中武馬車鉄道
明治34年(1901)9月に東京府西多摩郡青梅町(現東京都青梅市)から埼玉県入間郡扇町屋(現埼玉県入間市)を経て、入間郡入間川町(現狭山市)まで全線開通した。
武蔵野鉄道(現西武鉄道池袋線)が開通前、鉄道空白地帯と化していた入間郡南部と青梅地区とを相互連絡するとともに、川越鉄道(現西武鉄道新宿線)と青梅鉄道(現JR青梅線)へそれぞれ連絡する鉄道系交通機関としての役割を果たした。
中武馬車鉄道の成り立ち
明治32年(1899)8月、埼玉県入間川町で5人、金子村で3人、東京府青梅町で4人、同霞村3人など、合計20人が発起人となって設立された軽便馬車鉄道(軌道幅762mm)であった。明治32年10月19日認可出願が行われ、明治33年(1900)6月25日に認可が下りた。これを受けて同年7月31日に設立総会が開かれ、正式に株式会社組織として中武馬車鉄道が発足。翌明治34年1月25日から着工され9月1日には全線が開通した。
起点は、青梅・森下にある岡崎酒店前(青梅「森下」停車場)で、そこから青梅街道古道を東方に向かい、青梅鉄道の線路を跨ぎ青梅街道古道の追分からは町屋街道(川越街道)に沿って大門・七日市場、県境の金子橋を渡って埼玉県に入り、金子・三ツ木・小谷田・扇町屋(入間)・鵜の木を経て終着は入間馬車鉄道停車場であった。全延長は18.5㎞である。
馬が牽引きする軽便馬車鉄道では、線路の設置はレールが細く、枕木も少ないなど簡単な構造であった。
営業資材の保有数
客車、貨車、馬の数。
客車12人乗りが10台
無蓋貨車 13台
有蓋貨車 2台
馬 27頭で牽引きした。
一日の運行数
一日の運行は午前中5便、午後5便の、計10便
運行時刻
青梅(森下)始発:4時50分~入間馬車鉄道着7時13分で2時間23分。
最終:17時10分~入間馬車鉄道着19時45分で2時間35分。
入間馬車鉄道始発:5時05分~青梅着7時55分で2時間50分であった。
最終:18時15分~青梅着20時55分で2時間40分であった。
青梅から入間馬車鉄道へ向かう時間と、入間馬車鉄道から青梅へ向かう時間が違うのは、青梅が標高215mであるのに対し入間馬車鉄道は標高55mで、高度差が160mもあるためである。
経営不振
鉄道空白地帯の沿線における経済の活性化を期待して開業したが、資本金7万円に対し、初年度は収入が約3,306円、支出が9,475円で、6,169円の赤字。
翌年も約5,980円の赤字。
明治37年(1904)には上半期のみで約3,965円の赤字になった。その理由として、この地方の地場産業である生糸産業や織物産業がこの時期にわかに不振となってしまったことがある。産業が停滞すれば貨物だけでなく人の移動も減少し、旅客・貨物ともに会社の予想を下回って行った。
更に明治37年に勃発した日露戦争が中武馬車鉄道に意外な打撃を与えることになった。軍馬が必要になったため、馬車鉄道にとっては生命線というべき馬が徴発され、運行回数が減少する事態になったのである。また、徴発以外にも、軍による徴用検査が度々行われ、馬を検査のため提出せざるを得ず、営業妨害となっていたことが当時の営業報告書に記されている。またこの戦争により、軍人は全員運賃が無償とされた。
この他にもこの軍馬需要の増加で、馬の餌代や馬具の値が異常に高騰し初めた。日露戦争開戦後は特にほどくなり、一時は馬の飼育費が人権費を上回るという異常事態にまで発展することになってしまった。そのため、明治40年(1907)7月には青梅から師岡までを廃線にしたが、以降も経営は赤字が続いたため、大正9年(1920)7月には、全線が廃止され、わずか19年間の営業であった。
※参考資料
◎青梅市文化財ニュース 第315号
◎狭山市立博物館資料
◎wikipedia等インターネット情報