布袋は「ぬの・ぶくろ」とは読まない。「ふ・たい」でもない。読み仮名は「ほてい」だ。
七福神の布袋
幼少時から、寺社に出向いて本堂本殿奥の神仏に向かって手を合わせて拝んできたが、はてさてどんな姿の神仏か、どんなご利益のある神仏かも尋ねもせず調べもせずに、歳を経て来た。そんな身近の神仏の来歴・ご利益の中身を探って来たこのシリーズでは、今年の正月を挟み七福神の神々を取り上げている。七福神が、インド・中国とわが国の神々の寄せ集め集団ということで、インド由来の毘沙門天・弁才天・大黒天、日本古来のえびす様に続き、今回は中国由来の「布袋」様を紹介する。この布袋様こそ、七福神の中でも、唯一の実在人物にその由来をもつものだ。
実在人物由来の中国神
布袋(生年不詳~917年)は、唐代末から五代時代にかけて明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したといわれる伝説的な仏僧。契此(かいし)(または、釈の名をつけて、釈契此)という仏僧がそのモデルになったといわれている。各地に杖を突いて行脚し、訪れた先々でたくさんの貧しい人々に出会い、人々に救いの手を差し伸べ、袋の中から必要な物を与えた。救われた人から御礼にと戴いた物などはまた袋の中に入れ、再び行脚の旅に出る。これを繰り返しているうちに袋はどんどん大きくなっていき、このいつも担いで国中を旅していた布袋から、いつしか「布袋」(ほてい)という俗称で呼ばれるようになる。袋の中には人々の感謝と慈悲の心が詰まっていたといわれ、その姿は風変りであったが素直な気持ちの持ち主で、人々を満ち足りた気持ちにさせる不思議な力を持っていたという。ある伝説では雪の中で横になっていても、布袋の身体の上だけには雪が積もっていなかったという。また人の吉凶を言い当てたなどという類の逸話も伝えられる。偈や歌も残しており、歌の中では、心の真実の大切さや、閑たる心境を求めることを説く。その最期についても不思議な逸話が伝えられており、917年に奉川県で亡くなり、埋葬されたにもかかわらず、後日、他の 州で見かけられたというのである。
中国浙江省杭州市飛来峰石窟造像群中の布袋像 Wikipediaより
「布袋図」葛飾北斎作 Wikipediaより
太鼓腹の好画題
布袋は、ご存知のように、水墨画の好画題にされ、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。没後余り時を経ないうちから、布袋の図像を描く習慣が中国の江南地方で行われていたという記録もあり、中世以降、中国では布袋になぞらえた太鼓腹の姿が弥勒仏の姿形として描かれるようになり、寺院の主要な仏堂に安置されるのが通例となった。我が国では、鎌倉時代以降、禅画の題材として布袋が受容された(布袋は禅僧ではない)。庶民には福の神の一種として信仰を集め、室町時代後期には七福神に組み入れられるようになった。肥満体の布袋は広い度量や円満な人格、また富貴繁栄をつかさどるものと考えられ、所持品である袋は「堪忍袋」とも見なされるようになった。 布袋図も当初は弥勒菩薩の化身として描かれていたが、次第に「腹さすり布袋図」や「眠り布袋図」のように人間的な「布袋図」も描かれるようになった。
台東区三ノ輪 寿永寺の布袋像
台湾 宝覚寺大布袋像
未来仏:弥勒菩薩の化身
その徳の高さから布袋は、いつしか中国の弥勒菩薩信仰と交わって「弥勒菩薩の化身」といわれるようになった。弥勒は現在仏である釈迦牟尼仏の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされている。日本では奈良の中宮寺や、京都府広隆寺の弥勒半跏思惟像が著名。中国や台湾では、「弥勒(ミロフ)」と呼ばれており、これらの地域では現在でも弥勒信仰が深く、しばしば寺院の入口に祀られ、参拝すると布袋和尚から徳を授かるといわれている
日本に第三の禅宗として渡来した京都の黄檗宗総本山萬福寺では、毎年2月と8月を除く毎月8日、布袋尊(弥勒菩薩)の縁日(生誕・降臨の日)に因んで、「ほていまつり」を開催している。
京都 黄檗宗萬福寺の弥勒菩薩(布袋)坐像 萬福寺homepageより
調布常性寺の三福布袋尊
今年の調布七福神を訪ねた。京王線布田駅北の医王山常性寺は、慶長年間に成田不動尊を勧請した調布のお不動さんで知られているが、七福神の布袋尊を祀っている。布袋尊は、福寿・福徳・福相を招く三福布袋尊として、「どんな時にも笑顔をもって人々に接する態度、うちにはしっかりとした意思をもち、大きな度量と正しい行動のとれる福運」を授けてくれるという。
調布市 常性寺の三福布袋像
参考資料: Wikipedia、萬福寺homepage