ただいまのところ「多摩めぐり」は、開催を見合わせております。

第2回多摩めぐり~多摩を深める
武田信玄の攻略をも諦めさせた多摩の名城 滝山城

引橋を渡って参加者一行は、いよいよ本丸を目指す

ガイド:菊池等さん、須永俊夫さん、前田けい子さん

 5月13日、八王子市北部に位置する滝山丘陵(加住丘陵)は、色とりどりの緑に覆われていた。「武田信玄の攻略をも諦めさせた多摩の名城 滝山城」とうたった2回目の多摩めぐり。総勢24人は、築城の複雑さを目の当たりにした。最大標高わずか170mほどながら、その堅城ぶりに興味津々。南側の緩い斜面とは裏腹に、北側の絶壁が滝山城の堅城ぶりを物語っていた。一行は、滝山城跡から高月城跡へ、さらにあきる野市に入り、北条氏政や氏照らゆかりの二宮神社を訪ねた。

1. 滝山城跡

信玄を撃退した三の丸

 滝山城の表玄関ともいうべき大手口から入った天野坂は、五月の強い日差しを遮るほどにコナラ、クヌギ、エゴノキ、ホオノキなどの若葉に覆われていた。浅緑、草色、萌黄色、苗色、鴬色、柳葉色……グリーンシャワーは、コアジサイの花も引き立てていた。ガイドの須永俊夫さんは「城が健在だった当時、少なくとも城域の周囲は、防御強化のために木を伐採していたでしょう」と説く。いまは都立滝山公園になっている。
 滝山城は、大永元年(1521)、武蔵国20余郡を治めていた大石定重が、ここより北西1.5㎞にあった高月城から本拠地を移して築城した。その後、城主は大石定久、北条氏照になった。天野坂の先の東側に広がる三の丸跡は、永禄12年(1569)、武田信玄の攻撃をここで撤退させた歴史の舞台だ。
 三の丸の向かいにある小宮曲輪は「家臣たちの屋敷を土塁で区画していた」と須永さん。この曲輪に設えてある桝形虎口(ますがたこぐち)は、城の攻防の要所で、侵入者を次の門への侵攻を阻む。少し先にある山の神曲輪は「農耕の神をまつったところであり、城下や周辺の民衆を敵の乱取り(放火や略奪)から身を守る避難所であったようだ。現に武田信玄によって焼け出された民衆は、ここに避難しただろうと考えられる」と須永さんは、ドラマチックに話した。敵の直進を防ぎ、側面攻撃を高める「コの字形土橋」も残り、乱戦模様が想像できた。

450年前の兵士たちが走る

 散策ルートは、平らな尾根に出た。そこはそれまでなかったグラウンドかと思わせる「千畳敷」だった。氏照の時代には迎賓館の役割をしていた大きな建物があったようだ。堅固な守りを象徴する角馬出からの出撃が容易な造りでもあった。
 手持ちのスマートフォンを案内表示板のQRコードにかざしたら、AR(拡張現実)画面でおよそ450年前の城の施設が現れた。塀が出現したり、兵士が駆けたり、仮想現実とはいえ、リアルだった。
 防御に最も力を入れていたといわれる二の丸では3ヶ所の出入り口すべてに馬出を備え、容易に出撃できることが分かった。一方、この奥に位置する中の丸は、本丸に近く、二方向から攻め登ってきた敵方を寄せ集めて攻撃できる戦略が見て取れた。「この場所は、本丸に渡れる引橋の手前であり、土塁の残り方から見て櫓門があったのではないか」という須永さんに参加者の目は、一層注がれた。
 一行は、注目の引橋にたどり着いた。人工的に掘られた深さ10mもあろうかと思う大堀切に架けられた木造の橋だ。本丸への最後の砦だ。だが、橋を渡っても防御策は続く。桝形虎口だ。連続3回も折れ曲がる複雑な仕掛けで、先へ進むにしたがって細くなり、大勢が一度に侵攻できない仕掛けでもあった。北条流築城の特徴だという。

