
どっしりと構えた吉岡堅二さん宅だった住居兼アトリエ
東大和市清水に45年間住んだ日本画家・吉岡堅二さんの旧宅兼アトリエは11月2日までの3日間公開された。建物は明治中ごろに建てられた養蚕の農家屋で、吉岡さんが移り住んで改修しているが、絵の舞台になった庭や屋敷森の木々は高く深い、静かなアトリエで、吉岡さん自身が内なるものに向き合った創造の原泉だった。 主屋兼アトリエのほか、蔵と長屋門、中門は、多摩地域でも少なくなった豪農の農家の佇まいだ。明治中期の様子が分かることから建築物は平成29年(2017)5月2日付で国登録有形文化財(建造物)に指定された。
15歳で日本画塾へ入門
吉岡さんは明治39年(1906)に東京市本郷区(現在の文京区本郷)で父の日本画家・吉岡華堂(かどう)の次男として生まれた。華堂は吉岡さんが10歳の時に急逝し、一家は療養先の熱海から東京に戻った。吉岡さんは京華商業学校(現在、文京区白山にある京華商業高校)に入学するが、家族の反対を押し切って退学してしまい、15歳で画家を目指して華堂と同門だった野田九浦(きゅうほ)の画塾へ入門した。この画塾は、狩野派の流れをくんでおり、伝統的な日本画の基礎を修得した。
センスは鋭く、終戦までに新日本画研究会、新美術協会などで伝統にとらわれない新たな世界を切り開き、多くの展覧会に出品して入賞・入選を重ねた。昭和5年(1930)、帝展に出品した「奈良の鹿」は竹内栖鳳(せいほう)らに支持されて特選になった。一方で洋画の雰囲気を醸し出す表現をするなど、日本画の絵の具の使い方に幅を広げた。

庭で寛ぐ吉岡さん(東大和市立郷土博物館の展示から)
伝統を守り、革新性を追究
戦後も現在の創美会の前身、創造美術を結成し、日本画の革新運動を牽引した。1960年代には法隆寺(奈良県斑鳩町)金堂壁画模写事業に携わり、東京藝術大学(台東区上野公園)で教鞭をとる傍ら、同大学の中世オリエント遺跡学術調査団員として現地に出向くなど各国を訪ねた。訪ねた先々で古典から得た着想で華麗な中にも厳粛さが漂う画風に仕立ててきた。そこには絶えず、日本画の伝統を踏まえながらも東洋的な味わいを出すなど伝統と革新性の再構築による新しさを追い求めてきた眼があった。平成2年(1990)83歳で逝去した。

改修前の吉岡邸兼アトリエ(旧吉岡家住宅秋の公開展示から)
田園生活を望んで引っ越し
吉岡さんが保谷市上保谷町(現在の西東京市東伏見)から現在地の当時、大和村に移り住んだのは昭和19年(1944)。月刊誌「アトリエ」(昭和27年8月号)によると「当時は疎開という意味もあったが、落ち着いた田園生活がしてみたかったし、どっしりとした家を物色して今の家に住んだ」と述べていた。引っ越しの当日は数台の牛車に荷物を積んで運んでいたが、牛の1頭が暑さで倒れたという猛暑日だった。

古風さと厳かさを際立たせる長屋門
格調が高い武家屋敷門
吉岡さんの家は西武多摩湖線武蔵大和駅から南西に歩いて5分ほどだった。敷地面積は約2528.1㎡。ケヤキやシラカシなどの大木が森を成すほどで、その樹木は周囲の民家の高さを凌ぎ、坂の上の清水神社の森よりも背が高い。
敷地の入口には重量感がある長屋門が横たわる。木造平屋建て、瓦葺きだ。横幅が7間(約12.6m)もあろうかという格調高い大きな武家屋敷門(建築面積約58.3㎡)だ。伝統的な門の形式で建築された一つだ。門の両側に仲間(ちゅうげん)部屋があり、家臣や使用人が居所に利用したことから長屋門といわれた。長屋門は一般的に上級武士宅の表門だったが、明治以降は各地の豪農の家屋敷にも作られた。

都電の軌道に敷かれていた敷石を長屋門に生かした
長屋門は、吉岡家を改修した昭和37年(1962)ごろに東村山市の大工棟梁が久米川地域(現在の東村山市)にあった長屋門の部材を使って移築した。門扉の装飾にも目を凝らした。飾り鋲(びょう)が乳鋲だった。格式を表した飾り鋲だが、武骨な門に柔らかさを出すためか、子孫繁栄を願って取り付けたものだろうか。昭和40年代には門の敷地に花崗岩の敷石を150枚ほど敷いたことで足元が落ち着き、歩きやすい。この石は都内を巡っていた都電の軌道に敷かれていたそうだ。
意匠凝らした伝統的な間取り
向かった主屋の玄関に当たる入口(大戸)には人だかりができていた。旧吉岡邸は、近在の農家で一代名主を務めた池谷藤右兵衛(いけや・とうえもん)が明治中期に建てた養蚕の農家屋だ。吉岡さんの願望を形にした“夢の家”だ。

