23区生まれの筆者が、多摩にはじめて住んだのは、約40年前の府中市押立町であった。府中市南の多摩川沿いの周囲団地の一角である。「押立(おしたて)」という、ちょっと意味不明の町名であった。多摩川を渡れば、向う岸の稲城市に安値スーパーがありと聞き、地図を見ていると、我が府中市押立町と同名の「稲城市押立」を見つけた。多摩川の南北に、同名の町があることは、なぜなのか?と思ったが、疑問を持っただけで、その事情を探りはしなかった。
現在では約30年前に、多摩川では北岸の府中市から、南岸の稲城市に転居した。
多摩めぐりの会で、多摩各地を巡り歩いていると、多摩川周辺で、神社や仏閣が、多摩川の氾濫で、川沿いの地から、北へと所在地を移転した話をよく聞いた。多摩川は、昔からあっちこっちで氾濫を繰り返し、地域の住民から見放されることもなく、いや新たに更におおいな期待を寄せられて、新たな鎮守地を提供し、新たな社や仏堂が設営されてきたわけである。
二つの押立 府中市と稲城市 |
下図は、府中市南東部と稲城市北東部を描いた地図である。
真ん中の少々上に、「押立町」の表示が見える。ここが府中市押立町で府中市最南東にあり、押立一丁目から五丁目で構成されている、人口1万人弱。現在は中央自動車道南の押立4丁目の一部(押立通り、府中市押立文化センター北側道路沿い、)に集落の中心があった往古の村落である。幕末の地誌には、「民戸94軒」とあり、集落としては大きい方であった。
赤線内が、府中市押立町
一方、稲城市の「押立」は稲城市の北東部に位置し、北側に多摩川が流れる。多摩川に沿って東西に長い区域を持ち、西に東長沼、南から東で矢野口、北側で多摩川河川敷を越えて府中市小柳町・押立町及び調布市上布田町と隣接する。人口5千人弱。
赤線内が、稲城市押立町
で、「押立」とは、どういう意味なのか?
押立文化センター前広場に立つ「押立」地名由来碑
押立という地名は、多摩川の氾濫で土手を押し切り土を盛り立てる様に由来すると云われている。「オシ(押す、横から力を加える)」と「タテ(立つ、起つ)」という語源で、ここの地形成り立ちから判断するに「多摩川の強流による圧力が、島を起こした場所」といった意味であろう。その他諸説として、➀多摩川の洪水で村内の水田が押し切られたことから押田、転じて押立となったという説、②押立左近太夫資能がこの地に住み釜吉良将軍家に仕えたという説、③玉川の堤防工事で人夫を大勢押し立てたという説等がある。多摩川の洪水で稲城市押立は、川の中島(中州)であった名残で、多摩川に沿ったアーモンド形の町区画となっている。また、町中はいたるところに用水路が通り『水郷』の様子を呈している。
もともと押立村は、多摩川の現府中市押立にあり、一つであったが、慶長元年(1596年)の洪水の他、江戸時代の度重なる洪水で、多摩川は流路を変え、村が分断されて、いまのように府中と稲城の押立に分かれた。
江戸の万治年間(1658~1703年)頃まで、多摩川は南北の二流に分かれており、その中島に多摩郡押立村の村人が新田開発を行って「押立新田村」が誕生したといわれている。
押立の渡し
稲城と府中・調布間には、4つの渡し場があり、上流から、是政の渡し、常久河原の渡し、押立の渡し、矢野口の渡しの4ヶ所であった。このうち是政、押立、矢野口の渡しは、人や物資の運搬に利用された一般の渡し場だったが、常久河原の渡しの渡しのみは対岸の耕作場へ行くための個人的な作場渡しで、一般の乗客を対象にしたものではなかった。
押立の渡しは、現府中市押立と、対岸の現稲城市押立を結んでいた渡しで、押立村が経営していた。新編武蔵風土記稿には、「土橋、多摩川に架す、長さ34.5間、4月より9月迄は橋を廃し、船を用いて渡せり」と記されており、多摩川の水量の多い時期には、渡船による往来の便が施されていたようだ。
押立(おしたて)は昭和24年(1949)と最近まで『北多摩郡多磨村(現府中市)押立』の飛び地であったため、対岸の川北から見て「向島」「川向新田」などの別称も持っていた。府中市押立町としては、昭和29年(1954)に府中市成立により府中市の一部となり、昭和38年(1963)に府中市大字押立・車返・上染屋・下染屋・常久の各一部から成立した。
府中の押立と稲城の押立を巡ってみよう。府中と稲城に分かれた由来・証拠の史跡があるかもしれない。
稲城の「押立」 |
稲城の「押立」
押立地域は元が中島=稲荷島(とうがっちま)=押立地区の形を小さくしたようなラグビーボール形の島、であるため森林がなく、解決策として昭和十年代に埼玉にてニセアカシアの苗木を買い入れ、土手に植えたと云われている。現在の『アカシア通り』の由来ともなっている。
