閻魔大王 ?

    これまで身近な仏や神の正体・来歴等を続けて紹介してきたが、私たちは、その神や仏に祈りをささげて、身体の安全・心身の安心・幸運・幸福を願ってきた。今回は、賽銭を投じ、鐘を鳴らし、両手を合わせて、将来に向けての願いを叶えるべく、頭を下げ、瞑目しての心の思いを訴えるのとは違い、ほどない先の死後の世界へ身を移すにあたっての、より美しく華やかで安心できるあの世か、地獄の責め苦を強いられる苦界へか、いずれかの世界への入場試練の場の審判者たる神・仏???に掉尾を飾っていただくことにする。

閻魔、閻魔大王

 閻魔(えんま)は、仏教・ヒンドゥー教などでの地獄・冥界の主。冥界の王として、死者の生前の罪を裁いて、死者の行く道・世界を決定する。地獄の主ではあるが、天国の主ではない。

 これまで紹介した神・仏と同様に、閻魔の由来はインドにある。インド・イラン共通時代にまで遡る古い神格で、閻魔はサンスクリット語・パーリ語のヤマYamaの音訳。ヒンドゥー教聖典『リグ・ヴェーダ』では、ヤマとその妹のヤミーYamiは、太陽神ヴィヴァスヴァットの子で、人間の祖ともされ、ヤマとヤミーの兄弟姉妹婚により最初の人類が生まれたとされている。ヤマは人間で最初の死者となり、死者が進む道を見出して、死者の国の王となった。虚空の遥かかなたに住むといわれる。インドでは、古くは生前によい行いをした人は天界にあるヤマの国に行くとされた。そこは死者の楽園で、長寿を全うした後にヤマのいる天界で祖先の霊と一体化することは理想的な人生だと考えられ ていた。

19世紀前半に書かれたヤマ

  閻魔(ヤマ)を描いたチベットの仏画(17-18世紀頃)     

しかし後代には、赤い衣を着て頭に冠を被り、手に捕縄を持ち、それによって死者の霊魂を縛り、自らの住処・国に連行すると考えられた。ヤマの世界は地下だとされ、死者を裁き、生前に悪行をなした者を罰する恐るべき神と考えられるようになった。現在のインドでは、青い肌で水牛に乗った姿で描かれる(本来は黒い肌だが美術上の様式として青く描かれる)。

中国の閻魔

   インドのヤマは、中国へ行って仏教に取り入られて閻魔天となり、下界の暗黒世界、すなわち地獄界王となった。

閻魔王=閻羅王

中国に伝わると、道教における冥界・泰山地獄の主である泰山府君と共に、冥界の王であるとされ、閻魔王、あるいは閻羅王として地獄の主とされるようになった。やがて、晩唐代に撰述された偽経『閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経(預修十王生七経)』により*十王信仰と結び付けられ、地獄の裁判官の一人であり、その中心的存在として、泰山王とともに、「人が死ぬと裁く」という役割を担い、信仰の対象となった。現在よく知られる唐の官人風の衣(道服)を纏った姿は、ここで成立した。『西遊記』にも登場する。

*十王信仰とは、死者が死後決められた日数(初七日から七七日と百か日・一周忌・三周忌の10回)の間、閻魔を含む10人の王である十王(秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王・平等王・都市王・五道転輪王の総称)の裁判を受けるというもの。生前に犯した罪の重さによって、地獄へ行くか、六道を輪廻するかなどが決められる裁判。この十王の中で、閻魔は5番目の裁判官だが、数ある裁判の中で、この閻魔大王の裁判が最大の難関とされている。

日本の閻魔

    日本仏教においては、閻魔は地蔵菩薩と同一の存在と解され、地蔵菩薩の化身ともされている。仏説では、地蔵菩薩はお釈迦様が亡くなって次の仏となる弥勒菩薩が現れるまで、56億7千万年かかるとされていて、その長い期間に仏様に代わって我々を守ってくれるのが地蔵菩薩とされている。地蔵菩薩は、我々の生前の行いをよく見ていてくださる存在だから、死後の魂を正しく裁ける存在としての閻魔王の本地が地蔵菩薩とされている。こうして閻魔大王への信仰が生まれるようになった。大きな寺院にも閻魔大王像が祀られ、馴染みの存在となってくる。

閻魔の本地とされる地蔵菩薩は奈良時代には伝来していたが、現世利益優先の当時の世相のもとでは普及しなかった。平安時代になって末法思想が蔓延するにしたがい源信らによって平安初期には貴族、平安後期には一般民衆と広く布教されるようになり、鎌倉初期には偽経『 預修十王生七経 』から更なる偽経『地蔵十王経』が生み出された。これにより閻魔の本地が地蔵菩薩であるといわれ、閻魔王のみならず十王信仰も普及するようになった。本地である地蔵菩薩は地獄と浄土を往来出来るとされる。

                                          安土桃山時代に描かれた閻魔

 

