新風が吹く多摩川 ママチャリで走る

1月にしては珍しく3月中旬の陽気になった日、近所の庭でカンザクラが咲いているのを見て血が騒いだ。新年の新風に身を置きたい気持ちが抑えられなくなって、20年来愛用しているママチャリに乗って多摩川沿いを走った。羽村堰(羽村市羽東)から河口(大田区羽田・川崎市川崎区)までの多摩川堤防左岸を利用したサイクリングロード「たまリバー50」(延長53km。昭和50=1975年完成)だ。2026年に因んで26km区間の羽村堰から多摩川原橋(調布・稲城市)まで行き着いたとしても帰って来なくてはならない。これまで2度、全区間を走破しているとは言いえ、当時の自転車は16段変速で、20年以上も前のことだ。団塊の世代であり、普段、体力増進のための運動をしておらず、完走できるのか。不安は、すぐにやってきた。最大の障壁は脚だけではなかった。気力が高まらなかった。結局、「たまリバー50」のごく一部の羽村堰ー福生・昭島市境の、いつもの区間でリタイアしてしまった。そうは言うが、この区間ならではの見どころに1月の風を感じて楽しんだ。 土手から見る広がりがある光景や碑、木々などに日常の人々の暮らしや歴史、世相に人の姿を見たように感じた。
人の生きざまに似る水の流れ
羽村堰の広場には先客がいた。ベンチに座って本を読む人、散歩をする人も行き交う。休憩中のサイクリングスタイルの人もいる。流水の多摩川に眼を転じると、冬の水面は青い空を映している。立つ場所を変えれば、水面は日光を浴びて光っている。流水は石を除け、中洲を避けて蛇行しており、人の生きざまに見えてくる。美空ひばりの最後のシングル曲になった『川の流れのように』の歌詞の光景がここにあった。

江戸時代の堰止め方式を継いでいる羽村堰。玉川上水の余水分を吐き出して多摩川に戻している。令和元年秋の豪雨で傷んだ川床などの工事が続いている

東京の水道ルートが分かる

多摩川水系は、都民の水を2割ほど賄っている。羽村取水口は9口で、玉川上水へ送り込む水量の余分な量は小吐水門を通して多摩川へ戻している。高い塔からは上流の小作浄水場(羽村市羽西)へ汲み上げている。いったん玉川上水に入った水は、第3水門から地中の導水管で山口貯水池(山口湖。所沢市勝楽寺)へ自然流下させて村山貯水池(多摩湖。東大和市多摩湖町)を通じて東村山浄水場(東村山市美住町)へ直送している。これとは別に山口貯水池の水は東村山浄水場へ直送している分もある。羽村堰の第3水門を通らない玉川上水の水は、下流の小平監視所(立川市幸町)から東村山浄水場へ送っている。
羽村堰で見た玉川上水を流下する水の流量の多さと水流の速さに身が引き込まれそうだった。飲み込まれると、ひとたまりもないだろう。都民の水の要になっている東村山浄水場へは利根川水系の水を取り込んでいる朝霞浄水場(朝霞市宮戸)からも原水連絡管を通じて入り、都内へ送水している。羽村堰に立つと、東京の水路が分かる。

玉川上水へ取り込む水門。奥が取り入れ口、手前は小吐水門(羽村堰で)

玉川上水の水量の多さとその流水の速さに目を見張る(羽村堰で)

