立川駅から奥多摩方面へ電車で行く場合、ホリデー快速と奥多摩行きを除いて青梅駅で乗り換えなければならない。その青梅-奥多摩駅(13駅18.2㎞)区間には「東京アドベンチャーライン」の愛称がある。平成30年(2018)10月13日午前10時25分ごろ、青梅駅2番ホームに駅長や東京アドベンチャーライン命名者の沼沢智弓さんらは4両編成の車両にラッピングされた「東京アドベンチャーライン」の出発式に臨んだ。10時43分、「東京アドベンチャーライン」のヘッドマークを付けた1番電車はホームを離れ、奥多摩駅へ向かった。以来、ラッピング電車は、ほぼ連日運行している。
動物や植物 かわいく彩る車内
ラッピング電車は「青梅線に自然を探しに行こう」というキャッチフレーズに合わせてデザインされたロゴマーク入りのヘッドマークを先頭車両に掲げて走っている。車両ドア横(外装、内装)や座席シート、床、車両連結部ドア、窓、つり革などに明るいグリーン地に鳥、ムササビ、チョウ、レンゲショウマ、イワナなど動植物を大きくあしらって、沿線の自然を魅力いっぱいに描き出している。車内の明るさに加えて、子供はもちろん、大人もわくわく楽しい気分に満たされる。
この車両は立川-奥多摩駅間をおもに運行しているが、運行開始直後には中央線・中央本線や五日市線、八高線に乗り入れてPRした。観光や登山客の集客につなげたいと青梅市、奥多摩町の行政枠を超えた沿線の観光協会などの団体で「東京アドベンチャー協議会」が生まれた。各駅ホームの駅名標や改札機に最寄りゆかりのモチーフをデザインしたシンボルマークも備えた。
再度、この車両に乗りたくてJR八王子支社に運行時刻を問い合わせた。「1編成で毎日、運行していますが、休む日もあります。めぐり合わせも楽しんでいただければ」と。
無人駅の始まり 山間地の車窓
青梅駅の隣、宮ノ平駅へ向かったときはラッピング電車にめぐり合えず、普段の車両に乗った。青梅駅を出ると、それまでの車窓が市街地だったことを実感する。なぜなら左手は多摩川と青梅街道に沿う格好で東西に細長く民家が連なっているが、右手は青梅丘陵のへりを沿う森林帯が続く。青梅駅以東になかった光景だ。奥深くまでやってきたもんだと実感する。
宮ノ平駅は青梅-奥多摩駅13駅のうち無人駅7駅の一つだ。待合室とトイレがセットされた2間四方ぐらいのちっちゃい建物だけがある。その前を横切る青梅街道に向かって赤い丸ポストがあるのに旅情がそそがれる。
青梅線 石より人が安く見え
宮ノ平駅は大正3年(1914)4月に貨物専用駅として新設された。その前の明治28年(1895)に石灰石運搬の貨物線として青梅鉄道青梅駅から日向和田駅まで延伸され、浅野セメントや御料局、王子製薬所などへの石灰石発送駅だった。その後、日向和田駅は手狭になったため、西の現在地に移転したのに伴って宮ノ平駅ができた。近くに和田乃神社があることから「宮」を冠した駅名になったとか。
江戸時代から青梅の地場産業だった石灰石採掘は、市内北部の成木地域が知られるが、日向和田でも採掘されており、青梅鉄道敷設の要因だった。
日向和田での採掘は昭和20年(1945)まで続いた。その活況ぶりは「青梅線 石より人が安く見え」と詠まれた川柳が言い尽くしている。日向和田の要塞山で掘り尽くすと、鉱床は二俣尾へ、日原へと奥地に入った。
城壁のような窯跡の石積み
石灰石産出の名残が宮ノ平駅北側の一角にある。四角い石積みの塔は城壁のように高い。搬出した石灰石を筒井商工という会社が、ここで石灰石を炉で焼くなどして消石灰を製造した。いまは工場の建物がなく、窯だけが残る。窯跡周辺は駐車場になっている。塔を組み上げた石の所々に石灰が白く付着している。窯の東面と南面から消石灰を取り出したアーチがあるらしいが、目視できない。
長く野ざらしだった窯跡に目を付けたのは戦隊ものの特撮テレビ番組のロケだ。昭和46年(1971)から放送が始まった戦士と怪人の格闘テレビ番組「仮面ライダー」(石ノ森章太郎原作・毎日放送)や採掘跡ではウルトラマンシリーズ3作目の「ウルトラマンタロウ」(昭和48年、TBS・円谷プロ制作)を撮影した。
駅のシンボルに「臨川庭園」
