
モダンなヒノトントンZOOのゲート
わが家から自転車に乗って15分ほどでヒノトントンZOO(羽村市動物公園。羽村市羽)に着いた。昭和53年(1978)5月に当時、全国初の町営動物公園として開園して話題になった。以来47年。大型動物であるアミメキリンを展示飼育している動物園は都内で上野動物園と多摩動物公園のほか、ここヒノトントンZOOだけだ。入園して一直線にサバンナ園にいるキリン舎へ向かった。

武蔵野の風情も楽しめる木陰続きの園内
500点余りの生きものが近距離
このZOOは、武蔵野の典型ともいえる雑木林で構成する。市有地(7264㎡)のほか、大部分の国有地(3万5427㎡)を無償で羽村市が借り受けている。総面積の約3分の1を動物園、残りの部分を一般公園に区分している。動物園にはアミメキリンやシセンレッサーパンダ、鳥類など68種508点(令和7年1月1日現在)を飼育展示している。キリンやシマウマなど大型の哺乳動物と入園者の距離が近いのが特徴だ。年間の入園者は21万人以上だという。令和4年(2022)4月からネーミングライツを導入してパートナーに日野自動車(株)を選定した。動物園名を「ヒノトントンZOO」に変えて新たな運営をしている。また令和6年度から3年間、管理運営に(株)横浜八景島があたっている。

タツキ(左)とゲンキ。仲良し父子の動きが優雅だった
タツキとゲンキの父子
サバンナ園のキリン舎にはアミメキリンとグランドシマウマが同居して、近くにはホオジロカンムリヅル、ホオカザリヅルがいる。
長身のキリンは2頭。タツキは石川動物園生まれ(2012年11月12日)の12歳。体の色が黒いのが特徴とか。飼育員や入園者に甘えるような仕草をして可愛い。もう一方の「ゲンキ」は、平成29年(2017)7月21日にご当地・羽村で生まれた。間もなく8歳になる。父親はタツキ。神経質なのか、感情をすぐに表に出す繊細な男の子だ。すでに父の背を越している。父子は、柵で仕切られた放飼場にいるが、長い首だから顔をこすり合わせる動作で気持ちを通わせているのだろう。

飼育員が手に持つシラカシを気にするタツキ(左)とゲンキ

入園した子どもからシラカシをもらって食べるタツキ
好物を与えて親しみ増す
毎日午前に行っている「もぐもぐガイド」では飼育員がキリンの舌が45㎝もあるなど特性を話しながら入園した親子連れが差し出したキリンの好物であるシラカシをもぐもぐ。キリンはうまそうに食べていた。歩く姿は水を打ったように静かで、流れるように足を運ぶ。背も首も揺れない。キリンのイメージ通り、信頼、安定、躍動感を肌で感じた。だが、ひとたび危険を察知すると、走る速さは時速80kmにも及ぶ。睡眠時間は一般的に3~4時間だそうだが、熟睡するのは一日に延べ10~30分程度。それも立ったままだ。長い首を構成するのは人と同じ5つの頸椎だそうだ。
同市が令和7年3月にまとめた「羽村市動物公園の在り方に関する基本方針」の中で「人気動物」15種のトップに位置付けているのがアミメキリンだ。2位のフンボルトペンギンが獲得した131票を58票も上回って堂々の1位。3位は80票のシセンレッサーパンダ。

キリンの前から離れない家族連れ
第1号のサクラ移送計画
キリン放飼場の前にあったベンチに座ってキリンの様子を眺めていて過日のキリン移送の様子が蘇った。羽村町動物公園が開園した2年後の昭和55年(1977)2月、取材記者として多摩動物公園を担当していたことから羽村町動物公園の初代となるキリン「サクラ」の移送計画を知り、フォトグラフの紙面に仕立てた。
多摩動物公園では移送の数日前からサクラが普段見慣れない箱に違和感を持たないように慣らしていた。移送当日の早朝から多摩動物公園園長や飼育担当者、獣医らが箱を取り囲んでいた。サクラは、この日はすんなり箱に入り、トラックに乗った。計画の移送経路にある電線や信号機など長身のサクラにとって障害物になりそうなルートを避けなければならい。下見や計画は万全だった。多摩動物公園から羽村町動物公園まで25kmほど。トラックをゆっくり走らせて出発から飼育舎に入るまで2時間弱かかった印象だ。なんら問題がなく、羽村のキリン舎に入ったサクラに安堵したものだった。
輸送中、キリンの様子を見ていただけではない。時折、箱から顔を出すサクラを見た路上の人たちは『あれっ!?』と思ったのか、振り返る姿にも目を凝らしていた。44年前の出来事か……。ヒノトントンZOOにはもうサクラがいない。キリンの生存は長くて25年ほどといわれる。
ロバの足に見えた160年前
ベンチに座ってさらに思いをめぐらした。日本人が初めてキリンを見たときのことだ。それは文久2年(1862)というから160年ほど前だ。上野動物園にドイツから初めてキリンが輸入される45年前だ。キリンを見たのはロンドン動物園で江戸幕府が送り出した文久遣欧使節団38人だった。その様子を足はロバ、体は人より高く、首の長さは6尺(1.82m)、頭頂から蹄まで高さ1丈5尺(4.55m)強。木の葉を食べて草を食せず、と書き記した。
日本初の展示は上野だった
上野動物園での国内初展示に至るまで半世紀ほど待たなければならなかった。その日は明治40年(1907)4月3日だった。オス・ファンジ、メス・グレーを一目見ようと駆け付けた入園者は4月だけで28万人を超えたそうだ。だが、2頭を購入する予算措置をしないままにキリンが横浜に上陸したことなどから帝室博物館総長と主事が譴責処分され、上野動物園長は依願退職の形をとって動物園を去った曰くつきのキリン展示だった。
ファンジとグレーには日本の冬の気温は体力を消耗させた。室温を上げるストーブは悪臭を放ち、換気を繰り返すたびに室温が下がった。翌年1月8日、グレーが、3月23日、ファンジが息を引き取った。

子どもが差し出すシラカシを取り合うキリンの父子
工夫凝らした動物とのふれあい
キリンの飼育環境を模索しながら改善されてきた。入園者との関係にも苦心を重ねている。ヒノトントンZOOでは開園以来のねらいである家族の憩いの場として親しんでもらうほか、小動物や鳥類などを主役にした童話の世界を創り、情操教育に役立つと飼育員らが毎日、入園者を待っている。平成22年(2010)5月以来、市立松林小学校児童の通学路として園路を開放している。入園料も18歳未満が無料なのだ。羽村市ならではだ。
同ZOOには36棟の動物獣舎がある。8割ほどの29棟が開園当初の建物であり、耐用年数を迎えるという。今後の運営に知恵を絞っている。それだけに飼育員らが入園者の前に出てエサやり体験をはじめ、夜間の特別ツアー、モルモットとのふれあいなどを考え出して生き物と人との関係の大切さを解きほぐそうとしている。ヒノトントンZOOに再訪して今度は別の生きものも見よう。