大丸用水を歩く

多摩川には、上水や用水などに引き入れるため、川をせき止め、水位を調整する「堰(せき)」が8ヶ所にあり、玉川上水の入口たる羽村堰はその一つである。今日は、現在の稲城市北西にあり、府中市の郷土の森公園を対岸に見る大丸用水堰をスタートとして、この大丸用水堰を設置して、農業用水として利用した大丸用水を案内しよう。大丸用水は、大丸の取水口から多摩川の水を取水し、川崎市登戸までの水田や果樹園等に水を補給している用水で、9本の本流と約200本の支流を合わせた総延長は70kmに及ぶ。

昔から、多摩川添いの地域は、多摩川に近いのに、農業用水として利用できず、徳川家康の江戸入り頃から、新田開発を目指して、多摩川の水を取り入れた用水路を数多く設置してきた。大丸用水の近くでいえば、多摩郡和泉村(現在は狛江市)で取水した六郷用水は、代官小泉次大夫が指揮して世田谷区と大田区へ至る延長23kmで49の村に農業用水を供給した。多摩川の右岸の川崎市を流れる二ヶ領用水も小泉次太夫の指揮で設置され、併せて4ヶ領用水とも呼ばれた。

 大丸用水は、歴史的な資料に乏しいものの、江戸幕府の大規模な治水・利水政策の一環として、多摩川流域の他の用水路とともに農業用水としての開削時期は江戸時代初めと考えられており、江戸幕府の大規模な治水・利水政策の一環として、他の多摩川流域の用水路とともに開削された。延享(えんきょう)3年(1746)の古文書によると、元禄12年(1699)以来大丸用水組合による修繕資材の負担が行なわれていることが記載されており、少なくとも成立が17世紀まで遡るのは確実。稲城市域の4村(大丸村、長沼村、押立村、矢野口村)と川崎市域の5村(菅村、中野島村、菅生村、五反田村、登戸村)が、当時の橘樹郡と多摩郡という支配領主も異なる村々ながら水利の点では一致しており、「大丸用水九ヶ村組合」を組織して、後は流域各村により管理された。また享保12年(1727)には田中丘偶により全面改修されている。

細かく分岐された水路は、今日に至るまで水路の立体交差などの多くの工夫が施されて農地に水が引かれた。現在でも、住宅地として利用の為、一部が暗渠化されているが、主に農地に水を供給しているほか、親水公園として、また緑ある散策路として市民の憩いの場になっている。

 

      稲城市北西部  大丸用水堰から大丸親水公園へ

                         大丸用水 水路図

 

 1. 大丸用水堰

JR南武線南多摩駅からスタート。隣接する府中街道を府中に向かい少々北上すると、多摩川の是政橋に達する。是政(これまさ)という聞き慣れぬ名の由来は、後北条家北条氏照の家臣の井田是政(いだ これまさ、生没年不詳)が、主君自害後に、現在の府中市是政の地(古くは横山村)を開拓して村を開いたことによる。近くの東京競馬場第3コーナー付近に井田一族の墓がある。この是政橋の前を左折し、川沿いの砂利草地を上流ヘ向かって10分ほど歩けば、大丸用水堰に到達する。ここは多摩川河口から32.4km。稲城市大丸の「一の山下」と呼ばれる場所だ。大丸用水堰には、固定堰と可動堰が設置され、可動堰間には魚道が設置されている。大丸用水堰は、築造時は長さ100間(約182m)、現在は330m程度であり、2間(約3.6m)の用水圦樋(いりひ)が南岸沿いに設置され、大丸用水に注がれている。

 

             大丸用水堰

堰の南岸には、多摩ニュータウンの建設と歩調を合わせて、南多摩水再生センターが作られ、処理区域は多摩市・稲城市の大部分、八王子市・町田市・日野市の一部て、計画処理面積は5,900haで、処理した水は多摩川に放流している。

 

取水口近くで、大丸用水が上の写真のように、ちょっとは顔をのぞかせるが…   

暗渠に沿い歩くと、先ほどの、南多摩水再生センターからの放流口を経て、その先に、三沢川分水路の表示板がみえる。三沢川分水路は、多摩ニュータウン開発時に、大規模な開発により、森林草原が失せてしまうと、稲城市中央部を貫く一級河川とはいえ三沢川では降雨量への対応が十分とは言えない。開発地の稲城市の先の東京都ではない神奈川県の川崎市街に水害の発生が懸念されるため、東京都では三沢川から稲城中央公園の地下を通して分水路を作り上げ、三沢川の超過流量を直接多摩川に流し込む工夫が必要になった。これにより、多摩ニュータウンの開発が実現した。いつもは、ほとんど流れが観測できないのであるが、その時のために分水路が設置され、多摩川への放流を準備している。

           三沢川分水路の表示板

 

 南武線南沿いを流れる大丸用水堰取得水の流れ 「うちぼり」と呼ばれる

大丸用水堰取水は、JR武蔵野線と南武線の鉄道橋の下を潜り、工場の敷地脇の姫女苑満開の草地を通って、南武線沿いの小住宅地に沿って流れて、南多摩駅に達する。

 

