水流の立体交差

はじめに

自然の河川が立体交差することはあり得ませんが、人が作った用水に注目すると、河川と立体交差したり、用水同士が立体交差するといった場所が稀ではあるのですが見ることができます。


武蔵野台地には水を蓄える山がなく、また地表は水が浸透しやすいということから、武蔵野台地上は自然河川の少ない場所であり、そのために昔から人々は生活のために多くの用水を引いて暮らしてきました。
しかし、その用水の水を標高を保って流そうとしたとき、長い窪地が横たわっていたりすると(このような長い窪地はだいたいが流れの細い川であったりします)、そこを乗り越えるために、窪地の上を立体交差で渡す用水用の橋を架けることになります。
木で造作した「木樋(もくひ)」という構造のものもあれば、土を突き固めて土手を造る「築樋(つきとい)」というものもあります。

地図上での記載例

地図にはこれら立体交差にかかる造作の状態が分かり易く描かれています。
次の図が典型的な形状です。

左上から下へ斜めに伸びているのが用水です。これが水流であることは左上に水車の記号があることからうかがい知れるかと思います。なお、用水は人工的なものですので流路はだいたいが直線的になっており、蛇行する用水はまずありません。
図の中央付近で、この用水とトンネルで交差している波状(蛇行を表している)のラインが川になります。
用水は交差する部分において流れの両側に土堤(土手)を築いて川を渡っており、一方、川はその部分でトンネルになって、用水をくぐっています。この形状が築樋の特徴をよく表しています。
なお、土手を表現する地図記号はイメージし易いものになっていますね。

仙川と交差する3つの用水

さて、小金井市に源を発する「仙川」は、その上流部は水の流れが少なく普段は涸川となっており、雨が降った時に水流ができる程度の川です。この仙川には上記の立体交差の用水が多くみられますので、それを眺めてみましょう。

1/20,000「田無」明治39年 に加筆 <地図をクリックすると大きくなります>

まずは、「山王窪築樋」と言われる小金井村分水と仙川との立体交差です。(上の地図の左の円内)
元禄9年(1696)頃築かれたもので、全長56間(約102m)、高さ1丈8尺(約5.4m)あったと記録されており、今では分水跡はレンガ敷きの歩道として整備されています。

長さ100m以上の土手が築かれている(仙川の位置から築樋を見上げる)

次に梶野分水と仙川との立体交差です。(上の地図の中央の円内)
梶野分水は享保17年(1732)に幕府から許可を受け、長さ約230m、高さ約4mの築樋が作られました。梶野分水は現在は遺構が残るだけで利用されていません。

梶野分水の遺構(下流側から上流側を見る)、この下で仙川が直交している

次が武蔵境にあった境村分水との交差です。(上の地図の右円内)
境村分水については、寛政3年(1791)に書かれた「上水記」には玉川上水の33の分水の一つとして記されているだけで、その開設年まで記載されていませんが、境村にとって生活用水を確保するための重要な用水であったと思われます。
下の写真の右方向に境村の本村がありました。
今では境村分水の跡は都道123号境調布線(天文台通り)になっており、行き交う車を眺めていると、ここに用水が流れていたとは到底思えない姿に変わっています。

用水と用水の立体交差

次に、用水と用水の立体交差について見てみましょう。
紹介するのは、田無用水鈴木用水の立体交差です。(現在は水が流れていません)
田無用水は元禄9年(1696)頃開削され、鈴木用水は享保14年(1729)頃の開削と思われます。
後から用水を引く方が先に用水を引いていた方に迷惑を掛けないように工作するのが普通ですので、後からできた鈴木用水が田無用水の上を越すように造られています。
今はコンクリート製の掛け樋になっています(「昭和5年成」と書かれている)が、開削当初においては、おそらく木樋であったと思われます。

1/10,000「田無」昭和27年 (用水の流路に一部推定したところがある)

