武蔵国は出雲系!?-②……やっぱり!

ブログ「大國魂神社 一宮と三宮」をお話しする中で、武蔵国の古くて大きな神社の主祭神が、天照大神を主柱とする高天原にいる神々である天津神ではなくて、天照大神が国譲りを迫った、出雲の国にいる弟の須佐之男命の支配する(高天原でなく、地上の)この地に在地した神である国津神であることに気づき、なぜそうなのかを調べてきた。

奈良の大和政権が、応神天皇・仁徳天皇から、讃・珍・済・興・武の「倭の五王」の時代、推古天皇・聖徳太子時代を経て、大化の改新の天智天皇へと継承される中で、着実に大和政権の支配範囲を拡大し、西国はもとより、関東・東北への支配力を強化して中央集権化を進め、各地方に大和政権の官僚たちを派遣して、統一国としての日本を作り上げてきた。その間、文化の進んでいた中国と朝鮮半島との文物を通じた交流・交易が進められたが、百済再興を目指して戦った唐・新羅との連合軍に大負け(天智2年西暦663年白村江の戦い)して朝鮮の拠点を失い、唐・新羅の侵攻の防衛に努めざるを得なかった。高句麗・百済からの亡命貴族連や避難民の日本への流入は多数あり、仏教・鉄器・城・農耕等の文化がもたらされて、広域に開発を進める大和政権の全国支配に大いに寄与していた。

寺は、宗派の高僧達が創建地を決めて地域部族達の支援を得て設けるのに対し、神社は、地域の自然崇拝・畏敬の対象を地域民の総意で拠点化していったもので、その神々を大和政権が作り出した「日本書紀」や「古事記」に登場する神々に併せて擬人化して当てはめて祭神として奉ったものであり、地元の神と中央派遣高官の祖族の神との力関係が作用して、現在ある神社の主祭神として祀られているものと考えられる。

Ⅰ. 関東の古社の祭神は?

では、論題の武蔵野古社の主祭神、さらに広げて関東古大社の主祭神が、どういう具合になっているのか、足とWikipediaを使って調査した結果が次の通りである。

1. 関東8都府県(旧関東八州)即ち、武蔵、相模、上野、下野、常陸、上総、下総、安房8ヶ国の主祭神を羅列してみる。赤字は、国津神→出雲系

関東八州    下記十社とも式内社

地域名  古社名      所在地      主祭神

武蔵  氷川神社 さいたま市大宮区   須佐之男命稲田姫命大己貴命

武蔵  氷川女體神社 さいたま市緑区  奇稲田姫命

相模  寒川神社    神奈川県高座郡寒川町  寒川比古命、寒川比女命

上野  一宮貫前神社  群馬県富岡市      経津主神、姫大神

下野  二荒山神社  栃木県宇都宮市  豊城入彦、大物主命事代主命

常陸  鹿島神宮    茨城県鹿嶋市      武甕槌大神

下総  香取神宮    千葉県香取       経津主神

上総  玉前神社    千葉県長生郡      玉依姫命

安房  安房神社    千葉県館山市      天太玉命

安房  洲崎神社    千葉県館山市      天比理乃咩命

宇都宮    下野一の宮二荒山神社    大鳥居

須佐之男命と稲田姫命=奇稲田姫命の子が(orその子孫が)大国主命=大己貴命。豊城入彦(とよきいりひこ)は第10代崇神天皇皇子で、下野君・上野君の始祖とされる。鹿島神宮/武甕槌大神(たけみかづちのかみ)と香取神宮/経津主神(ふつぬしのかみ)は、「日本書紀」において、葦原中国(あしはらのなかつくに)国譲りに天界からおりてきた天津神。

2. 武蔵の古社11社は下記。

古社名         所在地           主祭神

大國魂神社   東京都府中市      大國魂大神(大国主神)