 2.分量橋跡

南多摩駅は、以前は山手線車両の二次利用の田舎電車風から、ここ近年南武線の通勤列車化により、駅舎も改築されて、駅近辺も開発が進んでいる。

         JR南武線 南多摩駅

 この南多摩駅の北東辺に、大丸村の用水と他村用の用水を分けるために付設された分量樋があり、堀幅は大丸村用1に対して他村用2の割合に分けていた。ここで分水された大丸村用の用水は大堀(おおぼり)と呼ばれ、大丸村の南部を潤したのち長沼村・矢野口村を流れ、さらに川崎方面に向かった。一方他村用の用水は大丸村の東部で菅堀(すげぼり)と新堀(しんぼり)に分かれる。新堀は長沼村の中央部を横切る形で流れ、また菅堀は村の北部を迂回するような形で流れたのち押立村方面に向かって、喧嘩口(けんかぐち)と呼ばれる分水口でさらに三つの流れに分かれる。このようにいくつかの流れに分水された用水は、さらに網目状に分かれて矢野口方面から下流の川崎地域の村々の水田を潤した。

ここ南多摩駅北側では、大丸の米軍施設周辺の森林を水源とする谷戸川(やとがわ)という小さな河川があり、当駅の傍で大丸用水と交差し、押立の先で多摩川に合流する。付近の区画整理により、暗渠となって、大丸用水との交差も見られなくなった。

       大丸用水の分量樋  左が菅堀、右が大堀

 

3.大堀・菅堀・新堀…

分量樋を確認して、大丸用水は大丸・長沼・矢野口に向かって流れる。巾4m程の水路は、いつもの静かな流れとは少々異なり、結構な水量で流れていた。水路の両脇には、側道が設けられ、側道には、草や花が植えられ、ちょうどあじさいの満開時期であった。

                         大丸用水 菅堀

 

 大丸用水は、複雑な水路が張り巡らされており、上の写真のように、水路の立体交差も見られる。ここは、谷戸川から分流して菅堀を水路で渡り大丸自事会館付近で菅堀に合流する水路。吉田新田堀。

分水を巡っては、いろいろと騒動もあったようだ。上の写真のように、水路を左右の利用する村々の議論で、分水樋を設置していったようだが、用水の利用にあたっては、しばしば水争いが頻発した。水争いの内容は、夏場の渇水時の水の配分をめぐるものや、多摩川の用水堰の設置をめぐるものなど様々で、村々ではそのつど幕府へ出訴して裁定を仰いだという。江戸時代から維持・管理されてきた大丸用水は、現代では、しだいに農業用水としての機能を失いつつあり、現在の管理は、昭和27年8月に設置された「大丸用水土地改良区」が行なっており、用水を利用している耕作地の面積は年々減少している。水田の減少によって不要となった用水は埋め立てられたりして、その様子も変わってきているが、最近では、新たに親水公園として整備されてきており、貴重な水辺として生き続けている。

 

             やなぎの池の広場

 

            田島稲荷神社

水路に近く、田島稲荷神社がある。江戸末期に繁栄を極め、文久2年(1862)に建立された由。写真の本殿覆堂のなかには、一間社流造こけら葺の本殿がおさめられている。

4. 大丸親水公園

歩を進めると、菅堀が南北に分断して、菅堀から新堀が別れる。その分断の間にある中ノ島的存在が大丸親水公園で、少し盛り上がった敷地に、四阿や和水路が設けられ、散策者の休息地となっている。コロナ禍感染防止のためか、休日だというのに人影は、少なかった。

水路は、いつになく流量が多い目であったが、水路の中の水藻が水面に映って水の流れを豊かに見せていた。

                                                                      用水側道には、住民の手で花がそこここに植えられていて、目を和ましてくれる。水路は、宅地造成により、暗渠化する部分も多いが、主水路には、隣接する住居の水路越え小橋が逐次設けられて、各住宅の玄関口を作っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5.雁追橋跡

用水沿道には、昔からの語り伝えも記されている。写真の「雁追橋(がんおいばし)跡の碑」は、江戸の時代の頃にこの近くに大変美しくて気立てのいい女の人が住んでいて、この人は御殿女中で江戸幕府で務めていたが、どんなことがあったのかわからぬがこの地に移り住んでいた。近所でも評判の美人で、村中の男たちはキュウリができたりナスができたりするとこぞって持って行き、なんとか仲良くなろうと思ったが、大変貞淑な人だったので男たちはすぐに帰されてしまっていた。多摩川のほとりにたくさんの雁が来ていたので、村人たちはこの雁に例えて「雁と同じように男たちが集まってくるがすぐに追い返されてしまう」と言って噂をたてた。女の人は長くこの地に住んだが、そのうちに「雁追婆さん」と呼ばれるようになり、橋の名前にも付けられたという。

大丸から長沼村の境にあたる場所に、津島神社がある。天慶8年(945)に当地の念仏信奉者が毎年起こる多摩川の氾濫とその後の各戸の病難を救わんと、空也上人から牛頭天皇を授けられて津島牛頭天王社を創建し、後大正年間に津島神社の末社となった由。

 

そろそろ歩いて2時間強になり、稲城長沼の駅も近づけば、ここらで今日は終わりにして、稲城長沼駅周辺で遅い昼食にでも呼ばれようか。

資料 稲城市パンフ、Wikipedia 他