国立旭通りからたまらん坂へ
国立駅南口に降りると、目の前に真っすぐ南へ谷保に向かう大きな道路が見える。桜の名所で有名な大学通り(都道・国立停車場谷保線)、今年は運よく見ごろに合わせて来ることが出来た、数年前から人の往来に支障があるためか屋台などが出なくなった。口に頬張りながら眺めるのを楽しみにしていたのだが。
今日は、昭和30年代(1955~)後半から「国立銀座」と呼ばれ、買い物客で賑わった旭通り(駅南口から南東方向へ延びる直線道路)を歩き国分寺駅に向かう。大型店の進出やJR西国分寺駅が昭和48年(1973)に開設されて人通りが大きく減少し昔の賑わいが見られないとのことだ。
両脇に小売店が並ぶ町中を650mほど行き、銭湯「鳩の湯」(国立市で唯一の銭湯)が見えたら左にカーブすると坂の入り口となる。高台まで約700mの登りがつづく、ここがよく知られた「たまらん坂」。箱根土地㈱の国立学園都市開発が大正末期に始まり、国分寺に向かうために雑木の小道を切り開いて建設された道路だ。
命名の由来は幾つか言われているが、東京商科大学(一橋大学)卒業生による自費出版本「国立・あの頃」に書かれた2説。
昭和2年(1927)4月に神田一ツ橋から移転・開講した当時、国立駅は開業(大正15年(1926)4月)していたが、八王子行きの汽車に乗り遅れると、数分後に着く国分寺止まりの電車を降り、1台だけの車に乗るか、4キロほど歩くことになる。始業時に間に合うには坂の上あたりからダッシュが必要、とくに雨の日の坂は赤土が粘り靴はだめになりズボンは泥まみれ、出欠にやっと間に合っても息は絶え絶え思わず嘆く「こいつぁ、たまらん」
もう一説。坂の上に数人で下宿していた周囲に、コスモスが群がり生えていた。東京高等音楽院(国立音楽大学)(大正15年(1926)11月国立に移転)の女学生たちがコスモスを摘み終えて国分寺の方に立ち去って行った。秋の日に映えたこの姿をじっと見ていたひとりが「わしゃ、もう、たまらん」。格好の良い字をあてて「多摩蘭坂」。
他にも、運動部の学生がウオーミングアップで坂道を駆け回る時たまらんから。大八車やリヤカーをひく人が「こんな坂いやだ、たまらん、たまらん」などがある。
坂の名を有名にしたのは、RCサクセッションの忌野清志郎(昭和26年(1951)~平成21年(2009)5月2日)が歌うアルバムBLUE(昭和56年(1981))に収録されたバラード調の「多摩蘭坂」と、昭和57年(1982)に黒井千次が書いた「たまらん坂|武蔵野短編集」がある。
多摩蘭坂を登りきる手前の坂の
途中の家を借りて住んでいる
だけど どうも苦手さ こんな夜は
忌野清志郎 「多摩蘭坂」より
黒井千次の「たまらん坂」は映画化されて、この3、4月に東京で上映された。映画のパンフレットに「坂の謎」と題して作者の一文が載せられている。
生きている人は、みな自分の「たまらん坂」を身の底に抱えているのではないか。
黒井千次 「坂の謎」より
多喜窪通りを国分寺へ
坂を登りきると新府中街道の大きい交差点だ、ここから通称多喜窪(たきくぼ)通り(都道・立川国分寺線)と呼ばれている。多喜窪の地名は今使われていないが、江戸時代では滝窪とも滝久保とも書かれ、国分寺村の小字名だった。昭和39年(1964)11月の市制発足にともなって、面積が大きく水にちなむ小字名だったことから泉町となった。
右手の多摩総合医療センターを過ぎ、武蔵野線の跨道橋を越して、府中街道を横断する。近くに横断歩道がないので大きな歩道橋を上り下りするしかない。
歩道橋から200mほど進むと、左手に広々とした見通しの良い直線の空間が見える。平成7年(1995)に旧国鉄中央鉄道学園跡地から巾12m、長さ340mに及ぶ直線の道路遺構が発掘された。現在は、埋め戻して東山道武蔵道と呼ばれ保存されている。宝亀2年(771)に武蔵国は東海道に所属替えされるまで東山道に属し、都との交通は、信濃~上野を経て東山道武蔵道を直線で南下するルートが定められていた。こんな広い道路をよく造ったと感動せずにはいられない。
広大な中央鉄道学園跡地は、昭和62年(1987)の国鉄民営化に伴って敷地は売却された。都立武蔵国分寺公園(平成14年(2002)4月開園)や都立多摩図書館などに活用されている。公園の中には記念碑が建てられている。
公園の南側すぐ近くの小道を行くと、環境省の名水百選に選定された「お鷹の道・真姿の池湧水群」が77段の階段下に現れる。一時の涼しさで気分も爽やかになる。
多喜窪通りに戻る。道は下り坂となって野川の谷へ。山間部の上流のイメージを持つと裏切られてしまう、都市の最上流部ではあきらめるしかないかとも思う。
この谷を登れば約500mで国分寺駅南口に着く。今度は国分寺から国立へ、気になる「たまらん坂」、映画のシーンを思い出しながら歩いてみよう。