白壁と柱の対比で浮き立った主屋。中央が大戸、右がアトリエ。立てかけた写真はアトリエを訪ねた藤田嗣治
主屋(建築面積約208.4㎡)は木造、平屋建て(一部2階建て)で切妻造り。屋根は桟瓦葺き(下屋部分は鉄板葺き)。内部は伝統的な田の字型の四間取りの豪農家屋だ。座敷の欄間などに組子細工を取り入れるなど意匠も凝っている。昭和30年ごろ、茅葺屋根の2か所にあった煙抜きがともに雨漏りがしたために撤去したぐらいで、その後も建物を大きく改修していない。主屋北側には家政婦の部屋、廊下などのほか、茅葺き屋根を瓦葺きにするなど、この時に蚕を飼っていた時代の2階も整備した。

火鉢に手をかざして暖を取る吉岡さんを撮影した写真が大戸に飾ってあった。木靴はオランダ製で愛用品の一つだった
馬が入る大戸に大理石
大戸を左から右へじっくりと見つめた。高さは約7尺(209㎝)もある。馬を引いたまま屋内に入れる高さであり、幅も広い。大戸を閉めているときは小振りの潜り戸を利用した。玄関のたたきには70×76㎝角の白い大理石が敷かれている。ここにテーブルを置き、吉岡さんは一般の来客に接していたという。大理石を敷いたのは吉岡さん好みだったのだ。大理石が放つ温もりが伝わった。

梁がむき出しのアトリエ。上奥から差し込む光をもとに作品を仕上げた
いまもアトリエに画具や大工道具
大戸の右手はアトリエだ。窓を開け放してあったので庭先から全容が見えた。主屋の中でも一番広い部屋だ。20畳を超すだろう。元は土間だったのを転居時にアトリエに改造した。昭和37年ごろの大改修の折には天井をかさ上げしたほか、明り取りを新設した。アトリエ脇の寝室には吉岡さんが指導していた大学生らが寝泊まりした。
机の上には画材、資料などが置かれ、生前の創作ぶりを彷彿とさせていた。その周囲にはキャンバスや絵皿、画材の胡粉などが所狭しと置いてある。東側の壁には吉岡さんが愛用した大工道具が姿置きにされていた。大工作業は吉岡さんの趣味とはいえ、その腕前は本格的だったからこそ、使いたい道具が手にしやすく、また使いかけの道具がすぐにわかるようにしていた。

資料にもあたって作品に向かった吉岡さんを忍ばせる書棚
温もり感じる手作りの作品
主屋の上がり框に立った。全体が四間取りで2間が見通せる。一辺が11.7寸(35.5㎝)の大黒柱が黒光りしている。最初の座敷と食堂の境にある指鴨居にも幅15寸(45.5㎝)と大材が使われている。まさに豪農風の造りだ。

吉岡さんが亡くなる6年前に完成させた「蘆雁」が旧宅兼アトリエの公開に展示されていた
奥の間には日本画の大作「蘆雁(ろがん)」(130.5×162.3㎝)が展示してある。吉岡さんが77歳の時に描いた。水辺に群生している蘆(ヨシ)の間で遊ぶ3羽のガンを淡い色で彩色した作品だ。先頭は母鳥だろうか。後続の子ガン2羽を振り返っている光景を描いており、穏やかさと温かみが漂う。家族思い、人情深い吉岡さんらしい作風だ。この作品はまた、見る人に芽吹きの春と冬枯れを想像させ、季節の移ろいを象徴しているといわれる。この一枚の絵によって木と畳の部屋のやわらかさがより一層穏やかに感じた。

清楚感を表した欄間の奥の書院では吉岡さんが装丁した洋画家・藤田嗣治らの著作などを展示していた
組子細工の欄間を手作り
2間の和室を仕切る4枚の板戸の引き手にも遊び心を感じた。金色の部分にチョウやトンボをあしらっている。見上げる欄間には組子細工による装飾が施されていた。「寄せ卍(まんじ)」方式を取っている。大工作業が趣味だった吉岡さんが所々の細かい板を抜いたり、反転したりして制作したものだという。食堂に下がる電灯の笠も吉岡さんが手作りした。家の中を自前で改修したところもあるが、家の柱や梁などに手を加えず、古い時代の造りや工法を大事にしていた。古典的な日本画にヨーロッパ調の画風も疎かにせず、新たな日本画制作に迫っていた吉岡さんの姿勢がここにも表れているように見た。

