恋ヶ窪村は西国分寺駅付近
国分寺市の地図を見てみましょう。江戸時代の初めまで国分寺市には国分寺村と恋ヶ窪村の2つの村しかありませんでした。国分寺村は古多摩川の河岸段丘である国分寺崖線(こくぶんじがいせん)の崖下側のいまの西元町付近で、より昔は東元町のいまの国分寺街道沿いだったという資料もあります。一方の恋ヶ窪村はいまの西恋ヶ窪一丁目の東福寺や姿見の池あたりの窪地が中心地でした。そうなんです。西国分寺駅の北東地域が恋ヶ窪で、いまの恋ヶ窪駅付近は玉川上水や分水ができた後の新しい戸倉新田にあたります。
恋ヶ窪の悲恋物語
そんな恋ヶ窪村にいまに残る伝説があります。 ときは鎌倉時代の初め、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)に仕えた武将に畠山重忠(はたけやましげただ)がいました。彼は本拠地の秩父の大蔵館と後に幕府ができる鎌倉の間を鎌倉街道上ノ道を使って行き来していました。 そんな鎌倉街道の宿場町だった恋ヶ窪宿で重忠は遊女夙妻太夫(あさづまだゆう)と出会ったのです。武勇の誉れ高くその清廉潔白な人柄で武蔵武士の鑑と呼ばれた重忠と絶世の美女夙妻太夫はいつしかお互いを意識し、惹かれあい深い仲となっていきました。
ところがある日、重忠に頼朝から西国での平家追討の命が下ります。重忠の身を案じる夙妻は「一緒に連れていって欲しい」と頼みますが戦いに女を連れていくことは出来ません。重忠は一人で西国へ旅立ちました。残された夙妻は毎日重忠の身を案じて暮らすしかありませんでした。 そんなとき、夙妻太夫に思いを寄せる一人の男が、二人の仲を裂こうと「重忠は西国の戦で討ち死にした」と嘘を伝えてしまいました。それを聞いた夙妻太夫は哀れにも悲しみにくれて、ついには姿見の池に身を投げて自殺してしまいました。
夙妻太夫の死を憐れんだ村人は手厚く葬り、そのそばに一本の松を植えました。するとどうでしょう、その松の幹は重忠のいる西へ西へと伸び、ついには夙妻太夫の悲しみのためか一葉になってしまいました。その後、武蔵に戻った重忠は夙妻太夫の死を知り悲しみ供養のために、無量山道成寺を建立して阿弥陀如来立像を安置しました。
いまでも東福寺の境内に何代目かの一葉松(ひとはまつ)が植えられていたり、熊野神社の西方で姿見の池の水を汲み上げている地に道成窪という名の小字があったり、JR中央線が鎌倉街道を越えるあたりの坂を阿弥陀坂と読んだりと恋ヶ窪の悲恋伝説にまつわる伝承が残っています。
秩父平氏だった畠山氏
桓武平氏と秩父平氏 畠山重忠を生み出した秩父平氏は、平将門(たいらのまさかど)の乱で将門を討ち取る勲功をあげた藤原秀郷(ふじわらのひでさと)とならび東国武士社会でも伝説的な存在である桓武平氏の平良文(たいらのよしふみ)の子孫とされます。
鎌倉殿の13人
令和4年1月から始まるNHK大河ドラマにも、この畠山重忠は出てきます。楽しみですね