平らな本丸跡で解説を聞く

本丸跡は、北側が断崖絶壁の上にあり、眼下にある多摩川と秋川の合流点が手に取れる

対岸の敵陣地が一望だった

 本丸跡は、スポットを浴びるように陽光が降り注いでいた。四辺が桜の木々に囲まれて、シジュウカラの鳴き声が響く穏やかさだった。地形を取り込んで作られた縄張で、姫路城や熊本城のような天守閣がない、掘っ建ての建物だったのだろう。だが、「中世城郭の最高傑作といっても過言ではなく」(八王子市)というほど空堀や土塁、馬出などの遺構が保存されて戦乱の時代を今に伝えている。

 本丸の北側は、足下がばっさりと切れ落ちている断崖だった。多摩川・秋川の合流点が一望でき、自然防壁も手伝って堅固な城としたことを実感した。信玄が対岸の拝島に陣を敷いたのもここから遠望したか。須永さんは言う。「だが、滝山城にも弱点があった。武田軍の別動隊である小山田信茂隊が南側の小仏峠から侵攻してきたのに持ちこたえられなかった」

引橋の下で全員集合

2. 高月町の田園

広がる都内最大級の田園

 本丸を下ったら、ほぼ180度に空が、田畑が広がっていた。ここ高月町は、都内最大級の田園だといわれる。16haもあろうか、40人ほどの地主がいるという。自然農法で「高月清流米」と、契約農家では日本酒「高尾の天狗」の酒米「五百万石」美山錦」を栽培している。農道を歩くと、ネギボウズが畝となり、ジャガイモの花が土に映えていた。水が張ってある田では風紋を映し、カモやシラサギが餌をついばんでいた。

 一帯は、戦国の時代から米を作り、薪炭などを産出する豊かな村だった。多摩川に接しており、その漁場は本丸御用地だった。多摩川・秋川の合流地であることから筏に組んだ森林材の中継地として村ぐるみで江戸への輸送にあたったという。

城跡を下ると、青天井と田畑が広がっていた

3. 高月城跡

秋川に突き出す格好の防御壁

 高月町の北西端にある高月城は、山内上杉氏の重臣である武蔵国守護代、大石顕重が長禄2年(1458)に築いた。滝山城を本拠とする前の城で、代々の大石氏が住んだ。ここも天守閣はなく、多摩川と秋川の合流地に舌状型に縄張を敷いた。加住丘陵の地形を生かした空堀や土塁が残っていた。「滝山城に移ったのは、時代の形勢で手狭になったから」と須永さんは見ている。

ガイド:須永さん

今回のメインは名城滝山城。城と言えば天守閣と石垣が思い出されますし、戦国史の中で、秀吉の大軍に敢えなく下った北条氏は、多摩地区の旧主でもあるのですが、我らが歴史認識では印象が薄い。築城の歴史を説明する地域性・時代性と、北条氏照の頑張りと、強軍武田信玄との関わりを知っていただいて、コース案内しつつ城郭防備の諸工夫をどうご理解いただくか?  はてさて、楽しんでいただけましたかしら?

4. 森田家住宅

江戸末期の門、唐破風造りの式台玄関

 一行は、秋川に架かる東秋留橋を渡り、八王子市からあきる野市に入った。小川交差点近くに江戸末期建造の厳かな一間薬医門を構えた森田家があった。現在17代目の家族が住む元名主の家。江戸末期には酒造も手掛けた。

 敷地中央に位置する主屋の唐破風造りの式台玄関は、やや反りを持たせた梁に繊細な化粧を施した二重虹梁(こうりょう)で組んでいる。土蔵造り2階建ての見世蔵、前の蔵、味噌蔵など6蔵で構成している。中でも御看経堂(おかきんどう)といわれる土蔵造りの持仏堂は旧家としての貴重な建物であり、参加者が手を合わせていた。