京都府宮津市/天橋立近くの成相寺の閻魔像

 

        江東区深川の法乗院(深川えんま堂)の閻魔

 

閻魔王の法廷

    閻魔王の法廷には、浄玻璃鏡という特殊な鏡が装備されている。この魔鏡はすべての亡者の生前の行為をのこらず記録し、裁きの場でスクリーンに上映する機能を持つ。そのため、裁かれる亡者が閻魔王の尋問に嘘をついても、たちまち見破られるという。司録と司命(しみょう)という地獄の書記官が左右に控え、閻魔王の業務を補佐している。平安時代の公卿小野篁には、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説がある。戦国時代の武将直江兼続にも、閻魔大王宛に死者の返還を求める手紙を書いたという逸話がある。

この閻魔大王の法廷に達するまでに、死者の魂は裁判を受けながら、いわゆる冥土の旅をする。死出の山を越え、初七日に最初の裁判を受けた故人は次に三途の川を渡る事になる。故人が生前に重ねた罪業により渡り方が三通りに分かれる。中流に架かる宝の橋を渡って悠々と向こう岸に渡る善行を積んだ人間もおれば、六文銭を渡し賃として舟で出迎えも受けられる。悪業を重ねた者は橋や船を使えずに、自力での渡河が強いられるが、罪の大小により上流の浅瀬から過酷な下流へと渡河地を指示される。死後14日目には渡河を終え、2回目の裁判を受ける。三途の川(葬頭河)を渡った先には、衣領樹 (えりょうじゅ)という木があり、そこに閻魔王配下の鬼の男女(懸衣翁けんえおう&奪衣婆だつえば)がおり、六文銭を持たない死者が来た場合に渡し賃のかわりに衣類を剥ぎ取ることになっていた。この2人の係員のうち奪衣婆は江戸時代末期に民衆信仰の対象となり、祀るための像や堂が造られたり、地獄絵の一部などに描かれたりした。

 

東京の閻魔大王と奪衣婆

 上掲の深川えんま堂の閻魔様とともに、都内でも名高い、江戸三大閻魔の一つである、新宿御苑北・内藤新宿の太宗寺を訪ねる。内藤家の菩提寺である。入って右手には閻魔堂があって、都内最大手550cmの閻魔大王像を安置しており、江戸時代から「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰を集め、かつては藪入りの日に縁日が出て賑わったという。大王の左手にある奪衣婆の怪異な像は、奪衣婆が衣類を剥ぐことから内藤新宿の妓楼の商売神として「しょうづか(葬頭河)のばあさん」と呼ばれて信仰されてきた。同寺内には、江戸六地蔵の三番目となる地蔵菩薩像もある。太宗寺近くの正受院には、「咳止め」に霊験ありとして幕末大いに流行った「綿のおばば」とよばれる奪衣婆もある。

               

太宗寺の閻魔

                太宗寺の奪衣婆

 

 板橋文殊院閻魔堂内の懸衣翁

 

 正受院の奪衣婆「綿のおばば」

   多摩で閻魔像を探すと、奪衣婆像で著名な、分倍河原から旧甲州街道を数分程の府中に戻るところにある高安寺にひっかかった。ここは、足利尊氏が征夷大将軍となって室町幕府を開き、武家政治を復活させたとき、夢窓国師の勧めに応じて鎮護国家と衆生救済を祈り諸国に安国寺を建立した時の武蔵国安国寺として高安護国禅寺とよばれた寺で、大伽藍を整え、塔頭十院末寺七十余寺を擁していたという。現在でも住宅地の中に閑静な環境を維持して、広大な寺域を誇っており、義経・弁慶の伝説がある。その山門の表側には仁王像二体あり、その裏側には地蔵菩薩とやはり怪異な奪衣婆が並立している。閻魔王は、地蔵菩薩の化身であることを思えば、地蔵菩薩と奪衣婆の並立は納得できる。府中も甲州街道の宿場町で、内藤新宿と同様に宿場町としての商売繁盛や、宿場飯盛女の信仰の対象になっていたのだろう。

               府中市片町の高安寺

 

山門の地蔵菩薩

            山門の奪衣婆

 

山門の裏側1階に、左が地蔵菩薩、右に奪衣婆

 

   物事には原因と結果の関係があり、過去の行動が原因となって、次なる運気を左右する。因果応報は現世にいる間だけにあるのではなく、死後に住む世界もまた因果応報、生前の行いによって閻魔様に決められ、地獄に落ちれば責め苦を受けることになる。そこでお参りをして、もし自分が裁きに立たされたら、どんな判決が下されるかと自分の行動を振り返り、襟を正したり、罪を犯していたならば供物を届けて反省を告げたりする訳だ。

 

    この身近な神・仏のシリーズも、第一回目のお地蔵さんに話が戻ってきたようだ。

ここらで、一段落とさせていただきたい。

 

資料: Wikipedia、寺院関連ホームページetc