瑞穂町箱根ヶ崎の狭山池で“自分時間”を楽しもうとカメラを持って出かけた。JR八高線箱根ヶ崎駅東口のロータリーへ出て左折。北東へ向かう都道166号の箱根ヶ崎交差点を直進して残堀川を渡る坂の途中で川の左岸へ降りた。「狭山池まで120m」の表示に安堵した。こんもりとした森の光景地点が狭山池だ。駅からゆっくり歩いて10分余り。この地は住宅に囲まれた水と緑のエアポケットだが、歴史を紐解けば、それぞれの時代を刻んだ跡が見えてきた。飢饉を乗り越えようとした人々の打ちこわし事件の集合地だったり、江戸市民に上水を送る玉川上水とも深く関わったりした。幕末には地元の人や周辺の村人らの軍事訓練が行われた現場でもあった。史実を改めて知ったからには自分勝手にのびやかないっときを過ごすことに引け目を感じて身を引き締めた。
風光明媚な「筥の池」
池の入り口に立つ太いマツの木が狭山池に奥行きを出し、フジヅルが蛇のようにとぐろを巻いて池の古さを物語っていた。狭山池は約1.5ha。3つの池にはカワセミやカルガモ、アメリカザリガニなど自然観察ができる池と庭園観賞、釣り池もあり、それぞれの池畔を歩けて、木橋にも渡れる。寛げた。
池が出来たのは古く、古多摩川がこの地を流れていたころに遡る。流水で深くえぐられた窪地は粘土質だったため、大雨が降ると周辺の水が集まった。水はけが悪く、耕作もできない芝地で狭山池の北西にある丸池を中心に約18haが水浸しだったという。
鎌倉時代には「筥(はこ)の池」と呼ばれた風光明媚な池だったようだ。瑞穂町教委などが池畔に立てた説明板によると、鎌倉時代の歌人・藤原長清が編んだ「夫木(ふぼく)和歌抄」に「冬深み 筥の池辺を朝行けば 氷の鏡 見ぬ人ぞなき」(知経法師)と詠まれており、人々に知られた池だった。この歌碑が池のほとりに立つ。
手にナタやノコギリを持って
この池はまた、時代とともに人々の胸の内を刻んできた。天明2~8年(1782~88)に起きた飢饉で享保(1732年にイナゴやウンカが大量発生して稲が大被害)・天保(1833~39年に冷害と大雨、さらに台風が頻発して食糧難)の飢饉とともに三大飢饉に向き合った。天明期は全国的に大雨が降り続き、20万人もの餓死者が出たといわれる。浅間山も噴火した。疫病も流行した。こうしたことから各地で打ちこわし事件が頻発した。狭山池付近を集合地とした打ちこわしもその一つだった。
天明4年2月27日、西多摩地域の村の40個所ほどに張り札が出た。近年の凶作で米価が高騰しているにもかかわらず一部の商人が米を買い占めている。商人たちと交渉するために各村から人を差し出してほしい、と呼びかけ人らは要請。集合場所は箱根ヶ崎の池尻(狭山池付近)だった。
参加しない村には大勢が押しかけることもあると緊迫した訴えに村人たちが共感したものか、翌日、2万とも3万人ともいわれるほど大勢が集まった。それぞれ手にナタやノコギリなどを持っていた。女性や子らは泣き喚いた。逃げた人もいたとか。打ちこわしは、夜から翌未明に決行され、武蔵村山、東大和にあった商人の家5軒が標的になった。家や物を壊し、火を点けるなど大暴れしたという。打ちこわしは1日で終わったが、63人が捕らえられた。
玉川上水にまつわる伝説も生む
狭山池は玉川上水(承応2=1653年11月、着工から8か月で完成)の煽りも受けた。周辺から流れ出た水が集まる狭山池の水を残堀川に流し、玉川上水の助水とする目的で文化4年(1807)に池さらいをした。このことが原因で池の水位が下がり、現在の規模になったと伝わる。
この時に生まれたと言われる昔ばなしがある。蛇喰い(じゃっくい)次右衛門伝説だ。狭山池の入口に白い大蛇に巻き付かれた大男の像がある。蛇喰い次右衛門像だ。この碑文によると、こうだ。
暑い日に百姓次右衛門は筥の池で水浴びをしていたところ、小さな蛇が絡みついてきた。必死に離そうとしたが、蛇は体を締め付けるばかり。力持ちの次右衛門は蛇に嚙みついた。途端に空は大荒れになり、小さな蛇は、たちまち大蛇になり、傷口からは血が七日七夜流れ続けた。退治された蛇とともに池の水は減り、小さな池になった。その時の水の流れは大蛇のようだったことから「蛇堀川(じゃぼりがわ)」と呼ばれ、いまの「残堀川(ざんぼりがわ)」に転化したという。
この話が生まれた元は、狭山池を源にした残堀川の水を玉川上水の助水にすることを問うたものだろうと言われている。
ヤマカガシ見たさに集まる
蛇喰い次右衛門の解説文を読んでいたら、目の前にヤマカガシが現れた。近所の人は怖いもの見たさでやって来たものの、ヤマカガシを見て後ずさりした。全長は1m以上ある。ヤマカガシは体側面に赤色と黒の斑紋が交互に入っていた。頸部背面は黄色の帯。咬傷時に毒を出すといわれるコワイ奴だ。騒ぎを聞きつけてエプロン掛けの姿のまま物見遊山で家から飛び出して来た人々は「そうだ、この池は蛇にまつわるからヤマカガシも顔を出すわな」と笑って散会した。
地元に払い下げて公園に
