多摩の古墳      国史跡武蔵府中熊野神社古墳 

 古墳ブームが続いているようである。墳丘の長さおよそ500mに及ぶものをはじめとして、世界でも独特な鍵穴型の前方後円墳が多数集まり、これらと多数の中小古墳が密集して群をなしている、あの仁徳天皇陵を含む百舌鳥古墳群と応神天皇陵を含む古市古墳群が世界遺産に指定された以降ブームに拍車がかかったようだ。それぞれ堺市と藤井寺市・羽曳野市にあり、それぞれが国史跡の指定を受けている。国史跡とは、国内の遺跡のうち、日本の歴史を正しく理解するうえで欠かせない学術的価値をもつ重要なものを史跡として指定し保存を図って後世に引き継ぐ制度ということであり、青森県の三内丸山遺跡や、佐賀県の吉野ケ里遺跡が挙げられる。近隣では、埼玉県のさきたま古墳群が、国指定の史跡。別途地方公共団体指定の史跡もある。

 考古学上は、石器時代・縄文時代・弥生時代に続いて、古墳時代の登場になり、都内の歴史館・博物館でも、石器や土器を目にすることがあるものの、はてさて東京に古墳はあるのか??  全国には、現存消滅を合算して、約17万の古墳があり、北海道・青森・沖縄は別として日本全国に広がっていて、東京にも、七百余の古墳があり、その多くが多摩川沿いに集中している。(古墳の数では、都道府県で31位の由)

はてさてこの国史跡というのは、多摩にはあるのかないのか、そしてそれはどこなのか?? 身近でいえば、府中駅から府中本町に繋がる、武蔵国府関連の遺跡等が国史跡として指定されている。 では、古墳は??

 

武蔵府中熊野神社古墳

 

南武線を、府中本町から西へ二つ目の駅=西府駅でおりて、北に向かって突き当たった甲州街道を西方の国立方面に向かうと、道路の北方に「国史跡 武蔵府中熊野神社古墳」の長尺看板が目に入ってくる。鳥居を潜れば、よく町にある程のさほど大きくない神社の社に続く参道が延び、その参道の左手には、コンクリート造りの展示館があり、その横には古墳石室復元展示室が設置されている。

 

 

神社の裏手には、もこっもこっとした大福をつぶしたような円形墳が復元されており、よく見る土を盛り上げた古墳とは異なる墳形で、3段構成となって、一段目が基盤状の約32mの方形で縁石に囲まれ、その上の2段目は約23mの方形、そして3段目は直径約16mの円形であり、2段目と3段目は河原石でびっしりと覆われている。古墳の高さは、約6m。

双丘鍵穴型の前方後円墳とは違い、この古墳は「上円下方墳」といわれて、現在では、日本全国で6ヶ所しか確認認知されておらず、その中でも2番目に大きいという。

 

 

 

武蔵府中熊野神社古墳発掘の歴史

 

  小生も府中近くに在住して20年余になるものの、府中にこんなに大きな古墳があることは知らなかった。この武蔵府中熊野神社古墳が、国史跡指定されたのは、平成17年(2005)7月で、今から約18年前のことだそうだ。

   神社の境内にある小山が、古墳であるという説は以前から存在し、関東大震災の時に墳丘が一部崩壊するまでには、石室の中に入れたとの言い伝えがある由。穴に入ることが出来たので、神社裏の小山を洞穴と呼んでいたそうで、最近まで古墳であるかどうかは確証がつかめなかったという。なお、熊野神社は府中市内の本宿町にあったものが安永6年(1777)に現在地に移転してきたものと伝えられており本殿・拝殿ともに市の文化財。古墳と神社は関係のないものとみられている。

平成2年(1990)に熊野神社の祭礼の山車が壊れたので新調することになり、同時に山車の収納庫も建て替えの話が出て、神社内の小山の一部を削り建て替えることになった。その収納庫の新築時に、府中市教育委員会から遺跡発掘調査の指示が出て、熊野神社敷地内の小山は、土を突き固める版築という方法で築造されていることが判明し、また小山から河原石が大量に見つかった。だが、南東の高倉古墳群から離れていることや、版築工法を用いた古墳が近隣に見当たらなかったことから、発掘後も古墳とみなされなかった。