駅南側の多摩川沿いにある「臨川庭園」を宮ノ平駅のシンボルポイントに挙げていた。駅から多摩川寄りへ徒歩5分。多摩川の河岸へ急降下するような急坂を下りる。帰りは言うに及ばず息が切れた。
臨川庭園は、昭和初期から戦前まで地元選出の衆院議員だった津雲國利氏の別荘で本人が好んで「臨川梅園」と呼んでいたそうだ。昭和9年(1934)当時主流だった数寄屋風の和洋中の造りを取り入れた木造2階建ての入母屋造り。いまは庭園も茶室も開放している。敷地は約2860㎡の、庭園としてはこじんまりしている。庭を彩るモミジやツツジなどを高台にある茶室から眺められる。南端では足元から切れ落ちた多摩川の流水が梢越しに見える。
レール再利用した跨線橋
宮ノ平駅西寄りに跨線橋があることを今回初めて知った。青梅街道に面した駅前広場の奥へ民家が続く細い道は元の日向和田駅への廃線跡で、ほどなくして枝分かれした道を右に入ってすぐに跨線橋があった。
「自転車・バイクは通行をご遠慮ください」という大きな表示板をわき目に自転車に乗った女性が通過した。間もなくして親子3人連れが散歩にやってきた。橋は幅1mほど。人のすれ違いもままならない。長さ10mに満たないか。橋脚は古いレールを利用しているとか。作家・太宰治が大好きだったJR三鷹駅近くの跨線橋(全長約93m、幅約2.9m)は巨大だが、こちらはスーパーミニだ。通りすがりの人は「橋の名前? あるの? 聞いたことがない」。
跨線橋の北側は元石灰石採掘場で、その後、採石場となり、いまフェンスで囲まれいる。その脇が青梅丘陵ハイキングコースの入口だ。
この跨線橋の青梅線下り側に宮ノ平トンネルがある。大正3年に建設されたレンガ隧道だ。長さ約300m。上り電車が日向和田駅側からトンネル入りしたことを感じる共鳴音が轟き始めて間もなく先頭車両がトンネルから頭を出した。跨線橋直下を通過する車両の屋根は広い。足下になった屋根まで1mほどか。車両の屋根が近い分、走行の速さを感じる。トンネル開通当時、地元の小学6年生たちが真っ暗なトンネルを歩く遠足を楽しんだ裏面史もあるそうだ。
石灰石の守護神を神社本殿に合祀
宮ノ平駅命名の由縁になったといわれる和田乃神社は、跨線橋から歩いて数分だった。南側を流れる多摩川から競り上がってきた斜面中腹を横断する青梅街道をもう一段上がった高台に拝殿と本殿があった。背後に続く青梅丘陵の森が境内に静寂さを醸し出していた。
この地は、戦国時代に三田氏が治めていた杣保(そまほ)で神社近くに「楯(館)の城」があった。永禄3年(1560)ごろまで三田氏の家臣だった野口刑部少輔秀房(のぐちぎょうぶのしょうゆひでふさ。野口秀房)の屋敷だったと伝わる。
神社の創建は不明だが、和田村の総鎮守として和田明神を祀った。慶長3年(1598)日向和田村と多摩川対岸の日影和田村に分村したときに三島明神と改称。本殿を寛政5年(1793)に再建し、明治維新の折に和田乃神社に改めて村社となった。境内に日向(ひゅうが)神社、波登利(はとり)神社、菅原神社など9社を構える。境外社に石灰石採掘の守護とされる大山祇(おおやまづみ)神社があったのを平成27年(2015)に和田之神社本殿に合祀した。
2年連続、子供相撲奉納できず
境内下に土俵がある。例年9月第1日曜日に子供相撲が奉納される。子供たちは多い年に40人以上も出場したが、近年は20人ほどと少なくなり近隣の子供会に声をかけて参加を促しているそうだ。
昨年と今年は新型コロナウイルス感染拡大で神事が行われただけで子供たちの出番はなかった。本来なら夏休みに猛けいこして土俵に臨むが、2年連続で叶わなかった。子らにとって夏の思い出が一つ減ったのか、これも思い出になるのか。青梅市出身の大相撲力士・千代青梅(35歳。令和3年秋場所東序二段90枚目、九重部屋。秋場所5勝2敗)も子供のころ、この土俵に立ったのだろうか。
村同士の争いを勝敗で収める神事
奉納相撲の始まりは寛文年間(1661~72)といわれ、青梅市文化財ニュース(第250号)によると、和田村時代に多摩川を挟んで起きた争いを和田明神に仰ぐために相撲を奉納して勝敗によって争いを収めたと伝わる。寛政5年に再建された本殿に相撲の彫刻があり、天保15年(1844)に奉納された相撲の絵馬額があることから盛大な例祭だったことが伝わる。
