八王子市郷土資料館に於て開催されている「織物の八王子」展に行って来ました。(開催期間は8月2日まで)
古くから「桑の都」と呼ばれた八王子、江戸時代から農家の副業として養蚕と機織りが行われてきました。今回の特別展は戦後から現代までの「織物のまち 八王子」が紹介されています。
明治時代、大正時代と「織物のまち」として発展してきた八王子ですが、太平洋戦争下の統制により多くの機屋が廃業し、さらには八王子空襲により織物業は壊滅的打撃を受けました。戦後は織物業者の尽力により復興計画が進められ、同時に衣料不足から織物の需要が高まり昭和20年代半ばには「ガチャ万景気」といわれる好況期をむかえました。
昭和30年代(1955~)に入り、生活様式が洋風化すると洋服感覚の着物が求められるようになり、織物産地ではウール素材の着尺の開発が進みました。八王子では昭和30年(1955)ジャカード機で紋紙を使い模様を織る「紋ウール」、その後シルクウールの着物が登場しました。「紋ウール」の着物は単衣仕立て、保温性があり暖かい、ドライクリーニング可能、さらには、しわになりにくくミシンで仕立てることができるという多くの利点があり全国で人気を集めるようになりました。
展示会場では『丹波』という商品名を付けたウールの着物が俳優丹波哲郎がモデルのポスターの粋な和服姿で紹介されています。
大正末に初めて作られたネクタイ地の生産が全国の約7割を占め八王子の織物業界が活気にあふれていた頃、昭和35年(1960)7月には八王子織物協同組合により国鉄八王子駅(現・JR八王子駅)の北口に織物タワーが建設されました。(平成7年(1995)北口再開発で解体撤去され、代わってモニュメント「絹の舞」が建てられました。)
昭和40年代(1965〜)後半には女性の着物も普段着から外出着となり、着物離れが進んでいったことから 若い女性向けのウールのアンサンブルなどを新しい商品として紹介し 、展示会、全国各地での宣伝会等を積極的に開催しました。さらには、新たな試みとして着尺から服地への転換が研究され、ネクタイの他マフラーなどの生産も盛んになりました。大正から昭和の初め頃完成した紋織の「多摩結城」は戦後その生産が再開され、現在も伝統工芸品として織られています。
年代を追って八王子の織物の移り変わりをみてきましたが、故郷山梨でも子どもの頃(昔の話になりますが)紋紙を使って機を織ると、杼が飛ぶ(経糸の間に緯糸を通す)たびに「ガチャン、ガチャン」と音を立てていた機屋さんがあったことを思い出しました。大正生まれの母の普段着は着物にやの字の帯と白い割烹着でした。時には母の遺した着物を着てみようかと思っています。
参考:展示会場掲示物
☆ 祝!日本遺産認定ー企画展「高尾山と桑都八王子絵巻」が郷土資料館にて開催されています。(7月4日~10月11日)