鷲宮神社    埼玉県久喜市      天穂日命武夷鳥命大己貴命

玉敷神社     埼玉県加須市     大己貴命

久伊豆神社   埼玉県越谷市他     大国主命言代主命=事代主命

小野神社(武蔵六明神の一宮)  東京都多摩市  天ノ下春命、瀬織津姫命

二宮神社(武蔵六明神の二宮)  東京都あきるの市  国常立尊 

秩父神社(武蔵六明神の四宮)  埼玉県秩父市  八意思兼命、知知夫彦命

金鑚神社(武蔵六明神の五宮) 埼玉県児玉郡   天照大神,素戔嗚尊=須佐之男命

杉山神社(武蔵六明神の六宮)  神奈川県横浜市他  五十猛神、日本武尊

北野天神社    埼玉県所沢市  櫛玉饒速日命、八千矛命、菅原道真

高麗神社     埼玉県日高市  高麗王若光、猿田彦命、武内宿祢命

 

武蔵国埼玉郡総鎮守    玉敷神社拝殿    加須市在

 

武蔵国六明神五宮 金鑚(かなさな)神社拝殿 埼玉県児玉郡神川町在

(武蔵六明神では五宮だが、氷川神社に次ぐ格式あり、武蔵二ノ宮が呼称)

 

須佐之男命と稲田姫命=奇稲田姫命の子が(orその子孫が)大国主命=大己貴命。天穂日命(あめのほひのみこと)は天照大神と須佐之男命の姉弟が、御子神生みを競った時に生じた男神の一柱で高天原の神々が地上世界を平定しようとしたときに、出雲への交渉の使いに派遣されたが、相手の出雲支配者大国主命の側についてしまったという神である。武夷鳥命(たけひなどりのみこと)は天穂日命の子。五十猛神(いそたけるのみこと)も須佐之男命の子。櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)は、神武天皇の東征において抵抗した大和地方豪族=長髄彦(ながすねひこ)の奉じた神で、その子宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)は物部氏の祖。八千矛命(やちほこのみこと)は大国主命の異名。

「武蔵国は出雲系?」と問うて始めたこのブログだが、上記の通りに、関東八州の一の宮のうち、武蔵と下野の一の宮主祭神が出雲系の国津神であり、その他の一の宮は、天津神と地元神(記紀に記載がない神)が祀られている。一方、武蔵に限った古社では、大國魂神社六所宮の武蔵六明神と、開発が進んでいたといわれる埼玉地区の古社を並べたが、国津神が多く祀られていて、天津神の登場は少ない。記紀が作られて、前述のように後日に古社の祭神を人格化して中央政権の祀る神々を採り入れることがあった筈だが、ここまで中央政権係累の天津神ではなくて、出雲系が残されているのは、どういう事由が考えられるだろうか?

Ⅱ. 関東武蔵の発展

関東八州

東海道方面から進出してきた大和政権が房総方面を東国支配の根拠地とし、そのため直轄的な支配が意図され、大規模国造を置くことを避けた。東国における在地勢力の規模となると、上野毛・下野毛とならび、武蔵は広大な領域を占め、常陸や房総方面に顕著な、多くの中小河川に分断された総体的に小規模な多数の政治勢力が形成されている地域とは対照的である。このため武蔵の地域は大和政権による東国政策の中で、他の地域にも増して重要性を帯びることになる。

武蔵の国21郡

景行天皇(第12代、紀元4世紀前半)53年に、息子の日本武尊の事績を確認するため、東国を巡幸したという記録が「国造本紀」に残されているが、大和政権の国土統一支配の進展に対応して、「国」という行政圏が設定され、現地の最も有力な豪族が長官の国造として位置付けられていった。成務天皇(第13代)の時代に、出雲氏(出雲国造の氏族)の祖、二井之宇迦諸忍之神狭命(ふたいのうかもろおしのかんさのみこと)の10世孫の兄多毛比命(えたもひのみこと)が初代无邪志(むさし)国造に任命されたという。もとは、无邪志国造と知々夫国造という2つの国造が存在したが、これらの国造の領域を合して7世紀には武蔵国が成立したとされる。埼玉県崎玉古墳群の中の稲荷台古墳から出土した国宝鉄剣には、雄略15年(471)に乎獲居臣(おわけのおみ)が杖刀人(じょうとうにん、軍事官僚)として雄略天皇(第21代、西暦457~479?)に仕えたという金象嵌銘文があり、現埼玉地区から中央へ軍人が派遣されていたことがわかる。武蔵国造の本拠地は、武蔵国埼玉郡笠原郷(埼玉県行田市)と考えられ、埼玉 (さきたま)古墳群がその墳墓と推定されている。

