多摩川の土手をサイクリングする度に自転車から降りて立ち止まる場所がある。JR八高線の小宮-拝島駅間にある多摩川鉄橋下流50mほどの地点(昭島市宮沢町)だ。80年前の昭和20年(1945)8月24日午前7時40分ごろに発生した、上りと下りの5両編成の列車が橋上で正面衝突した。日本が敗戦して9日目の朝だった。上り列車には八王子方面へ向かう多くの女子学生、下りには故郷へ向かう復員兵や疎開先から戻る人々らが乗っており、この人たちが犠牲になった。死亡者は105人(乗客99人、職員6人)、負傷者67人に上った。この事故現場近くにはいま、多摩川から引き揚げられた2対の車輪のモニュメントが設置されている。車輪は、どれも赤く錆びている。
暴風雨で駅専用電話不通
鉄橋は全長約572m。そのうち河川部は430m。地上部の3倍ほどの長さがある。衝突事故は多摩川の流水面である鉄橋の中央部で起きた。事故の2日前から豆台風に似た暴風雨に晒されていた多摩川は増水していた。この影響で事故当日の早朝から小宮駅と拝島駅では駅間を繋いだ専用電話と鉄道電話が使えず通信が途絶えていた。普段はホットラインで駅同士が互いに連絡の上、「通票閉塞方式」という通行を可能にするタブレットを持った列車だけが運行できたが、この連絡も叶わず、いわば双方が小宮駅と拝島駅を見切り発車してしまったことによって大惨事が起きた。
混乱した敗戦下の事故報道
この事故の流れを追った「昭島近代史調査報告書ブックレット2020『追跡!まぼろしの八高線衝突事故』」では、まず新聞がどのように報道したかを追求している。当時のメディアにはまだテレビがなく、新聞とラジオだけ。そのラジオは事故発生日には放送がなかったという。新聞は夕刊も地方版もなかった。事故を知らせる一報は翌25日付で朝日新聞が掲載したものの、2面に「百八十人死傷 八高線の事故」の1段見出しで30行の記事を載せただけだった。写真はない。
事故当時は敗戦直後であり、国内は混乱していた。新聞紙面を占めるのは連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーが進駐する予告など戦争関連の記事であふれていて八高線の事故報道は薄かった。
原型留めない客車で圧死
事故現場では、どんな動きがあったのだろう。同報告書によると、現場へ駆けつけて写真を撮ったのは鈴木利信さん(八王子市)だが、事故から37年余り後に公表された写真の光景は橋上で押しつぶされて原型を留めていない客車や双方の機関車、炭水車、折り重なる客車が5日間も手つかずのまま橋上にあったという。
報告書は、客車の内部の状況も記している。前方ほど破壊の度合いを強め、乗務員はじめ圧死した乗客の姿もあった。困難を極めた中で地元や近隣の警防団(現在の消防団)は車内に取り残された乗客らを救出した。
昭島・八王子側で死傷者を救助
昭島側では救助本部が自然発生的に生まれた。砂利砕石の飯場にいた作業員も負傷者をトロッコで近くの成隣国民学校(現・成隣小学校。大神町)へ運んだ。担架やリヤカーに乗せられた死者も運び込まれた。国民学校の向かい側にある観音寺の墓地・東勝庵では死亡者を仮埋葬した。八王子側では現場から約300m南にある東福寺(小宮町)も同様だった。河原で荼毘に伏した遺骨も持ち込まれた。負傷者は近隣の病院に収容された。
濁流に流されて東京湾で発見
増水していた多摩川の濁流は、客車から転落した乗客や荷物も飲み込んだ。多摩川鉄橋から下流約3kmの中央線多摩川鉄橋(立川・日野市)でも救助体制を敷いたほか、さらに下流の日野橋の上からロープを身に巻いた男性の必死の救助も空しく流されてしまった人もいたという。水が引き始めたころ、狛江市の岸辺に遺体が打ち上げられて医師や看護師、警察官らが駆け付けた。1か月後、東京湾で発見された遺体もあった。
報告書は、問う。「日本国有鉄道百年史」で旅客99人、職員6人の合計105人が死亡し、負傷者67人としているが、死傷者は、もっと多かったのではないかと苦渋を行間に滲ませている。
