立川の繁華な街に刻んだ米軍タンク車炎上事故 青梅線で無人車暴走

人込みが激しい立川駅コンコース

立川駅の、幅が広いはずの南北自由通路(コンコース)は年中、人込みで埋まっている。令和5年(2023)度の同駅の一日平均乗者人数は15万628人で、新型コロナ蔓延の時期こそ落ち込んだものの、これまでのピークだった平成22年(2010)度の15万7517人に戻りつつある。中央線、青梅線、南武線の3線が乗り入れているほか、同駅頭の南北にはバスターミナルがあって、平日は64系統で4万人を超える人たちが利用している。

開けたまち 天に昇る建物

ラッシュ状態のコンコースを離れて、駅西側の南北自由通路に立った。この通路は平成28年(2016)8月4日に開通した。幅9mほど、長さ115m。足下のJR線をそっくり跨いでおり、北口ペデストリアンデッキに繋がっている。頭上には多摩モノレールの車両が静かに走る。右手(北側)を見上げれば、地下2階、地上32階建てのタワーマンションが建つ。総戸数319戸(専有面積は55.01~107.32㎡)。建物は天上に延びている。同年秋に営業を始めた大型店舗のヤマダ電気が3~7階に入っている。愛称は「立川タクロス」。立川市の観光案内所や駐輪場がある。これらは立川駅北口西地区再開発事業で誕生したエリアだ。

「軍都」から「商都」の顔に

大正時代に立川飛行場ができたころ、周辺には一面の畑が広がり、立川は八王子や町田といった「南多摩の商都」に及びもつかない「軍都」で「空の玄関口」だった。昭和27年(1952)、東に隣接した国立市が文教地区指定を受けたのは風営法で制限される飲食店やホテルなどの進出を止めたかったためだった。いわば立川のようにしたくなかった例だといわれる。だが、立川は、いまや多摩地域の1、2位の商都にのし上がった感が際立つ。
立川にとって商都への道筋は分かりやすい。立川飛行場ができた後、最初に大型店が進出したのは、昭和26年(1931)の伊勢丹立川店だった。この年に講和条約が締結された。その後も伊勢丹は、販売面積を拡大化するために地元と交渉を続けた結果、32年に北口大通りへ移転して事実上の大型店として出発した。36年に「立川銀座デパート」(昭和45年、立川高島屋に)に高島屋の子会社「東京ストアー」などがテナントとして入った。翌37年(1982)には地元資本の商業ビル「フロム中武」がオープンした。立川駅北口の通りに広まっていた闇市は一新した。

立川駅北口にはルミネ立川店が構え、モノレールを挟んでタワマンが天を衝く

駅直結の商業地にタワマン

さらに41年(1966)に駅北口の線路沿いに地元の商店80店ほどが入った「第一デパート」が開業(平成24=2012年5月閉店)。この地は元々の商業地であり、スーパーいなげや(明治33=1900年創業の当初は稲毛屋魚店)の創業地で繁華なエリアだった。現在、タワーマンションが建つ。その後、駅北口周辺に丸井やダイエー(トポス)が進出した。おおむね、現在の街並みが築かれた。

起爆剤になった基地返還

基地が日本に返還された跡地に58年(1983)10月に国営昭和記念公園が誕生してさらに街の様相が変わった。農家風の屋根だった立川駅舎は、基地返還を見越したかのように昭和57年(1982)10月、9階建ての駅ビル「Will」に抱えられて独立した駅舎はなくなった。その7年後、コンコース南口側にグランデュオが進出した。
立川の玄関口は、日進月歩の勢いで変わった。平成10年(1999)11月に多摩モノレールが上北台―立川北駅区間が開業(多摩センターへの延伸は平成12年)した。飛行場一帯にあった航空機関連会社は移転して跡地にショッピングセンターが出来、さらにグリーンパークも誕生して今日のにぎわいを見せるようになった。立川駅構内のエキュートは平成19年(2007)にできていた。

タンク車が炎上して立川駅(左)北口の空を黒煙が覆い、人だかりで混雑した(写真提供:立川印刷所)

猛火に包まれた立川駅北側

この間、立川駅構内では思いもかけない事故があった。61年前の昭和39年(1964)1月4日午前7時6分ごろ、立川駅青梅線ホームや線路を背にしていた商店街は、猛火に包まれた。事の起こりは、立川駅西隣の青梅線西立川駅だった。
西立川駅に米軍専用のガソリンを満タンにしたタンク車が1月2日以来、止まっていた。事故当日の朝に到着する貨車と連結させる作業をしていた間、作業員は、タンク車の自走防止ブレーキの掛け方が緩かった上、車止めを使わないまま、他の貨車へ移った。作業員が振り返った時にはタンク車はゆっくり動いていた。作業員は、近くの係員らに大声で助けを求めた。