明治中期から昭和にかけて八幡講という力士たちが土俵をにぎわせた。10年ほど前には東関部屋の力士がやってきた。
「力むすび」楽しみ、幼児胴上げ
現在の奉納相撲は、学年ごとに取り組み、一番勝負の「お手合わせ」「三人抜き」と行われ、中入り後、「五人抜き」「一番勝負」「三役揃い踏み・三役相撲」と進む。中入り前に子らが楽しみな「力むすび」という塩を使わないおにぎりが振る舞われる。握り飯を作る「お天間」は大人の男たちの役割だ。
相撲は「八幡幣」という行事で締めくくられる。氏子の1歳までの幼子を父親が抱いて土俵で子供力士が胴上げして八幡幣を授ける。奉納相撲は昼から始まり、午後4時ごろまで続くという。
一日も早くコロナ禍が収まり、子らの声が響く奉納相撲を見たいものだ。そんな思いを強くしながら青梅街道を西へ向かった。
元気もらったしだれ梅がない
私が青梅マラソンに出ていたころ、明白院前を通過するのが楽しみだった。花が少ない時期に明白院山門前のしだれ梅の開花ぶりを目にしてスピリットアップしたものだ。しだれ梅はその後、青梅市全域に及ぶウメ輪紋ウイルス(プラムポックスウイルス)蔓延による被害で伐採され、跡形なかった。
病気のタヌキ世話した福禄寿
明白院は、永禄10年(1567)に海禅寺(青梅市二俣尾)7世天江東岳大和尚が開山した曹洞宗の寺だ。山号を日向山という。本尊に勝軍地蔵菩薩を祀る。開山堂に安置している福禄寿にまつわる、ほっとする言い伝えがある。
冬の寒い夜、庫裏の押し入れでネズミが走り回る音がした。和尚が戸を開けると、3匹のネズミが米びつに穴をあけて米をむさぼるように食べていた。そのようなことが3日3晩続いた。翌晩、音がしないので和尚は押入れを調べると、天井にタヌキの屍があり、その周りにたくさんの米と小さな黒い塊があった。それは福禄寿の像だった。あの3匹のネズミは福禄寿の化身で病気のタヌキを世話していたに違いないと和尚は思った。和尚は、福禄寿を祀り、米俵をいただいたタヌキの石像を庭に建立して供養した。
【明白院ホームページから】
「生福の狸」と名付けた柔和な石像は、いまも境内にある。台座に乗った像は高さ約90㎝、右肩に直径約17㎝、長さ約35㎝の米俵を担いでいた。
日光に照り輝く四脚門のコケ
山門は、何度見ても心が休まる。木造茅葺きの四脚門だ。この日も山門をくぐってから振り返ると、茅葺きに生えたコケが日の光に透けて輝いていた。
言い伝えによると、山門は近くに居を構えていた代官で北条氏の家臣・田辺清右衛門(武田氏の旧臣で、のち徳川家に仕えた)の館の遺構を移築したという(青梅市文化財ニュース第4号)。桃山時代の作風を残しており、青梅市有形文化財に指定されている。本殿裏手の道路際に歴史と風格を漂わせている六地蔵があった。青梅市内にある石仏の中で一番多いのが六地蔵で、その一組だ。
河岸段丘に沿う町並み一望
明白院裏手の斜面を這い上がる墓地に入らせてもらった。上から見ると、眼下に多摩川がうねる。水の流れに削られてできた河岸段丘と、段丘に沿う青梅の町の成り立ちが手に取るようだった。さらに東に武蔵野台地が広がっていた。この付近から冬場の好天にはスカイツリーが見えても不思議はないだろうと思わせる眺望だ。
河原に角張った巨岩の石灰岩
川面を見たい気持ちを抑えられなかった。周辺一帯は石灰石産出地だったことからその小片でも見たいと明白院山門を出て青梅街道をさらに西へ。数十メートル先のT字路を左折して坂を下った。和田橋に出た。橋の詰めに「標高184m 海から64.0㎞」と東京都の表示板にあった。多摩川源流の水干(みずひ)から74㎞地点であり、全長の中流域にあたる。
橋から見る流水は、滔々と流れ、穏やかだ。水辺に薄く白い石が点在する。石灰石だろうか。橋を渡り切って右折して、日影和田村だったという現在、和田町の民家が続く先の小路を入った。こじんまりした河原に出た。
目に飛び込んできたのは高さ3m以上もある巨大で角張った石灰岩だった。岩が鋭く角張っていることから元々、近くにあった岩なのだろう。この元で川風に吹かれて半時も座り込んでいた。