河川と導水管の立体交差

次に水流の立体交差でも、ちょっと変わり種の立体交差を見てみます。
それは、河川の石神井川と東京都水道局の原水を通す導水管との立体交差です。
もっとも、水道関係の送水管は地中で様々な水流と交差しているのはよくあることなのでしょうが、この場所はちょっと大掛かりで興味深いものです。
この交差部分を「馬の背」といって、小平市の見どころスポットとして、これを目的に訪れる皆さんが多い場所になっています。
そもそもは、村山貯水池から境浄水場へ水を導水するために大正13年(1924)に造った導水管(直径約1.5m)が石神井川を渡るために築造したもので、延長約400m、高さ約4mあります。
ただし、導水管はこの土手の上に置かれるのでなく、土手の中に埋められていて、外部から保護される仕様になっています。

盛土部分が「馬の背」と呼ばれており、その中に「導水管」が埋められている
石神井川の流れ(普段は涸れている)は「馬の背」の下を潜っている
1/10,000「田無」昭和59年

下の図は、村山貯水池から境浄水場までの導水管を設置した当時のその断面図の一部を拡大したものですが、「永久保溝」(石神井川のこと)の川底が標高60.7mに対し導水管の水面高は65.6m~65.3mありますので、導水管は石神井川の上を跨いでいることになります。この図面は導水管を盛土で保護した姿ではなくむき出し状態で描かれていますので、「馬の背」の状態にはなっていませんね。

「東京市水道拡張設計図(大正12年)」から採取、追記
(記載数値は尺貫法のため、青色でm表示を示した)

河川と玉川上水の立体交差

最後に、多摩地域で最も有名と思われる水流の立体交差を見てみます。
残堀川と玉川上水の交差です。
もちろん、残堀川は河川で玉川上水は人工の水流です。
写真を撮りましたが、規模が大きいので、全貌を画角内に収めるのが難しく、ちょっと分かり難い画像になっています。

次の地図を見た方が、その状態がよくわかるかと思います。

1/25,000「立川」昭和58年

玉川上水の両側に側道があってちょっと見難い描画になっていますが、位置関係を見ると、残堀川(南北の流れ)の下を玉川上水(東西の流れ)が潜っています。
これは「伏越(ふせこし)」といって、「連通管」の原理で残堀川の下を潜らせています。
現地には下の説明板があって、構造を解説をしています。(解説では「サイホン」という用語が使われています。)

残堀川と玉川上水が交差する地点に掲げられた説明板 <画像クリックで拡大>

また、この説明版の解説の最後のところで、この立体交差についての歴史を簡単に記していますが、面白い経緯があります。

江戸時代においては、玉川上水の水量を安定させるために(特に冬から春先にかけての多摩川の渇水期において)、助水として残堀川の水を玉川上水に流し込むように平面交差する状態で玉川上水を造りました。

1/20,000「拝島」明治39年

それが明治期になると、養蚕や織物業の発達で残堀川の水質が悪化してきたことから、まだ上水機能を担っていた玉川上水を残堀川から切り離して、残堀川が伏越で玉川上水と交差するように明治41年(1908)に工事をしました。
その結果の姿が、次の地図でよくわかります。(残堀川が玉川上水の下にもぐっている)。

1/10,000「西砂川」昭和27年

しかし、昭和期に入ると、今度は、残堀川流域の開発に伴って大雨時に残堀川が氾濫し、残堀川の溢水が玉川上水に流れ込むことが頻繁に起こるようになりました。まだ当時においても玉川上水の水は東京の水源として使っていた(淀橋浄水場で浄水処理はしていたが)ので、玉川上水に洪水の泥水が流れ込まないように、玉川上水の方を伏越にする改良工事を行ったものです。伏越は水量が急増すると溢れ出す欠点があるので、水量をコントロールし易い玉川上水の方を伏越にしたというものです。この完成が昭和38年(1963)でした。
現在は、この時の姿で二つの水流が交差しています。

おわりに

冒頭で述べたように、水流の立体交差は武蔵野台地の特徴ともいえるものでしょうから、用水の地図を眺めて立体交差の存在を予想して、現地にでかけてそれを確認するなどという遊びは、多摩地域ならではのものと言えるかもしれません。