いまも江戸時代の方式で水溜め
多摩川から玉川上水へ水を取り込む方式は、羽村堰独特だ。そのシンボルは多摩川左岸に設けられている投渡堰(ながわたしせき)だ。堰の造りは、こうだ。
支柱の支えに桁を渡し、1m間隔で仕切りを設け、それぞれにそだや木の皮を束ねて入れている。通常の水流に流されないようにそれぞれの仕切りに砂利などを用いて水を堰止めしている。江戸時代から伝わる方式を基本にしているという。明治時代以降にコンクリートや今のような鉄骨になったが、そだや木の皮、砂利などを使っているのは変わらない。
筏乗りが身構えた堰
ここはまた江戸時代以降、西多摩地域の林業を支えたシンボル的な堰でもある。大正時代まであった筏通場がそれだ。多摩川上流の山間地の一大産業だった青梅材を筏に組んで多摩川を連ねて江戸市中へ盛んに輸送した。
一方で羽村堰は、筏乗りにとって筏通場が狭く、最大の難所だった。享保3年(1718)、江戸幕府は筏が通過することで堰が破損するという理由で筏通しを全面禁止にした。これに対して羽村以西の三田領42か村の筏師が幕府へ筏通過の再開を嘆願した。3年後に新たな筏通場が開設されたものの、特定の日時に限ったものだった。堰の広場から見下ろす多摩川の流水面から響く筏乗りの歌声を想像した。『きのう山下げ きょう青梅下げ あすは羽村の堰落とし』と歌いながら川下げした筏乗りたちの歌声も大正時代以来、消えた。

河畔林の木を使って治水に生かした牛枠(羽村堰の広場で)

治水に役立った牛枠
堰の広場には、もうひとつ見たいものがあった。牛枠(川倉水制)だ。昭和32年(1957)に小河内貯水池(奥多摩町原)が完成するまで普段の多摩川の様子は、いまよりも水量が多かったが、穏やかに水は流れていた。流域の人々は身近な素材を生かして水など自然とともに暮らし、川を治めていた。牛枠は「聖牛(せいぎゅう)」とも「笈牛(おいうし)」、「鳥脚」などともいわれる治水技術を表した手作りの道具で、水の勢いを弱めて堤防の決壊を防いだ。
牛枠は、堤防に植えた河畔林の木を伐って組み立てたもので、木材だけでは水に浮くため、川床の玉石を蛇籠に詰めて固定した。形は三角錐。これを水に沈め、水流を弱めて難を逃れようとした。堤防を強化するために植えた木々を治水に転用するなどして知恵を絞った。10年程前まで右岸の羽村市郷土博物館(羽)付近の水辺に牛枠を再現していたが、朽ち果てたのか、増水で流されたのか。いまはない。堰の下流や右岸では令和元年(2019)10月の台風19号で損壊した床止めや周辺の護岸工事が今年3月まで行われている。重機が動く上空の青い空にモーターパグライダーが東へ向かって飛んでいた。

大河を思わせる幅広い水面の多摩川。下流に架かるのは羽村大橋(羽村堰下橋で)

紅い水面に広がる水紋
この付近へは普段、何度となく足を運んでいる。昭和54(1979)年3月に竣工した羽村堰下橋の人道橋に立っていたある日の光景が蘇った。太陽が傾き加減のころ、紅い水面に浮かぶ十数羽のカモが群れで、あるいは単独で泳いでいた。カモの周りにできた水紋は、まるでリモコンのモーターボートが白波を立てて美しく走る光景に似ていて釘付けになったことがあった。気象と鳥の事情、時刻によってこんな光景に巡り合えるのだと実感したものだ。

ケヤキが伐採された跡が残る土手の根(羽村大橋下流で)

伐られた大木が語るもの
羽村大橋(羽村市玉川)下流の土手の内側に伐採されたケヤキの大木の根が残っている。伐られたのは10年以上前だった。河川敷には林のように木々が生い茂るのと違って堤防の内側斜面の上部で幹が立ち、枝を張った一本木が単調な風景の堤防に立体感を出していた。夏は日影に、季節とともに葉の色映えを楽しんでいたものだった。伐採に驚き、河川を管理する国土交通省京浜河川事務所に聞いたことがある。「樹齢100年以上と思われる大木ですから私も個人的には伐るのは心苦しい。でも、ケヤキがあることで増水時に根が洗われて土手が決壊する恐れがあることを考えると……」という、あの言葉が耳に残っている。治水対策で林を育てたのは水辺側ではなく土手の外側だったのか? 伐られたケヤキの近くの水辺にはいまも土手の高さ以上の背丈があるヤナギが季節になると、垂れ下がった枝は風任せでしなやかに揺れる。

