国道20号を東京から甲府方面に向かう八王子市大和田町3丁目で、多摩川の支流浅川に架かる大和田橋を渡ります。太平洋戦争末期の昭和20年8月2日に、アメリカ戦闘機B29が67万個の焼夷弾で市街地を火の海とした八王子空襲がありました。大和田橋の歩道にはその時の焼夷弾の跡が残っています。
焼夷弾・弾痕の保存について
八王子市は太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に米空軍のB29爆撃機180機の空襲を受け、約450名が死没2,000余名が負傷し、旧市街地の約80%の家屋が焼失する被害を受けました。そのとき多くの市民が大和田橋の下に避難し、尊い命が助かりました。
大和田橋の歩道上には、この空襲のとき投下された焼夷弾の跡が17箇所残っています。 車道の部分は過去の補修により、弾痕は残っていませんが、現在歩道上に残っている弾痕の数から推測すると橋全体では約50個以上の焼夷弾が投下されたと思われます。建設省相武国道工事事務所では、この大和田橋の補修工事にあたり焼夷弾の残痕を保存し太平洋戦争の痕跡 を永く後世に伝えるものです。
弾痕の保存については、上下歩道上各1箇所は透明板で覆い、他15箇所は色タイルで、その位置を示してあります。
平成9年10月 建設省関東地方建設局 相武国道工事事務所
大和田橋北詰、南詰に設置された案内板より
戦後75年、昭和・平成・令和と時は移り、戦争が終って生まれた子ども達も老人と呼ばれるようになりました。8月に入り、今年も戦争の話が報道されるなか、以前に見た大和田橋の焼夷弾の跡を思い出し出かけてみました。
今年は新型コロナ感染症の拡大のため東京オリンピック・パラリンピックは延期となり、いつ収束を迎えるかわからないほか、例年にない猛暑で熱中症も心配され一日中エアコンのお世話になるなど大変な日々が続いています。
8月16日の終戦記念日翌日に、改めて透明版に覆われた焼夷弾の残痕を見ながら、今この時の平和であることに感謝しました。
大和田橋は75年間、焼け野原からの戦後の復興を始め様々な時代の移り変わりを眺めてきたことでしょう。この日、浅川は静かに流れていました。