今回のブログは、以前高幡不動尊にお参りした際に境内で「藤蔵・勝五郎生まれ変わり ゆかりの地記念碑」の碑を目にしたことがありましたが、それ以来気になっていた生まれ変わりの話です。
勝五郎生まれ変わりの話
この生まれ変わりの話は江戸時代後期、文化文政年間(1804-1830)に中野村(現八王子市東中野)で生まれた小谷田勝五郎が8歳の時に姉と兄に自分の前世は程久保村(現日野市程久保)の藤蔵で、6歳の時に亡くなったと話したことから始まりました。
須崎藤蔵は文化2年(1805)に生まれ、文化7年6歳の時に疱瘡で亡くなりました。その5年後の文化12年(1815)に勝五郎は誕生しました。勝五郎は藤蔵が亡くなったときのことや自分がどのようにして生まれてきたか、さらには藤蔵の家の様子、近所のことまで家族に話しました。最初は信じなかった家族も両親以外は知らないようなことまで勝五郎が話し、あまりにも真実味があるので、その話を信ずるようになり、やがて中野村から山一つ超えた藤蔵の生まれた地程久保村を訪ねることになりました、文政6年(1823)1月のことでした。勝五郎のいう家は確かに藤蔵が生まれたという家でした。藤蔵の両親は勝五郎を見て藤蔵にそっくりだと驚き喜びました。この生まれ変わりの話は、近隣の村だけでなく江戸へも伝わることになりました。
勝五郎と池田冠山
この話は、同じ頃に愛娘を亡くした因幡国若桜の藩主で文学者であった池田冠山の耳にも届きました。冠山は中野村に勝五郎の家を訪ね、祖母から生まれ変わりの話を聞きました。藤蔵と同じ6歳の時に疱瘡で亡くなった露姫の再生を願ってのことと思われます。冠山はこの話を『勝五郎再生前生話』として著し、文人仲間に広めたので江戸でも評判になりました。
中野村領主の取調べ
池田冠山の著書により生まれ変わりの話が江戸でも評判になると、領主多門伝八郎は父親の源蔵と勝五郎を江戸に呼び出し取り調べをしてその調書を幕府に提出しました。
勝五郎と平田篤胤
国学者であり、幽冥界の研究をしていた平田篤胤も伝八郎の調書を読み、勝五郎から話を聞き『勝五郎再生記聞』として著しました。勝五郎は文政8年(1825)に篤胤の門人となり、当時江戸で活躍する多くの文人や学者が出入りするところで学ぶ機会を得ることができました。
勝五郎のその後
勝五郎は農業の傍ら父源蔵の家業の目籠の仲買いを引継ぎ暮らし、明治2年(1869)12月4日に55歳で亡くなりました。墓は生家近くに有りましたが、昭和60年頃に、多摩ニュウタウンの開発のため八王子市下柚木の金峰山永林寺に移転しました。
勝五郎と小泉八雲(ラフカディオハーン)
明治23年(1890)にアメリカから来日した小泉八雲(明治29年に帰化)は明治30年に米英両国で出版した著書の一編として『勝五郎の転生(Rebirth of Katsugoro)』を執筆しました。八雲の著書により、江戸時代に武蔵国多摩郡の村で起こった生まれ変わり物語は世界中の研究者の目に触れることになりました、20世紀後半に、アメリカバージニア大学医学部で「生まれる前の記憶」の研究を行なったイアン・スティーブンソン博士もその一人のようです。
勝五郎と藤蔵のゆかりの地
11月初めに藤蔵の生家、中央大学構内に残る勝五郎の道(勝五郎と祖母が程久保村に行ったときに歩いた道の一部)、八王子市下柚木の金峰山永林寺墓地にある勝五郎のお墓と日野市高幡の高幡山金剛寺墓地にある藤蔵のお墓を訪ねました。藤蔵のお墓は、元は須崎家の山の墓地に有りましたが、その場所の昭和40年代の宅地開発により昭和47年に高幡不動尊に移転されました。
藤蔵の生家は多摩都市モノレール程久保駅の近くにありました。幸いなことにご当主の奥様にお会いすることができ、藤蔵にまつわる話、今回のブログの参考資料である『勝五郎生まれ変わり物語』の編集者・勝五郎生まれ変わり物語探求調査団の長い間の活動のお話しを伺うことができました。藤蔵の生家(小宮家)には前述した池田冠山が刷物として配付したという露姫の戒名の位牌が祀られていました。
家の前に藤蔵のお墓の有ったという山も見ることができました。多摩動物園開園、中央大学キャンパス移転、多摩都市モノレール開業と大きく変わったというこの辺りですが、勝五郎と祖母が藤蔵の生家を訪ねたという旧道に昔が偲ばれました。
「生まれ変わりの話」は不思議な話ではありますが、今回勝五郎と藤蔵のお墓を訪ねてみて隣り合った村で起きたこの出来事が身近なことと思えてきました。
参考資料:『勝五郎生まれ変わり物語』 編集 勝五郎生まれ変わり物語探求調査団 発行 日野市郷土資料館