「たまリバー50」に指定されている福生支線だった砂利軌道跡のY字路。自転車愛好者は上流の羽村堰を目指していた。奥はかに坂公園

砂利軌道跡もサイクリング
多摩川の左岸側に玉川上水の雑木林が連なり、右岸側に都立羽村草花丘陵の尾根が延びている。双方の林に挟まれた中を多摩川はゆったりと流れている。その分、サイクリングロードからの眺めは良好だ。しかも、東へ向かって緩やかに下っているのだから気分は軽い。
自転車道は、やや左へ向かう玉川上水へのY字地点にやって来た。この辺りの自転車道は、元は福生砂利軌道跡だ。多摩川で掘った砂利を輸送するために大正2年(1921)と昭和2年(1927)に青梅鉄道福生支線として整備した。Y字地点から東へ30mほどで玉川上水に架かる加美上水橋(福生市福生)は当時の様子を表す架橋だ。
Y字地点から坂を下りた所がかに坂公園(福生市福生)。広い芝生が広がる。引っ張ったゴムの弾力で紙飛行機を飛ばして滞空時間を測っている男性がいた。親子も戯れている。近くのベンチでは日光浴がてら読書をする人の姿も。野鳥がにぎやかに合唱しているのが響く。それぞれに自由空間を楽しんでいることを印象付ける。そんな中で注意書きが目に飛び込んできた。『イノシシが目撃されています』。ドキッ! 住宅街が迫っているのに?と周囲を見回した。

イノシシが現れたと注意を促す表示の脇をウォーキングする人(かに坂公園で)

ホバリングするカワセミ
さらに東へとママチャリのペダルを踏んだ。右手の水面を見る。ダイサギが首を湾曲させて水の中を抜き足、差し足、忍び足で魚に近寄る。遠巻きにしているのはカモたち。カワセミは枯れ枝から2度3度と飛び立ってその都度、ホバリングした後、水にダイビングする。その行動は素早い。多摩川では水鳥の息遣いが分かる。
永田橋の東詰めに着いた。青梅線福生駅西口から延びる永田橋通りだ。ここで意外なモノに出合った。携帯電話の保有が広まり、全国各地から消えつつある公衆電話ボックスだ。懐かしくて中をのぞき込んでしまった。裏手には永田町住民が拠り所にしている堰上明神社があった。境内と児童遊園が掃き清められて新年の香りがする。

サイクリングロード脇にあった公衆電話ボックス。奥は永田橋

こじんまりした堰上明神社を囲む大木のケヤキが風格を表していた

再生期待してボランティア
永田橋の下を通り抜けた自転車道の先が福生緑地の柳山公園(福生市北田園)だ。ここも私が好きな自然空間の一つだ。幅30mほど、長さ100mほどの細長い公園で、いまは裸木で落ち葉が地面を敷き詰めている。この光景は季節ごとに変わる。中でも樹齢100年は当たり前といわんばかりのケヤキをはじめ、クヌギ、サクラなどがそれぞれに太い根を大地に差し込んでいる。多摩川の水面も樹幹越しに楽しめる。

交通量が多い永田橋通りの騒音が気にならないほど柳山公園は静か。大木のケヤキやクヌギ、サクラ、イチョウなどが林立している

柳山公園の近くは水鳥のスポットだけではない。この周辺には絶滅が心配されているカワラノギクが自生しているようだ。夏や秋に保全ボランティアが再生活動に取り組んでいる。カワラノギクは以前、見たことがある。草丈が50㎝ほど。秋には枝分かれした先で直径3、4㎝の薄紫色の可憐な花だった。花びらは、ひんやりと冷たく、軟らかい。色は鮮やかだった。カワラノギクは多摩川中流域の河原で発見された野草で、相模川(神奈川県)でも見られるという、ごく限られた河原に自生している貴重種だ。

