今回は、地図を眺めながら、永井荷風(1879~1959)が三鷹を訪問した時のことを書きます。
三鷹と作家というと、定番は太宰治と山本有三なのですが、ここではあまり採りあげられることのない永井荷風と三鷹について見ていきます。
まず、永井荷風がなぜ三鷹と関係があるのか?といったところに関心が行きます。そこから話を始める必要がありますね。
そのためには、作家・永井荷風の経歴を少々知っておく必要があります。
永井荷風がまだ無名で、雑誌の懸賞小説を書きながら歌舞伎座で座付作者兼雑用掛りでいた頃、ある時観劇に来ていた森鴎外に紹介され、そこで「君の作品を読んだよ。」と言われ、その一言で天にも昇る気持ちとなり、作家になりたい気持ちがより高まります。
また、実業家にさせたい親の強い希望から、アメリカ、フランスでの6年間の銀行勤めをさせられたものの、ビジネスマンはやはり自分には合わないと観念して帰国した時に、森鴎外は荷風を慶応大学文学部教授(フランス文学)に推薦し、これが契機となって文学に深く関わることになります。
これ以外にもいろいろあって、荷風は森鴎外を思想・信条に共感するあこがれの文豪ということだけでなく、終生、師と仰ぎ恩人として敬っていました。
このような縁から、荷風は森鴎外が大正11年に死去してから幾度か墓参を行っていました。
ここで、三鷹との接点が浮かび上がってくるかと思います。森鴎外の墓は三鷹市下連雀の禅林寺にあります。
それでは、作品名が「断腸亭日乗」と名付けられた永井荷風の日記と当時の地図を眺めながら、荷風の三鷹訪問記を追っていきましょう。
「断腸亭日乗」 昭和18年10月27日
晴れて好き日なり。ふと鴎外先生の墓を掃かむと思ひ立ちて、午後1時頃渋谷より吉祥寺行の電車に乗りぬ。
今の京王井の頭線に乗ったわけですね。当時は「東急井之頭線」です。
「あれっ?京王じゃないの?」と思われるのでしょうが、戦時統制のために昭和17年~19年にかけて、東急が京王、小田急、京急、帝都電鉄(井の頭線)などの私鉄を合併していたのです。地図上でも「東京急行井之頭線」と表示されています。
なお、墓参りすることを「墓を掃く」とか「掃苔(そうたい)」といいます。実際に墓掃除をするわけではありません。
先生の墓碣は震災後向嶋弘福寺よりかしこに移されしが、…(井の頭線沿線の風景が描写されていますがここでは省略。)…
鴎外の墓は向島弘福寺(墨田区)にあったのですが、関東大震災後の復興計画で墓地が移転することになり、それを機に同じ宗派(黄檗宗)である三鷹の禅林寺に移されました。荷風は向島弘福寺に墓があった頃にももちろん墓参に出かけています。(断腸亭日乗・昭和2年7月9日に記載)
吉祥寺の駅にて省線に乗換へ三鷹といふ次の停車場にて下車す。
このあたりは今と変わらない行程です。
当時は中央線の電車は鉄道省で管理されていたので、通称で「省線電車」とか「省線」と言っていました。
構外に客待する人力車あるを見禅林寺まで行くべしと言ひて之に乗る。
車は商店すこし続きし処を一直線に細き道を行けり。
三鷹駅は昭和5年に武蔵野の原中に開設され(⇒2021.5.3の三鷹駅に関するブログ)、その後軍需工場が近辺に移転してきたこともあって、駅前には商店が連なり駅前商店街が形成され、その背後(南側)には住宅街が広がりつつありました。その頃の地図を見ると三鷹駅前にはかなり建物が立ち並んでいるのがわかります。
商店街の入口には、昭和7年に三鷹稲荷神社の鳥居を大きな赤い鳥居にして商店街のゲート風にこしらえ、中央線からも目に付くようにしていました。これを赤鳥居と呼んでいました。次の写真はずいぶん後の昭和38年に撮影された赤鳥居ですが、荷風が三鷹へ来た当時もこの場所にどんと立っていました。
しかし、この赤鳥居、荷風の眼には入っていたと思うのですが、日記ではスルーしていますね。荷風は神社に関心を示すことはほとんどありませんでしたし、ましてやこのような俗が極まったものであるとなおさらなのでしょう。
現在この赤鳥居の立っていた場所にはタワーマンションが建てられ、荷風が人力車で通った通りのうち三鷹駅に面した部分は道がなくなっています。もちろん赤鳥居はありません。
赤鳥居のあった辺りの現在の様子(Google マップ)
マンションの裏手からは南にまっすぐ伸びる通りは残っており、「赤鳥居通り」と命名されています。荷風はここを「一直線に細き道を行けり」と人力車で駆け抜けます。
