450年余の長きにわたって取水に携わる多摩川の堰~日野用水堰

先のブログで、多摩川に設置されている主要な8基の堰のうち、河口側から上流に向かって、順に4基の堰(調布取水堰、ニヶ領宿河原堰、、ニヶ領上河原堰、大丸用水堰)の特色などについて触れてみました。

今回は、多摩川河口から数えると5基目となる日野用水堰について述べてみたいと思います。

日野用水の開削と日野用水堰

日野用水の開削は、室町時代後期の永禄10年(1567)、滝山城主(後に八王子城主)北条氏照の下で、美濃国出身の佐藤隼人(後の日野宿本陣、上佐藤家の祖)によって行われました。佐藤隼人は、北条氏照から罪人をもらい受けて開削を行ったということです。

当時の日野用水の流路や取水堰の様子は明らかになっていないとのことですが、日野用水が開削されてから450年余。日野用水堰は多摩川の主要な堰の中で、最も古い歴史を持つ堰の一つになります。

日野用水開削時に開業した茶屋の傍に植えられたと伝わるお茶屋の松(明治30年代)

江戸時代以降の日野用水と取水堰

江戸時代前期の貞亨元年(1684)、日野用水には上堰(かみぜき)堀下堰(しもぜき)堀の2つの水路があり、2つの水路は分水と合流を繰り返しながら甲州街道の周辺に広がる日野領の水田を灌漑していたという記録があります。

上堰堀の取水口は今日の八王子市平町、下堰堀の取水口は昭島市中神町に相当する地区のそれぞれ多摩川右岸に設けられていたようです。

しかし多摩川の流れの変動や洪水のたびに、上堰堀と下堰堀の取水口と堰は域内で位置を変えており、水量を確保するために、谷地(やじ)川に取水口を追加した時期もありました。

明治、大正、昭和へと時代が進むとともに、日野の新田開発はさらに進み、日野用水は浅川からの用水とともに支流を増やし、規模を拡大させて行きました。

分水と合流を繰り返しながら流域を拡大させた上堰堀と下堰堀

しかし取水堰は、昭和期に入っても蛇籠を積み上げて造った蛇籠堰が主流でした。蛇籠堰は小規模な水害には素早く対応できる利点がありましたが、たび重なる洪水と時代の要請に応えづらくなり、昭和37年(1962)に近代的な堰に造り変えています。それが今日の日野用水堰です。

昭和30年前後の下堰堀の取水口。手前に蛇籠堰が見えている。

今日の日野用水堰

今日の日野用水堰は、JR八高線小宮駅から歩いて15分ほどの場所にあります。かつての上堰堀の取水堰よりやや下流に移動しており、堰の長さは地図上で約300m。多摩川河口から約45.5㎞上流にあって、堰の右岸は八王子市平町、左岸は昭島市大神町に位置しています。

多摩川を挟んで八王子市平町と昭島市大神町を結ぶ日野用水堰

堰の構造は、固定堰、可動堰(起伏式)3門、魚道2門から成り、魚道はハーフコーン型魚道を採用しています。

右岸(向かって左側)から左岸へ可動堰(起伏式)、ハーフコーン型魚道、可動堰、そして長い固定堰が見えている

日野用水堰の建造に当たり、上堰堀の取水口を日野用水堰の方へ移設しています。さらに下堰堀の取水口を閉鎖し、上堰堀を分水させて、かつての下堰堀の取水口付近で下堰堀に合流させました。これによって、2か所あった日野用水の取水口は1か所となりました。

1か所となった日野用水の取水口

「多摩の米蔵」創出に大きな役割を果たした日野用水

日野は「多摩の米蔵」と呼ばれるほど米作が盛んな土地でした。それは、日野領内に網の目のように張りめぐらされた農業用水がもたらす水の恵みによるものでした。

日野には、多摩川右岸から取水する日野用水のほかに、秋川、程久保川などから取水する上田用水、新井用水、豊田用水、高幡用水などがありますが、日野用水はそれらの中でも規模の大きな用水でした。

昭和30年代に入ると、急激な都市化が進み、水質の悪化、水田の減少などにより、用水路の埋め立てが進みました。
多くの水路が失われた日野用水ですが、今日では市民と行政によって水辺の保全が進み、農業用水として機能しながら、清流と緑を守る取り組みが進められています。

八王子市平町を流れる日野用水

参考資料
  *国土交通省 京浜河川事務所資料
  *日野人が守り育てた緑と清流ー日野用水開削450周年記念特別展
  *日野用水開削450周年記念誌 日野用水450年! ー昨日、今日、そして
   明日へー 
   *地理院地図