西立川駅から立川駅に向かって下り続ける青梅線。無人のタンク車はスピードを上げつつ暴走した(立川駅青梅線起点まで540mあまりの曙第3踏切で)

下り坂の線路をタンク車が暴走

タンク車は1.9km東の立川駅へ向けて動き続けていた。立川駅は西立川駅より標高が9mあまり低い。無人のタンク車は西立川駅構内で青梅線上りの本線合流ポイント手前の車止めを破壊して本線に入った。しかし、タンク車のスピードが速く、走っていた作業員は追いつけなかった。一方で信号係はタンク車が走りやすいようにポイントを切り替えたためにさらに遮るものがなくなって無人のタンク車は立川駅方向へ暴走した。タンク車は時速50~60kmのスピードで立川駅青梅線ホームへ向かった。立川駅で青梅行き(電車5両編成)が発車待ちをしていた車両に衝突した。この衝撃で厚さ1㎝ほどのタンク車の鉄板が破れ、ガソリンが吹き出して燃え上がった。炎は空高く噴き上げた。

燃え盛る立川銀座通り商店街の住宅などを懸命に消火する消防隊員(写真提供:立川印刷所)

11棟が全焼した商店街

火は立川駅青梅線の隣にあった立川銀座通り商店街に燃え広がり、上空に黒煙が上がった。この事故でタンク車と電車のほか、近隣の住宅8軒11棟、延べ1600㎡を全焼した。
立川駅では青梅行きの車内やホームにいた乗客約60人のうち2人が転倒するなどして重軽傷を負った。西立川駅からの電話連絡を受けた駅員たちは一斉に避難誘導に当たったことから死者を出すことがなく最悪の事態を免れた。

焼け跡を片付ける人々はどんな思いだっただろう(写真提供:立川印刷所)

「青梅事件」の現場だった小作駅

立川駅でタンク車が炎上した事故の13年前、青梅線西方でも事故が相次いでいた。昭和26年(1951)7月6日、小作(おざく)駅で貨車のブレーキが効かず、そのまま上りの立川駅方向に暴走。羽村駅の引き込み線に突入して停車中の貨車に衝突した。
翌年にも小作駅で事故が起きた。「青梅事件」だ。これも列車暴走・追突事故だった。昭和27年(1952)2月19日朝、小作駅構内に留めてあった4両編成の貨車が無人のまま動き出し、青梅線本線を上り、羽村駅を通過して福生駅の引き込み線に進入。停車していた貨車に激突、大破して止まった。
当初、当時の国鉄は、人為的ミスとして内部処理したが、翌年に10人が鉄道往来妨害の容疑で逮捕された。41年に最高裁判所は審理差し戻しを言い渡し、43年の東京高等裁判所は被告全員を無罪とした。

三鷹駅で脱線転覆 死亡者も

三鷹駅でも電車の暴走事件があった。昭和24年(1949)7月15日夜、国鉄三鷹電車区(現在の三鷹車両センター)から無人の7両編成の電車が暴走して三鷹駅下り1番線に進入、時速60kmほどで車止めに激突しながらもこれを突き破って脱線、転覆した。電車が突っ込んだ線路脇の商店街などにいた6人が電車の下敷きになり即死、負傷者は20人いた。詳細は分からないことから三鷹事件といわれ、下山事件(24年7月6日、足立区で下山貞則国鉄総裁の遺体発見)、松川事件(24年8月17日、福島市の東北本線松川駅付近で列車脱線転覆)とともに国鉄三大ミステリーに上げられている。

新宿駅で基地用の燃料に火

もう一つ、立川にゆかりがある列車事故がある。42年(1967)8月8日午前1時45分ごろ、新宿駅構内で米軍立川基地へ輸送する航空機用ジェット燃料を運んでいたタンク車が貨物と衝突、炎上した。
事故車両は山手貨物線(現在の埼京線・湘南新宿ライン)から中央快速下り線に入るところで浜川崎駅(鶴見線・南武線支線)発立川行きの貨物車の横に、中央快速上りを走行してきた氷川(現在の奥多摩駅)発の浜川崎行き貨物列車の運転士が停止信号を無視して進行し衝突した。
下り線のタンク車にはジェット燃料を満載。上り線の貨物車両には石灰石を積んでいた。衝突によってタンク車の3~6両目が脱線、4、5両目が転覆した。破損したタンク車からジェット燃料72tが漏れ、衝突によって出た火花が引火して爆発。タンク車の3~6両目の4両と貨物の機関車が炎上した。
一帯は火の海になり、発生したガスが周辺に漂い、燃え残ったタンク車から燃料の抜き取りができないうえに別のタンク車への移し替えもできなかった。復旧までに1日以上かかり、中央線は不通、国電は1100本以上が運休する事態になった。

立川駅構内の様子を見ていると、いまも横田基地への航空機用燃料を輸送していることから事故は過日のことと割り切れないものがある。いずれの事故も単純なミスから起きていた。