南武線稲城長沼駅から、北に向かって多摩川沿いを目指す。アカシア通りが延び、その内側には、大丸谷戸川が細い流れを見せている。東の稲城大橋に向かって歩くと、道の南側の草地に『天満天神社』の小さな祠が見える。周囲には、何の説明板もなく、いつ頃に創立されたのかは不明だが、誰がみているのか、周囲はきれいに整備されている。稲荷天神社とも呼ばれていて、また、波除天神(なみよけてんじん)、水除天神(みずよけてんじん)とも呼ばれているそうで、多摩川の氾濫を鎮めるため創建されたのではないかとも考えらる。
先に見える稲城大橋に向けて歩いて大橋の南袂を過ぎて少々歩めば、島(嶋)守神社に達する。天照皇大神、素戔嗚尊、秋葉大神を祀る。素戔嗚尊は、多摩川の氾濫を心配して 暴風雨除けの守とされているという。江戸時代には村の西はずれにあり、神明宮と呼ばれていたが、明治15年(1882)に現在地に移ったと言われている。島守という名からは、多摩川の中島にあったことからの名残が窺える。
押立地域の鎮守神社であり、どうやら多摩川の洪水除けを祈念しているようだ。「天王様」とも呼ばれている。「魔の出水 いくどもまもり 島守社」という俳句が 島守神社の標柱の側面に彫ってある。
稲城大橋に戻って、府中へと渡る。東京都道9号川崎府中線の全長351mの道路で、かつて、この道路橋を含め東京都府中市の中央自動車道稲城IC付近から、稲城市のの東京都道19号町田瀬調布線(鶴川街道)までの区間は稲城大橋有料道路と呼ばれる一般有料道路であったが、平成22年(2010)に無料開放された。
多摩川、稲城大橋下から上流を望む 稲城大橋
府中市の「押立」 |
府中市東部に位置し、南には多摩川が流れている。平地であるが標高が低く元は多摩川の氾濫地であり、北側の東西に走る多摩川の浸食によって出来た断崖(ハケ)下に位置する。押立町ではこのハケの上の道をハケタ道と呼んでいて、ハケタ道は、府中市清水が丘から白糸台にかけて伸びている。
稲城大橋を渡って、押立町に降りる。多摩川通りを東行して左に折れ、押立通りを北上すれば、押立地区の中心地で旧来村落のあった場所になる。府中市押立文化センターへ向かう右折路を行けば、天台宗の神明山薬王院龍光寺がある。龍光寺の創建年代等は不詳ながら、鰐口に寛永年間(1624-1644)の銘があったということから、寛永年間以前の創建だろうという。深大寺の末。「新編武蔵風土記稿」によれば、「外に立像の薬師一軀あり、この薬師元は別に川のほとりに堂ありてそこに置しに、川かけ(=江戸時代、河川が決壊して田畑が押し流され、当分復旧する見込みのない農地をいう)になりし故この處へ移せるよし」とある。
龍光寺
この寺は、府中の偉人川崎平右衛門=川崎定孝の菩提寺である。川崎平右衛門は、徳川吉宗の時代に押立村の名主であったが、関東各地の新田開発の世話役として、また玉川上水・多摩川での治水工事で活躍し、更に美濃国本田代官、石見大森代官に抜擢され大活躍をした。
…詳細は、多摩めぐりブログ「「大明神」 幕府代官 川崎平右衛門」2023.01.30ご参照いただきたい。
川崎平右衛門
龍光寺の西隣には、本村神社(旧称天王さま)がある。神社の説明板には「江戸時代初期、多摩川の流路が変わり、村が南北に分断され、北岸が本村(現在の府中市押立町)、南岸が向押立(むこうおしたて、現在の稲城市押立)と呼ばれるようになった後再建されたと思われるが、由緒は詳らかでない」とある。
本村神社
押立通りに戻って、少々北上すれば、押立神社がある。
押立神社
慶長年間に山城国稲荷大神(現在の京都伏見稲荷大社)の分霊を鎮祭したのが創建。当初は多摩川の辺に鎮座していたが、正保年間の大洪水の為現在の社地に遷座したという。万葉の昔から、「てつくりの里」と言われた土地柄ゆえに、手津久里稲荷と称し、村民挙げて尊崇し、殊に府中領初代代官高林弥一郎が社殿を改築するに至ったと伝える由。明治14年(1881)に押立神社と改称し、翌15年には氏子らによって社殿を造営し大いに旧観を改め、有栖川宮一品熾仁親王から「押立神社」の4字を御染筆額面として下賜された。
押立町では、どんど焼(左義長)あり、 くらやみ祭が開催されている。
こうして、調査地を巡ってみると、伝統ある寺社からの情報が頼りになる。調査地の歴史情報・事情は、住宅地に移り変わってしまったこともあり、長年当該地域に存在した寺社から得られる歴史・景観・因縁・伝説情報以外には、継続的に頼れるものがないのかもしれない。寺社の歴史的情報収集&保存の役割は大事にしなければならないと改めて思われた。
cf.上記の押立神社と同名の押立神社が、滋賀県東近江市にある。主祭神として「火産霊神」「伊邪那美神」をお祀りし、火の守り神、縁結びの神とされている。大門と本殿は南北朝時代の建立とされ、いずれも国の重要文化財に指定されている。