餌を狙うサギ。各所で野鳥が見られるのも多摩川の特徴

枯草の下は餌の宝庫らしい。小鳥たちは群れで夢中になって嘴をつついていた

ここはまた福生水辺の楽校の舞台でもある。子どもたちが楽しく自然に親しめるふれあいの場として季節に合わせて同市内の多摩川全域を遊びや水辺の教室として環境学習している。
山並み一望の河川敷
さらにママチャリは下流へ向かう。五日市街道が多摩川を渡る多摩橋の下を通り抜けた。目の前に多摩川中央公園(福生市北田園)の広場が展開しており、遮るものがない。公園は河川敷を利用して平成2年(1990)に開園した。柳山公園と同様に細長い。芝生の広場や玉川上水の田村分水の水が園内を巡っている。バーベキュー広場やジョギングもできる周回コースなどがある。自転車の乗り入れは入口まで。自転車は土手上のコースを走ることになる。

玉川上水の田村分水の水を園内に廻らしている多摩川中央公園

土手から山並みを一望した。南の富士山(3776m)から始まって西へ向けて生藤山(990m)、松前山(934m)、三頭山(1531m)、馬頭刈山(884m)、大岳山(1266m)、本仁田山(1225m)などがスクリーンになっていた。
氾濫を繰り返した川
自転車をいったん止めて中央公園に面した多摩川の水辺に近づいた。ここには目新しいコンクリート製の護岸が数十メートルにわたって続いていた。傾きかけた直射日光を受けた護岸のコンクリートは眩しく反射していた。

命を守る護岸。多摩川中央公園も度々水害に見舞われてきた

多摩川は一級河川の中では勾配が急な河川であり、古代から「あばれ川」といわれている。全国の河川の中で急勾配の川は常願寺川(富山県。カッコ内は源流)を筆頭に富士川(静岡県)、多摩川(山梨県)、荒川(埼玉県)がある。普段は穏やかながらも上流でいったん大雨が降れば、下流域では氾濫の危機が迫る。多摩川は、まさにこれに当てはまる。国道交通省京浜河川事務所が調べた多摩川の歴史を見ると、繰り返し氾濫に襲われてきた。昭和49年(1974)の大型台風16号の豪雨で9月1日、狛江市の堤防が決壊して住宅が流されたのは一例だ。
河川土木技術を高めた
江戸時代に誕生した川除御普請御用として幕府の治水事業に携わり、多摩川の治水に努めた田中丘隅(1662~1729)がいた。あきる野市出身だ。丘隅は農政に一過言持っており、関東地方御用達掛だった大岡忠相や8代将軍徳川吉宗らが丘隅の存在を聞き及び、農政や水利に関して意見を聞いた。丘隅は後に川方御普請御用に任命され、荒川の水防工事、多摩川の治水、二ヶ領用水、大丸用水、六郷用水を改修、相模国酒匂川の浚渫・補修などを手掛けた。丘隅が手本にしたのは多摩川流域の河川土木技術だったと言われるほど全国の河川土木技術に影響を与えた。丘隅は多摩川に育てられたと言える。

近くに渡船場があったことを示す「石濱渡津跡」の碑(多摩川中央公園で)

茶屋や旅籠もできた渡船場周辺
多摩川中央公園の中ほどに歴史を物語る碑がある。牛浜の渡し碑だ。碑には「石濱」とある。石濱は古来から牛浜を指すとされてきた。碑石は風雪を感じるほどに黒ずんでいる。昭和39年(1964)に牛浜大坂(福生市熊川)に建てられたが、牛浜渡船場跡に近い同公園の開園に合わせて移設した。
福生市内にあった多摩川の渡船場は、上流から福生の渡し(現在の永田橋)、中流の牛浜の渡し、下流の熊川の渡し(小川の渡しとも。睦橋)があった。牛浜の渡しは、五日市と江戸を結んでいた重要路、五日市街道の福生側とあきる野側を結んでいた。渡しを待つ間に時間をつぶすための茶屋や食事処などが開設されたほか、集落形成にもつながった。大雨が降ると、渡しは増水を避けて欠航した。足止めに遭った客向けの宿もできた。大正14年(1925)に多摩橋(福生市北田園―あきる野市平沢)が架かり、五日市鉄道が敷かれて渡しの役目を終えた。
態勢立て直した尊氏が勝利
牛浜には674年前に武蔵野合戦で戦った足利尊氏勢が逃れてきたといわれている。尊氏は南北朝時代の観応3年(1352)2月20日に武蔵国人見原(府中市)、金井原(小金井市)で新田勢と対戦したが、苦戦の末、石浜(牛浜説が有力)に逃れてきた。窮地を脱した尊氏は28日に体勢を立て直して小手差原(所沢市小手指)・入間河原(狭山市)などへ向かって再び戦いに臨んだ結果、新田勢を破ったと碑の標柱は説いている。