時代とともに歴史を繋いできた狭山池周辺は、明治から昭和時代にかけて芝地の大部分を地元民に払い下げられた。残った池やその周辺(約1~2ha)は昭和26年(1931)に都立狭山自然公園に指定された。その後の昭和58年(1983)、同町が譲り受けて公園とした。
玉川上水と交差する唯一の河川
狭山池を源とする残堀川は、立川市柴崎町の多摩川合流地点まで約14kmを南下する。玉川上水と交差する唯一の河川で、江戸時代に玉川上水が完成した折には現在の立川市一番町の、五日市街道の天王橋下流約400m地点で玉川上水と交差するように流路を付け替えた。
ところが、明治時代には残堀川流域で養蚕や織物などの産業が盛んになった結果、江戸期に比べて水質の悪化が著しかった。汚濁した水が玉川上水に流れ込むのを回避するために明治36年(1903)から41年にかけて残堀川の上に玉川上水を流す伏せ越し工法をとり、残堀川を大滝(立川市富士見町)に至る流路に改修した。しかし、大雨の時に残堀川があふれることから昭和38年(1963)に今度は玉川上水を残堀川の底を通すサイフォンの原理を採り、現在の形に改修した。
池の土を盛土した堤体に社
この日の小春日和に、さらに気持ちが誘われた。池に張り出した堤体の先端にある、こじんまりした社に足を踏み込んだ。弁財天だ。新編武蔵風土記稿に記されているというが、境内には概要を記したものが目に入らなかった。付近の人に聞けば、玉川上水の助水に狭山池の水を活用したことで貯水量が極端に減ったことから池の湧水地付近を掘り込んだときの土を盛ったという。その堤体に幅1.8mほどの社を建てて弁財天を祀ったのが始まりというらしい。堤体のそばでカモ一家が群れていた。
高さ5mの大灯籠も時代を映す
さらに池畔で目につくのは大灯籠の常夜灯だ。高さは5mもあるという。台座には中国の故事などを表した細かな彫刻が施してある。
この灯籠は慶応元年(1865)に近くを通る日光街道と残堀川が交わる地点に架けられた石橋のたもとに建てられた。引又(埼玉県志木市)の石工・弥十良が造ったという。このころは狭山池周辺で農兵の調練があり、百姓一揆が押し寄せる不安な時代だった。幕末の動乱期でもあり、人馬の通行が多かった。こうした状況の中で燈明を灯し、通行人の道しるべにしながら天下泰平、村内の安全も祈ったという。
その後の関東大震災(大正12=1923年)で常夜灯が倒壊して破損したため、近くにある狭山神社境内にいったん置かれた。昭和61年(1986)に破損していた、火を灯す個所を修復して現在地に再建した。
農兵の砲術調練に80人ほど
湧水が集まってできた狭山池に一つの取り入れ口がある。ここにはこじんまりしたセメントの橋ながら車も通行できる調練橋が架かっている。昭和60年(1985)3月に架け替えられた。
池周辺の芝原で慶応元年(1865)夏に始まった農兵の砲術訓練が2年ほど行われたという。当時、箱根ヶ崎村、石畑村、殿ヶ谷村は幕府の領地であり、西洋武術の研究家だった江川太郎左衛門が代官としてこの地を支配していたことからここで訓練が行われたと見られている。
参加者は箱根ヶ崎村、石畑村の各4人、殿ヶ谷村2人のほか、近隣から総勢79人が参加した。大部分は村々の役人層の子弟だったという。「この訓練は、武士階級の崩壊や徴兵制に繋がる我が国の近代化への一歩を示すものとして意義深いものといえよう」と同町教委の解説板にあった。
青天井に広がる別天地の趣き
狭山池から一時離れて調練橋に注ぐ用水に沿って細道を北へ向かった。橋から100mも歩かないうちに目の前が開けた。近くには住宅がない。遮る木々もない。空は広い。収穫を終えたキャベツ畑などがどこまでも延びていた。これまで見た池周辺は木々に囲まれて水面の上にしか空がなかったのと大違い。空は青く高い。胸がすく思いがした。
アメンボの水紋で水底揺らぐ
元に戻って狭山池遊歩道を丸池方面へ歩いた。ケヤキの大木などが多く茂り、その木々の下に丸池からの湧水が狭山池に流れ込んでいる。丸池というだけあって、文字通り円い。直径10m以上あるだろう。周囲は雑木の茂みが濃い。水源は藪に覆われて伺えない。丸池の水は澄んで穏やかに流れている。木の間越しに射す日光は、池の底を照らし、水紋が時々2つ、3つと現れ、ともにキラキラと光りながら広がる。水底の石が揺らぐ。アメンボのお散歩を示す水紋だった。
捕獲したザリガニの試食会?
丸池のそばにあった木にアメリカザリガニにまつわる講座の案内チラシが下がっていた。アメリカザリガニは、令和5年6月から条件付きの特定外来生物に指定された。瑞穂町では狭山池公園を中心に多く生息している。水草を切り、他の生物を食べるなどの被害があり、駆除に乗り出しているという。
その一環として瑞穂町で捕獲し、泥抜きしたアメリカザリガニを教材に小学生向けの体験学習を開くというお知らせで、学習会はすでに終わっていた。食べられる部位を分離・解剖して調理する試食会だったそうだ。
日本では一般的にザリガニを食用にすることはないが、食材に利用する国もある。その味はシャコの旨味を抜いたうえ、乾いたような感じの身がほとんどだそうだ。食用以外に釣りの餌などに利用される。この日も狭山池で親子が釣り糸を垂らしてザリガニ釣りを楽しんでいた。