この雄略帝の頃、東国支配がほぼ確定したといわれている。安閑天皇1年(534)には、埼玉県行田市を本拠とする武蔵国造笠原直使主(かさはらのあたいおみおぬし)と、同族の笠原直小杵(おき)とが国造の地位を巡る争いとなり、小杵は上毛野(かみつけぬ)の豪族上毛野君小熊に助勢を頼み、使主を討とうとしたが、使主は大和政権に訴えて助けを求め、戦乱となり使主が勝利し国造となった。いわゆる武蔵国造の乱である。代償として、使主は、横渟(よこぬ)、橘花(たちばな)、多氷(おほひ)、倉樔(くらす)の四か所を屯倉(みやけ、大和王権の直轄地)として大和政権に提供した。この反乱は、6世紀の地方の有力豪族の在地支配と、大和政権の支配との拮抗を示すものだ。和銅3年(710)には、献上された多氷屯倉内の府中市に国府が置かれた。位置は多氷を多末の誤記と見た、後の多摩郡と推測される。比較的に早くから屯倉が置かれ、交通・産業上の重要度を次第に高めた南部の多摩川中流域に面する点で選ばれたものらしい。 

Ⅲ. 武蔵への遺民編入の歴史

朝鮮半島では、唐と高句麗・百済・新羅との抗争が続き、天智天皇5年(666)には、唐と新羅が連合して高句麗を征討し、高句麗は外交団を大和政権に派遣したが、668年に建国から700年経た高句麗は滅亡した。帰れなくなった使節団の一員若光(じゃっこう)は大和政権の官人として仕え、大宝3年(703)には若光に「王(こきし)」の姓(かばね、大和王権で天皇から有力氏族に与えられた称号)を賜わった。姓は、それぞれの家柄を定めるための称号で、「王」は外国の王族出身者に与えられたもの。それだけ、文化先進地域からの渡来者が、大和政権支配の拡大充実には不可欠の存在だった。

これ以前でも、応神天皇期に阿知使主をはじめとしてかなりの集団が来日。その後、唐と新羅の連合国に百済の遺民連合軍とで戦った白村江敗戦(天智2年西暦663年)以降、百済遺民が日本に亡命し古代社会に重大な影響を与えることになる。天智4年(665)には、百済百姓男女400余人を近江郡神前郡に置き、5年冬には百済男女二千余人を東国に移し3年の間官費を支給することにし、8年には百済男女700余人を近江国蒲生に遷居させている。持統天皇は、帰化した新羅人14人を下野に、新羅の僧侶と百姓22人を武蔵に移して土地と食料を給付した。持統天皇3年(689)にも新羅人を下毛野に移し、4年(690)には新羅からの亡命者で帰化した12人を武蔵国に移した。律令時代に入り、霊亀2年(716)には、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七国の高麗人1,799人を武蔵に移して高麗郡を建て、天平宝字2年(758)には、新羅帰化僧ら74人を武蔵国の閑地に移して新羅郡を立てている。現在埼玉県日高市には、高麗王若光を主祭神にした高麗神社(こまじんじゃ)が1300年60代の歴史を継続している。

高麗神社   拝殿  埼玉県日高市在

8世紀の律令国家は未開地に渡来人を入植させ開発に当たらせている。中央集権化を拡大進展させて、朝鮮から渡来した農耕鉄器や技術を農耕地開発に活用しつつ、併せて東北・蝦夷への防衛網を確実に東上させていたのであろう。

