している。平成15年には玉川上水全体が史跡に指定されたことを契機に都や自治体、市民団体が協働して吉野や桜川などの系譜を継ぐヤマザクラの苗が梶野橋から上流の喜平橋付近まで植えられている。

江戸期から置かれていた水衛所で落ち葉などを
救い上げる作業員

三大桜の里帰りや育苗で再生

 これらの中には岩手・北上や奈良・吉野、茨城・桜川から贈られたものがある。北上の場合、大正9年(1920)に開園した展勝地公園(岩手県北上市)が開園した時に小金井桜の苗木1200本ほどを贈った縁で、その子孫たちが“里帰り”したゆかりの若木だ。
 ヤマザクラをはじめ、ソメイヨシノ、サトザクラなど約50種1700本がある都立小金井公園内の一角で小金井公園桜守の会のメンバーが補植に一役買っている。ヤマザクラを種から数年がかりで育てて上水に移植しているのだ。

北上から贈られて平成24年に補植された小金井桜

桜にかかわって20年ほどになるという小林満さんは、その圃場へ案内してくれた。2~3年ほどの若木の前で「種を夏場に干し、冷蔵庫に保管して、菌が少ない砂に種を蒔いて翌年春に発芽する。その発芽率は8割ほど」といい、苦労話に耳を傾けた。

 園内で発見されたヤマザクラ系の新種、小金井薄紅桜の2世のほか、日本三大桜の三春滝桜(福島・三春町)、山高神代桜(山梨・北杜市)、根尾谷淡墨桜(岐阜・本巣市)の幼木も無事に育つのを小林さんは楽しみにしている。

小金井桜の育成について話す小林さん

 その慈しみの心こそが1本の桜を育てることであり、江戸時代から今日までの玉川上水も、桜もまた人に見守られ、人が手を尽くすことで次代へ繋げることができた、人間リレーの証を見た一日だった。

 

喜平橋で記念撮影

【集合:JR中央線武蔵境駅 午前10時 / 解散:玉川上水の喜平橋 午後4時】
※参加者募集の案内ではJR国分寺駅を解散としていましたが、当日朝にJR中央線のダイヤが乱れ、スタートが遅れたことで変更しました。