江戸時代の多摩川に万年橋が架けられていた

多摩川の橋

 江戸幕府は、江戸防衛上の観点から江戸以西の川への架橋を禁止して渡し船による渡河を許可していたが、特に大井川は、駿府城(徳川家康の隠居城)の外堀の役目もあり、渡し船も禁止され、川越制度(川越人足による渡河補助)が設けられていた。例外として、徳川家康は東海道の多摩川を横切る要地、六郷に慶長5(1600)年、六郷橋を架けさせたが、その後洪水で流され、以降4回架け替えられたが貞享5(1688)年の洪水以降、橋は再建されず、代わりに六郷の渡し船が設けられた。多摩川にあった渡しの数は39(現青梅から羽田迄)カ所とされる。以降多摩川に六郷橋が架けられるのは、180年後の明治7(1874)年の事になる。

万年橋

そんな時代の中、青梅に2橋、氷川(現奥多摩)に1橋、万年橋が架けられていた。とりわけ西多摩の地域の奇橋として、多摩川を跨ぐ3万年橋とは、神代万年橋(現神代橋)、御嶽万年橋(現御岳橋)、海沢万年橋(現海沢橋)である。

1、神代万年橋長は22間(約39m、皇国地誌による)

江戸時代の神代万年橋(出典・御嶽菅笠)
明治28年頃の神代万年橋
現在の神代橋

2、御嶽万年橋長は24間(約43m、新編武蔵風土起稿による)

中里介山の「大菩薩峠」の第一巻に御嶽万年橋の上で、主人公の机龍之介と青梅の大泥棒裏宿七兵衛がすれ違う場面が描かれていて、橋の長さは48間(86m)と書かれている。

江戸時代の御嶽万年橋(出典・御嶽菅笠)
明治29年頃の御嶽万年橋
現在の御嶽橋

3、海沢の万年橋長は15間(約27m、新編武蔵風土起稿のよる)

江戸時代の海沢万年橋(出典・新編武蔵風土起稿)
旧海沢橋
現在の海沢橋

西多摩地域は、関東の山岳信仰の対象である青梅の「御嶽山」や奥多摩の「一石山」があったことや、江戸から1~2泊程度で行ける行楽地であったことから多くの人々が訪れていて人々が参拝時に利用したことだろう。

※参考資料

◎青梅市文化財ニュース 第50号

◎明治時代の青梅 青梅市郷土博物館発行

◎土木史研究論文V01・24・2005 東京・三多摩地域における木・石・レンガ・橋の発展に関する研究