冬枯れの桜並木。硬い蕾がやがて膨らむのを期待しながら散歩する人が多い(福生市南田園で)

半世紀がかりで宝の木に
ママチャリの多摩川旅は続く。JR五日市線鉄橋を潜って、再び多摩川沿いの土手に上がった。これまでペダルを踏んできた柳山公園から下流の左岸に続く睦橋(福生市南田園)までの土手沿いは桜の並木だ。開花期には大勢の花見客がやってくる。
桜並木になったのは60年ほど前だ。桜まつり実行委員会が30周年を記念して平成25年(2013)4月に明神下公園に建てた標示板によると、当時、一帯は春にレンゲの花が一面に広がり、牛が草を食む田園だったそうだ。昭和35年(1960)に当時福生町長に就いた瀬古清蔵さんが名所づくりを思い立って左岸の堤防外側に桜を植えたのが始まりだった。翌年から2年がかりで柳山公園から睦橋まで約2.5kmにわたって700本ほどを植樹した。だが、桜は堤防の砂利に耐えられず枯れた。何度も植え直した。昭和43年、町議会議員が250本の苗木を植えた。昭和49年には市民団体が80本を植樹した。昭和57年、手づくりの桜まつりの開催に漕ぎつけた。現在のように実行委員会開催の桜まつりになったのは植樹開始から四半世紀ほど後の昭和59年だった。
平成18年(2006)には樹木医が全部の桜を診断した。伐採せざるを得なかった木もあった。保全に努めてきた甲斐があり平成25年、福生市の宝の木247本は大木に育ち、桜まつりの人出は例年、数万人に及んでいる。【桜開花期の状況は、多摩めぐりの会HP「多摩の桜百景」2020年 多摩西部エリアをご覧ください】
熊川分水の水も潤いに一役
「たまリバー50」のロードは、さらに東へと延びる。ママチャリは脚に腰にと重く感じるようになってきた。睦橋の下を潜った。熊川地域に入った。左手に延びる段丘から切れ落ちた多摩川河川敷の空は広い。ここは福生市南公園だ。管理事務所があり、その前に耐久性貯水槽を据えて大災害時に生かす狙いだ。イベントエリアの「ちびっこ広場」やテニスコート、野球場、バーベキュー広場もある。空を遮る建物がないのがサイコーだ。公園脇の段丘沿いの小川に流れるのは玉川上水の熊川分水の水。この小川に白と黄色混じりの毛羽を覆った小鳥が水中に嘴を入れて小魚をついばんでいた。小川の対岸は昭島市立水鳥公園(拝島町)だった。

熊川分水が流れる小川にも白と黄色の毛を覆った小鳥も(福生・昭島市境で)

眼と心に新風を吹き込んでくれた新年の多摩川。途中でペダルをこぐのを止めて写真を撮り、元来た道を戻り、説明板を読んだりしながらの旅で、走った距離は、たったの3km余り。慣れ親しんだ道を再度訪ねた甲斐があって別の眼を持たせてくれた。まだ知らない多摩川の顔に巡り会いそうだ。また来よう。

時間が止まったような水鏡の多摩川に気持ちが和らいだ。奥は八王子市の滝山丘陵(福生市南公園で)