明治17年(1974)に発行された『武蔵野叢誌』に熊野神社裏手の塚の記述があることが見いだされ、平成8年には塚内の石室の記事があり、平成15年(2003)には、小山の発掘が開始された。その後、三段築成の上円下方墳であることが確認され、石室の周辺発掘があり、平成15年(2005)には国の史跡に指定された。

現在では、葺石や貼石が表に出た形で復元されて、展示館が建てられている。

 

 

                  石室復元展示室の入口       

 

                      武蔵府中熊野神社古墳展示館                                                                  

                                                                

武蔵府中熊野神社古墳の立地

 

武蔵府中熊野神社古墳は、多摩川の河岸段丘である府中崖線北側に広がる武蔵台地の立川面と呼ばれる台地上に造られた。多摩川の下流から上流に向けて広がる古墳群は多々あるが、近隣1.2km南東の高倉塚古墳群や南側0.4kmにある御嶽塚古墳群といった群集墳があるものの、当古墳の近隣には古墳はなく、古墳の大きさも形態も全く違っていて、単独で作られた古墳であるとみられている。

                                        高倉塚古墳

 

                                   御嶽塚古墳

 

武蔵府中熊野神社古墳の出土品

 

熊野神社古墳は、明治時代には開口されており、古墳の副葬品の多くは持ち出されてしまったといわれて、鉄地銀象嵌鞘尻金具一点と刀子4点、鉄釘多数とガラス玉6点が出土したのみであり、副葬品はわずかであった。

鉄釘は主に木棺の止め釘とみられ、一部は木棺のヒノキ材や絹布が付着しており、被葬者は絹布で覆った木棺に安置され埋葬されたようである。出土品の中で注目されるのが、大刀の先端に付く金具の鉄製鞘尻金具であり、富本銭にみられる七曜紋の見事の象眼が施されていて、7世紀後半でも早い時期のものとみられている。

出土した銀象嵌鞘尻金具

 

武蔵府中熊野神社古墳の謎

 

 多摩川流域では、4世紀末には大田区・世田谷区で前方後円墳や円墳が造られている。5世紀から6世紀には府中周辺にも小さな円墳が造られている。前述の高倉塚古墳や御嶽塚古墳も6世紀後半の地元の有力者のものであると推定されている。また、7世紀前半には、多摩川の河原石積み横穴式石室が造られている。

現在の東京都・埼玉県と神奈川県川崎と横浜の一部を包括する武蔵国が成立するのは、大化改新後の大宝律令(大宝元年、701)による国・郡・里の 3段階行政組織=国郡里制により国司が命じられてからとするが、大国である武蔵国司には大宝3年(703)に国史が任じられたことが続日本記に記載されている。

 それ以前には、安閑天皇時代の534年とされる武蔵国造の乱で、埼玉県行田市(さきたま古墳のある地域)の笠原直(かさはらのあたい)が、上毛野小熊(かみつけぬおぐま)に援助を求めた小杵(おき)に勝利して国造を世襲することになっていた。その後に大宝律令の制定になるが、その国府の所在地が、行田市のさらに南方の府中市におかれた。

はてさて、なぜに行田から府中に国府が移ってきたのか? 一説に、府中周辺には古墳がほとんど存在せず、つまり大きな地域有力者が不在であり、北武蔵には大きな古墳があり、有力豪族がいた。東国の大国である武蔵を、中央集権を進める政府としては、中央政権支配の傘下に確実に置くべく、武蔵北の豪族からは離れた、多摩川沿いの府中に国府を設定したのではないか、とも言われている。

 府中熊野神社古墳はなぜここにある?  被葬者は誰か、どういう官職者か?

武蔵は、律令制による「五畿七道」設定では、当初は行政区画の東山道とされたが、後に東海道に組み換えされた。東海道と東山道を繋ぐ、東山道武蔵道がこの武蔵府中熊野神社古墳近くを通っている。7世紀中頃に築造されたこの大型で、類例のない、古墳の被葬者は、どういった人物・役職だったのか。大国武蔵の豪族か?、政府派遣の上級者?か、それとも……また 府中国府との関係があるのかないのか、謎は解明されていない。

 

参考資料

   府中市発刊の各種パンフレット

   Wikipedia

   よみがえる古代武蔵国府 公益財団法人府中文化振興財団&府中市郷土の森博物館