草むらに半世紀眠っていた車輪
衝突現場は多摩川河川部のほぼ中央の鉄橋であり、双方の機関車が互いに食い込むなど大破していたことから車両やその部品などを岸へ引き揚げることができず、そのまま川に投げ落としたものもあった。
モニュメントになった車輪は、事故から半世紀以上もどこに眠っていたのか。事後直後に現場に駆け付けて写真を撮った鈴木利信さんが平成13年(2001)5月27日、中洲の草むらに錆びた鉄の塊が飛び出しているのに気付いたのがきっかけだった。列車が衝突した地点の橋桁No.7 とNo.8の下流約40m付近の、やや小宮駅寄りだった。付近では度々、車両の残骸が見つかっており、その都度、話題になっていた。車輪を記念碑にするかどうか、翌年9月、昭島市議会に諮られた。
事故列車の車輪の可能性
車輪の1対はスポーク車輪、他の1対は圧延(円板)車輪で、原形を保っていた。寸法、形状、刻字(TW)から客貨車専用短軸車輪であり、客車と貨車の共通部品であることからどちらに使われていたものかは断定できなかった。機関車用車輪とは形状が異なるが、炭水車用は客貨車と共通であることから事故列車の可能性がある、という調査結果を得た昭島市は15年度に車輪を引き揚げて、16年3月にモニュメントとして設置した。
米軍機と接触して転落した貨車も
多摩川土手に据えられたモニュメントの背後に立つと、多摩川を前庭にした格好で西側に大岳山(1267m)を筆頭に奥多摩の連山が屏風になっている。南側の足下の河川敷には運動公園が広がる。東へは多摩川の広がりを見せつけるように伸びやかに水が流れている。時折、米軍横田基地(福生市)を飛び立った、あるいは横田基地に向かう米軍機が着陸態勢をとるなど旋回する。
八高線多摩川鉄橋衝突事故から2年後の昭和22年(1947)7月14日、横田基地から離陸したA-26攻撃機がエンジン故障で多摩川河川敷に不時着を試みたが失敗。多摩川鉄橋を通過中の八高線上り貨物列車に接触して貨車1両が河原に転落、4人が死亡した事故が起きている。
高麗川駅近くでも脱線転覆事故
未曽有の鉄道事故も八高線で起きている。20年前、兵庫県尼崎市で起きた福知山線脱線事故(107人死亡、562人負傷)を凌ぐ死者185人(188人ともいわれる)という凄惨な事故だ。昭和22年(1947)2月25日午前7時50分ごろ、八高線高麗川駅手前の埼玉県日高市上鹿山(かみかやま)の下り坂のカーブで6両編成の下り客車が脱線転覆した。現場には犠牲になった人々の慰霊碑が33回忌に当たった昭和54年(1979)2月25日に立てられている。
カーブ曲がれず、682人死傷
乗客の大半は食料不足を補うための買い出し客で、車内はすし詰め状態だった。この列車は高麗川方面へ向かう下り列車で、手前の東飯能駅を7分遅れで発車した。機関手は遅れを取り戻そうとしたか、時速25kmで1000分の10の下り勾配の中でさらに半径250mの急カーブを走行した。この区間でスピードを加減する装置が効かなくなり惰行し始めた。時速は50kmに上がり、制動不能になった。機関手は非常制動を使ったが、これも効かず、その直後、後方から前後動を強く感じ、さらに間を置かず左右動が伝わった。2・3両目の連結器が外れ、後部の客車4両が脱線。うち後方の3両が進行方向右側(カーブの外側)の落差約5m下の麦畑に転覆、大破した。乗客185人が死亡、重軽傷497人(570人とも)を出した大惨事になった。
下り勾配の中で最もカーブが急な半径250m地点での速度が速く、乗客が多かったことから遠心力が大きく働いた。定員の3倍を超える乗客の多さから3両目の客車のバネが過重負担になり、客車の台車が支障したことによって史上最大規模の鉄道事故になった。昭島市の報告書はこの事故にも触れている。これによると、機関士は新米で八高線車両を運転した初日だった。
八高線はいまも単線で運行している。これらの悲惨な歴史を知って現場に立っていると、繰り返さないでくれと叫びたくなり、胸が締め付けられる。