Ⅳ. 武蔵国は東山道から東海道へ

五畿七道は、古代日本の律令制における、広域地方行政区画である。五畿は、大和政権周囲の大和、山城、摂津、河内、和泉で、七道は東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道で、地域的な行政区分であり、且つ畿内から放射状に伸び、所属する国の国府を順に結ぶ駅路の名称でもあった。天武天皇期に原型が定められたといわれる。

 

 

 

 

 

771年移管後の  東山道       と      東海道

東山道は本州内陸部を近江国から陸奥国に貫くもので、この五畿七道が定められた時点では、武蔵の国は東山道の中にあった。武蔵国は歴史的にその北部が毛野国と関係が深く、当初は同じく東山道に属した。しかし国府の府中はこの幹線から離れていたために、新田・足利から伸び武蔵国をほぼ縦断する支線である東山道武蔵路が設けられた。その後、武蔵国はその南部において相模国及び東京湾を経由する往来が次第に活発となり、宝亀2年(771)に東海道に移管され、相模国・武蔵国・下総国を結ぶ陸路も整備された。

Ⅴ. 武蔵国の出雲系??

1. 上記の東山道→東海道への区分変更に、これまで述べてきた、関東八か国のうちの、旧東海道区域内の国々の古社の主祭神設定と、旧東山道のうちの武蔵と下野の古社に出雲系主祭神が登場する事情とが見えてこないか。前述した、下野毛、上野毛、武蔵が広域国で、地域豪族が力を競った事情と、その他の関東の旧東海道国は小規模国であり、大和政権から早く支配力が及んだということが、関連してくるようだ。

2. 武蔵の総社大國魂神社は、景行天皇(第12代)時代に、大國魂大神がこの地に降臨し、それを卿民が祀った社が起源であり、その後の出雲臣の祖神天穂日命(あめのほひのみこと)の後裔が、武蔵国造に任ぜられて、以来代々祭務を伝承したと聞かされている。天穂日命(あめのほひのみこと)とは、天照大神と須佐之男命の誓約で生まれた子で、葦原中国に国譲りを迫るべく天下りしたが、大国主命側についてしまった天津神。子の武夷鳥命は出雲国造祖神とされており、何故に武蔵総社の祭神が出雲系なのか?

3. 物部氏といえば、仏教受容を巡って蘇我氏と対決した古代の豪族だが、『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち天照大神から神宝を預かり天の磐船に乗って河内の国に降臨しその後大和国に移った邇芸速日命(にぎはやひのみこと)を奉じる、長髄彦(神武天皇東征時に抵抗して殺された大和の豪族)の妹を妻とした宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)を物部連の祖としている。物部氏は神武朝より大王家に仕えた氏族で、元々は鉄器と兵器の製造・管理を主に管掌していた氏族であったが、しだいに有力軍事氏族へと成長して、各地に国造を残すなど、有力な氏として活躍していた。武蔵の国造にも物部氏一族の名がみえる。その後、蘇我氏に負け、桓武天皇から見放されて、歴史の大舞台からは姿を消すが、物部氏の特徴として、各地への広範な地方分布が挙げられ、その例は枚挙にいとまがなく、各地で同族枝族が非常に多いことが特徴である。神武天皇に対決した長髄彦の子孫が物部氏の祖ということであれば、武蔵総社の祭神が、大和政権に国譲りをさせられた大国主命の出雲系であることと何らかと繋がり関係があるようにも思えないか?

 

長々と論考風な拙文を中途半端に書き連ねてきて、お読みいただくあなた様にはお疲れであろうと思います。歴史好きな愚鈍人の妄想にここまでお付き合いいただいて有難く思います。多摩めぐりを進める中で、それも各地の歴史を尋ねる中で、武蔵の国の小史を改めて確認していただきましたが、多摩めぐりで出会う歴史の心的な部分を多少なりとも表していると思われる古社の歴史を探っていただくことも、大変面白いものではないかと思っています。

 

参考文献   各神社パンフレット、小平市市立図書館HP、

「古代東国と大和政権」 森田 悌著 新人物往来社

「物部氏の正体」 関 裕二著 新潮社

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