薬医門と蔵構えの豪壮な森田家住宅

5. 前田耕地遺跡

狩猟と漁労の生活見える

 森田家からほどなくしてあったのは前田耕地遺跡。あきる野市には遺跡が多い。昭和51~59年(1978~84)の調査の結果、前田耕地遺跡は1万3000年前の縄文時代草創期の住居跡で、国内最初の発見例だった。復元された遺跡の前で、ガイドの菊池等さんは「1軒の住居跡からクマなど動物の骨やサケの顎歯8000点が出土し、国内最古の漁労活動を示す資料」と解説。サケが遡上する秋、前田耕地遺跡に近い二宮森腰遺跡に住んで漁労具の石槍などを作ったと考えられることから両方で暮らしていたという分析結果を披露した。終盤にあきる野市の郷土施設「二宮考古館」で他の多くの展示品を目の当たりにした。

ブロックで囲われて再現された縄文遺跡の住居跡

西多摩最大の住居跡資料の展示もある二宮考古館

前田耕地遺跡の場所は、秋川から約1㎞北側にありますが、当時(約1万3000~9000年前)は、この遺跡のすぐ近くを秋川が流れていたことが分かり、秋にサケが川いっぱいに遡上して来る姿が目に浮かびました。そのサケを越冬の食料にするべく住み分けて漁労活動を行っていたという事実、現地を見て改めて分かりました。展示会場ではガラスケースの中でしか見られない土器片や石器、鏃などですが、私が郷土でみつけた土器片を持参して参加者に手に取って頂きました。その体感は、いかがだったでしょうか。

ガイド:菊池さん

6. 廣済寺・田中丘偶の回向墓

民の暮らしを守った田中丘偶

 川といえば、水をイメージする。多摩川や荒川の治水、二ヶ領用水、大丸用水の改修工事、相模国酒匂川の補修で「弁慶枠(弁慶土俵)」を考案した田中丘偶は、寛文2年(1662)、現在のあきる野市平沢に生まれた。その回向墓(享年68)が廣済寺にあるというので足を延ばした。

 丘偶は、絹織物の行商をしながら見聞を広め、養子先の東海道川崎宿本陣の田中家で名主、問屋役も兼任した。自身で宿場の復興と繁栄をつづり、幕府に民政を述べる「民間省用」を献上して川方御普請御用を命じられたことで各所の治水や改修工事に携わった。その業績が認められて武蔵国3万石の代官になった。いわばたたき上げのお代官で、多摩地域ゆかりの歴史的重要人物の一人だ。

功績が刻まれた田中丘偶の回向墓

7. 二宮神社

幻の二宮城はどこに・・・

 最後の訪問地、二宮神社だ。平安中期の天慶年間(938~947)、藤原秀郷が創建したと伝わる。秀郷は天慶の乱(平将門の乱と藤原純友の乱を総称した「承平天慶の乱」ともいう)で先勝祈願・乱平定の奉賽に社殿玉垣を造営したという。源頼義、北条氏政が篤く敬い、滝山城主となった北条氏照は自らの祈願所とした。さらに徳川家康以来15代にわたって朱印を受けた。境内の発掘調査では縄文から鎌倉時代の住居跡や経塚、遺物が出土しており、大石氏居城の存在が完全に否定できないことなどから東京都指定旧跡になっている。
 なぞとロマンがあふれるコースの一幕に加えたいのは、二宮神社の「しょうが祭り」だ。近辺の農家で収穫したショウガを神前に供えたことから、このショウガを食べればカゼをひかないなど厄除けになると伝わる。9月8、9日、神社周辺は例年、ショウガを売る露店と、それを求める人で賑わう。

二宮の地で、大石氏が5代に渡って居城したという二宮城、その所在地に関しては幾つもの説があります。長尾景春の乱のとき、景春に同心した大石駿河守が守る二宮城を上杉定正が攻撃し、これを破ったということです。この二宮城は果たして何処にあったのでしょうか? その所在地が気になります。

ガイド:前田さん

【集合:JR八王子駅 午前8時45分/解散:JR五日市線東秋留駅 午後3時5分】