津田梅子 ーどんな人だったの?ー

新札発行

2024年7月3日水曜日に新しいお札が発行されます。新一万円札に「近代日本経済の父」と呼ばれた渋沢栄一、新五千円札には「日本最初の女子留学生」としてアメリカへ留学した津田梅子、新千円札には「破傷風の治療法を発見」した細菌学者の北里柴三郎が肖像画として登場します。ここではこの夏に新しい五千円札に登場する津田梅子さんについて書こうと思います。実は同じ五千円札の肖像画だった新渡戸稲造とも親交があったのですよ。興味深いですね。それでは津田梅子についてみていきましょう。

津田梅子の肖像写真

何をした人?

津田梅子さんが何をした人なのか簡単に説明しますね。

日本初の女子留学生の一人。欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性。日本女性をアメリカに留学させるための奨学金の創設者。現津田塾大学の創設者です。

かんたんな業績

津田梅子は、明治4年(1871)12月23日から明治15年(1882)11月21日まで11年間、まだ幼い満6歳から17歳までの間をアメリカ合衆国へ官費女子留学生として過ごし帰国後の明治33年(1900)9月14日に「女子英学塾」を創設した日本の女子教育の先駆者。昭和4年(1929)8月16日に梅子が亡くなった後の昭和6年(1931)に小平キャンパスへ移転し戦後には校名を「津田塾大学」と改めました。

どんな人だったの?

梅子は、明治維新で職を失った士族の家系でしたが生涯に渡って士族としての誇りは忘れなかった人だと思います。あまりに幼いころからの留学だったので帰国後にはほとんど日本語を話せなくなっていました。本人も母国語は英語だと言っています。

アメリカの自由で男女平等な家庭で育ったため、男性を立てて一歩身を引き家庭をまもる当時の日本の女性の理想像が理解できず女性も男性同様に外へ出て働くべきだと考えるようになります。

そのような考えの梅子でしたが、11年の留学から日本へ帰ってみると、次々と官職を与えられ活躍していく男性留学生とは違って女性の留学生は何の仕事も与えられず放っておかれました。

華族女学校で教鞭に立ちましたが「女性は勉学などより花嫁修業」という上流階級的気風には馴染めずにいつしか「理想の女子高等教育機関を日本に創設したい」という思いをもつようになりました。

津田仙とハーツホン父娘

母の初子はどんな人?

梅子のご両親はどんな人だったのでしょうか。

母の初子は献身的に夫・仙を支えた人でした。彼女の姉は田安徳川家に仕えて田安慶頼の側室となり、徳川本家の第16代当主である徳川家達を産んでいます。津田家は高貴な家系だったのですね。

父の津田仙ってどんな人?

津田梅子に大きな影響を与えた人として父親の津田仙がいます。彼がどんな人だったか調べてみましょう。

梅子の父・津田仙は、天保8年(1837)年8月6日に下総国(いまの千葉県)佐倉藩堀田氏の家臣小島良親の3男に生まれる。文久元年(1861)に津田家の初子と結婚し婿養子となる。藩校で洋学、江戸に出て英語を学び、慶応3年(1867)幕府発注の軍艦引取りのため福澤諭吉の通訳としてアメリカへ派遣されます。
明治2年(1869)には英語の能力を生かして築地の洋風旅館、築地ホテル館に勤めて「西洋の料理を出すためには西洋の野菜が必要だ」と西洋野菜を栽培するようになります。明治8年(1875)学農社を開業、西洋種苗頒布を行う『農業雑誌』を発行し日本で最初の通信販売を行いアメリカ産トウモロコシの種の頒布を行います。また農学校も設立しますが経営に失敗して明治17年(1884)に閉校しています。この様に父親の仙は英語は通訳並み、農業技術に興味を持ち学校経営も行う人でした。

津田仙は、同志社大学の創始者新島襄、人間の自由と平等を説いた東京帝国大学教授の中村正直とともに、キリスト教界の三傑とも言われています。

ハーツホン父娘との交流

梅子が留学先のプリンマー大学で知り合ったアナ・ハーツホンは父・仙が出版した書籍の著者ヘンリー・ハーツホンの娘でありました。すごい偶然ですね。この書籍はずいぶんと売れてその評判は本国アメリカのヘンリーまで知れることになり、それがきっかけでヘンリーとアナのハーツホン父娘は明治26年(1893)に日本に来ることになります。ところが明治30年(1897)父ヘンリー・ハーツホンが亡くなり異国の日本に一人残されてしまったアナですが「理想の女子高等教育機関を日本に創設したい」という津田梅子の夢の実現を全力で助けることになります。

アナ・ハーツホン

明治35年(1902)に出版したアナの『日本と日本人』の序文には津田梅子と新渡戸稲造の助力への謝意が書いてあり、3人が親密だったことが分かりますね。日本とアメリカの関係が悪くなると仕方なく昭和15年(1940)にアナはアメリカへ帰国しその後の来日は叶わずに昭和32年(1957)に死去しました。津田塾大学は、アナ・ハーツホンの長年による貢献に感謝するため小平キャンパスの本館の建物を「ハーツホン・ホール」と名付け、本館の正面玄関右側の壁に、「ハーツホン・ホール」の由来を記し、アナを称える青銅製のプレートが掲載されています。

ハーツホン・ホール(津田塾大学小平キャンパス本館)

ハーツホン・ホールの説明版

新渡戸稲造との交流

今回津田梅子が新五千円札の肖像画になるわけですが、その前の五千円札(2004-2023)は「樋口一葉」、その前の五千円札(1984-2003)は「新渡戸稲造」でしたよね。稲造も英語教師で日本初の農学博士で「武士道」の著者でもあります。梅子や父・仙との共通点がありますね。そして五千円札の肖像画以外にも津田梅子と新渡戸稲造、そしてアナ・ハーツホンには親交があったのです。

稲造は英学塾(津田塾大学の前身)での講演や訓示はもちろんのこと、梅子が体調を崩してからは授業も受け持ち、ついに自ら「塾の伯父」と称するほどになっていきます。梅子が亡くなった時には30分にもおよぶ弔辞を読んで亡き友を追悼しました。

新渡戸家は妻メリーも養子の孝夫(よしお)、養女の琴子も含め一家あげて英学塾に協力し、そればかりか妻メリーの弟ジョセフ・エルキントン夫妻も献身的に講演とともに多額の寄付で英学塾に協力しました。

新渡戸稲造
梅子の事業に深い理解と同情を寄せ、みずから「塾の伯父」を以て任じた

梅子に影響を与えた伊藤博文

梅子が6歳で初めてアメリカへ留学したとき、岩倉使節団と同じ船での渡航でした。そう船内では若き伊藤博文と一緒だったのです。当時、梅子は溌剌としていた若いリーダーに憧れていたのかも知れません。留学から帰って職もなく困っていた梅子は伊藤家に住み込みで通訳や子息に英語を教えることになりました。

ところが憧れていた博文ですが家庭では毎晩のようにお酒を飲んで帰ってきたり、妾さんところや女遊びをして奥さんを泣かせたりと、ずいぶんと梅子は結婚生活に幻滅したものでした。生涯結婚しなかったのも伊藤博文が原因だったのかも知れませんね。