吉岡さんは陶器にも目が肥えており、その収集の一端を示す作品も飾ってあった
さらに床の間がある座敷の天井にも目が留まった。「竿縁(さおぶち)天井」が張ってある。天井に竿縁という角材を一定の間隔で並べて、その上に天井板を張る手法だが、竿縁が床の間と並行になっている。床の間と直角にすると、竿を突き刺すことにつながる床刺し(床差し。床挿しともいう)といわれて嫌われる場合があると見学資料にあった。

敷地を囲む木々は森の中の一軒家の趣だった
立体絵のように映る屋敷森
縁側に座り、庭を見た。芝生を敷き詰めた平面な庭とその奥に展開する屋敷森がマッチして屏風絵のように映った。屋敷森には高木のケヤキをはじめ、シラカシ、トチノキ、竹、マツ、ヤマザクラがある。ヒヨクヒバやカエデ、モクレン、実がたわわにつくカキもある。20種近い樹木が林の深さを際立たせている。そんな中に白地に紫色の斑点があるホトトギスが背景の森に浮き立っていた。まさに四季の移ろいを目の当たりにできる。

冬枯れが迫る屋敷森を背に咲くホトトギス
地元の人々と交流した野菜作り
いまは芝を敷き詰めた庭だが、ここに吉岡さんが越してきた当初は、戦中戦後の食糧難の時代だった。吉岡さんは、ここで野菜を育てた。しかし、吉岡さんは野菜作りをしたことがなく近所の人に聞く始末だった。大工棟梁にもアドバイスを受けた。棟梁から大工作業の手順を教わる一方、吉岡さんが棟梁に絵の描き方を教えた。水を汲み上げるポンプは近所より早く吉岡さんが備えたことからポンプを見たさに近所の人々がやってきた。飼っていたヤギの乳を、乳飲み子を抱える近所の若い母親に上げたこともある。

吉岡さんの作品「暁」(東大和市郷土博物館発行の「吉岡堅二」から)
題材に生かした草花や野鳥
食料不足の心配がなくなって畑を芝生の広場にした。何種類もの野鳥が屋敷森や芝生にやってきた。ケガをして飛べなくなった野鳥を近所の人が持ち込んで来て保護して育てたこともある。京都の画家である知人からもらい受けたキジも飼育した。樹木や草花、野鳥に至るまで真近で観察できた吉岡さんは創作意欲を高め、作品のモチーフにした。中でもシラサギは巣から落ちて戻れなくなった雛を近所の農家から引き取って餌を与え、成鳥になるまで育てたという。この過程で吉岡さんが知ったことはシラサギの骨格や生態だったと生前、知人に語っていた。ニワトリ、ハッカチョウ(ムクドリ)も自宅で飼っていたことから吉岡さんは作品「暁」(86.6×81.0㎝)などのモチーフにした。雪が降る日には庭に出てスケッチに余念がなかったという。

主屋の西側にある中門
丸みおびた屋根の中門
主屋の西側に隣接しているのが中門(建築面積約1.9㎡)。木造で切妻造り、鉄板葺き(棟は瓦積み)の間口1.8mの棟門だ。昭和37年ごろの改修で長屋門を設ける以前は表門だった。中門はいま、主屋西側にある坪庭への門になっている。中門の一般的な屋根の形は直線の八の字型だが、この中門の屋根は丸みを帯びた起り(むくり)構造を取り入れているのが特徴。2本の主柱にそれぞれ控え柱をつけた腕木門(うできもん)も添えている。移設した時に一部の部材を取り換えたが、全体的に構造を変えていないことから明治中期の状況が見て取れる。
中門をくぐって主屋を見上げると、切妻破風の白漆喰と黒い梁といった束の組み合わせが見られる。茅葺屋根を改修したからできた切妻であることが分かる。また、主屋の南材と西材が交差する桁に複雑な切り込みをして組み合わせた下屋桁(げやげた)は、宮大工の高い技術である「捻竿鯱(ひねりさおしゃち)」を取り入れたものだという。

災害を見越してモルタル洗い出し仕上げにした蔵
重量感あふれる石蔵風の蔵
中門の南側にある蔵(建築面積約33.1㎡)は、木造2階建ての切妻造りで鉄板瓦の棒葺き。屋根は置き屋根。明治17年に池谷藤右衛門が建築したものだが、石蔵風に仕上げてある。関東大震災(大正12=1923年9月1日午前11時58分発生、死者・行方不明者約10万5千人)後、外壁をモルタル洗い出し仕上げに造り替えたものだ。同時に出入り口と窓の開口部を観音開きの防火扉にした。正面上部に掲げた藤右衛門の紋章がいまも残る。
吉岡さんは蔵をアトリエに使おうと考えたことがあるようだが、湿度が高く、絵画作品を劣化させる恐れがあることから断念して倉庫風に使っていた。屋敷森を背景にした蔵の佇まいは、重量感がある中で敷地全体に落ち着きを漂わせていた。
旧吉岡家住宅兼アトリエの公開は例年春と秋に行われている。
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