品川道にある「常久一里塚跡」(つねひさいちりづかあと)

常久一里塚

京王線多摩霊園駅の近く、品川道に「常久一里塚跡」(現、府中市清水が丘)があります。一里塚は、慶長9年徳川家康が秀忠に命じ、大久保長安が総監督となって設置したのが始まりで、江戸の日本橋を起点として、主要な街道の両側に1里(約4km)毎に設置された塚で、10年ほどで完了しました。塚の上にはエノキやマツが植えられ、街道を往来する旅人の道標となりました。

常久一里塚は日本橋から7里目の一里塚で、江戸時代初期に整備された甲州街道の一里塚で、後に甲州街道の道筋が変更されたため、現在の旧甲州街道ではなく品川街道と呼ばれる道沿いにあります。

「常久」(つねひさ)というのは、現在では地名として使用されておらず聞きなれない地名ですが、このあたりが「常久村」であったことに由来しています。

もともと常久村は、多摩川沿岸(現在の小柳町あたり)にありましたが、洪水のため流失したため万治年間(1658~61年)に段丘上の現在の品川街道から旧甲州街道にかけての土地へと移りました。
村名の由来は、人名といわれています。


そして多摩川沿岸の場所を旧常久(きゅうつねひさ)、移転した一帯を常久(つねひさ)と呼ぶようになりました。
旧常久の場所は、大正8年(1919年)6月1日に西武多摩川線が開通した際には「常久」という駅名で開設されました。その後、常久駅は競艇場の建設とともに競艇場前駅へと名称を変えています。

旧甲州街道には、村の鎮守である常久八幡宮への参道があります。かつて八幡宮境内には、常久寺という寺もありましたが、昭和末期に市の要望により常久寺は、現在地に移転しました。

甲州街道の道筋付け替え

本来は甲州街道にあるはずの一里塚が、品川道にあるのは後に甲州街道の路線付け替えが行われた為です。
現在、歴史上の甲州街道を指すときは、旧甲州街道を指しますが、この路線が定まる以前の路線は、これより南を通っていたと考えられています。現在の飛田給駅あたりから品川道を通り府中宿東方の武蔵国府八幡宮の傍らから京所(きょうず)通り→六所宮随身門前→現、府中街道と交差→現、府中本町駅前→現、御狩野街道を本宿方面に向かっていたと考えられています。道路付け替えの理由として、よくあげられるのはハケ下は、多摩川の洪水被害にあうことや交通量の増加が考えられていますが、明確な理由は詳らかではありません。ただこのルートは、六所宮を突っ切ることになるので、路線変更の再にはそれも考慮されたのではないかと考えられています。

 国立国会図書館デジタルコレクション

府中市内には、「常久一里塚跡」と「本宿一里塚跡」(現、府中市日新町、日本電気株式会社府中事業場内)の2つの一里塚跡がありますが、甲州街道の道筋が変更された為にいずれも主要道からは外れてしまいました。『武蔵名勝図会』には「往古甲州街道一里塚」として「本宿一里塚」が描かれています。
2つの一里塚跡は、昭和59年1月27日に府中市指定文化財(史跡)とされています。


<参考文献>

  • 新版武蔵国府のまち府中市の歴史   府中市教育委員会
  • 常久寺HP