この道の左右には新築の小住宅限り知れず生垣をつらねたれど、皆一側並びにて、家のうしろは雑木林牧場また畠地広く望まれたり。甘藷葱大根等を栽ゑたり。
地図と突き合わせるとちょっと食い違いがあるのですが、人力車で走った赤鳥居通りの東側(向かって右側)は人家が建て込んでおり、西側(向かって左側)は草地になっています。
これを「一側並び」と表現したのでしょう。
そしてその奥(西側)には樹木が連なる林になっています。地図では針葉樹になっています。
南の方(下の方)に行くと草地の記号がなくなり「無地」になります。これは畑を表しています。
当時の地図から、雑木林、牧場それに畠地が広く望まれる様子が浮かび上がってきます。
歴史的には、江戸時代初期に地図の下部にある東西の大きな通り(連雀通り)に沿って、明暦の大火で神田連雀町から移転してきた人が住み始めることとなり、その住居のすぐ裏手(北側)に短冊形に畑を作りました。そして更に奥には、焚き付けや肥料にするための雑木林が広がるという、典型的な武蔵野新田開発の地割がなされたのですが、昭和18年にもそれがまだ残っていたということです。その様子が地図からも荷風の文章からもうかがうことができます。
現在、この辺りは家の建て込む市街地になっていて当時の面影はほとんどないのですが、今年の春先にこの辺り(1kmほど離れていますが)を歩いていて、今も残る農地を偶然見つけました。荷風の表現通りに、「家のうしろは…(略)…畠地広く望まれたり」という風情でした。
車はわづか十二三分にして細き道を一寸曲りたる処、松林のかげに立てる寺の門前に至れり。賃銭七十銭なりと云、道路より門に至るまで松並木の下に茶を植えたり。其花星の如く二三輪咲きたるを見る。
人力車は一旦連雀通りへ出て、そこを右折して53.7mの標高を示す地点から北向きに禅林寺へ向かい、山門の前で下車しています。
現在は松並木や茶はすっかりなくなり、門前に松を1本だけ残して、あとは駐車場にでもしようというのか、舗装を施した更地になっています。山門は禅宗の寺らしくちょっと変わった様式になっていますが、荷風が訪ねた時は現在から2代前の山門で、普通の木造の山門でした。
門には臨済三十二世の書にて禅林寺となせし扁額を挂けたり。
扁額の地や文字などは新たに塗られていますが、書かれている内容を見ると額そのものは当時と同じものと思われます。
葷酒不許入山門となせし石には維時文化八歳次辛未春禅林寺現住旹宗謹書と勒したり。
今立っている石柱は昭和41年に新たに建てられたもので、荷風が見たものとは異なります。なお、現在は「不許葷酒入山門」と語順が違っていますね。(荷風が写し間違えたのか?)
門内に銀杏と楓との大木立ちたれど未だ霜に染まず。古松緑竹深く林をなして自ら仙境の趣を作したり。本堂の前に榧かとおぼしき樹をまろく見事に刈込みたるが在り。
門内のイチョウは上部を伐られて低くなっていますがおそらく荷風の見たイチョウではないでしょうか。ただ、その他の樹木や竹は既になく、「仙境の趣」を感じることは今やできません。
なお、現在、このイチョウの根元には森鴎外の有名な遺言の碑が立っており、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス(略)墓ハ森林太郎墓ノ他一字モホル可ラス」と刻まれています。
この遺言碑は荷風が訪れた時にはまだ立っていませんが、荷風は別の作品で、鴎外のこの遺言に深く感銘したことを書いています。
本堂は門とは反対の向きに建てらる。黄檗風の建築あまり宏大ならざるところ却て趣あり。
本堂は昭和18年当時からは大改修がなされたと思いますが、今も当時と同じく「宏大ではない」本堂が東向きに凛と佇んでいます。荷風の日記にはその時に描いた本堂の画が残っているので、それと今とを比べると大変面白い。側面の火灯窓や長押、正面の丸窓の様子は荷風の写生そのままです。当時と変わったところと言えば、基壇に勾欄が据えられたといった部分でしょうか。
簷辺に無尽蔵となせし草書の額あり。臨済三十二世黄檗隠者書とあれど老眼印字を読むこと能はざるを憾しむ。
この扁額は荷風の書いている内容に同じですので、当時と同じものであると思われます。ただ、新しく色が入れられて古さを感じさせません。
堂外の石燈籠に元禄九年丙子臘月の文字あり。林下の庫裏に至り森家の墓の所在を問ひ寺男に導かれて本堂より右手の墓地に入る。檜の生垣をめぐらしたる正面に先生の墓、其左に夫人しげ子の墓、右に先考の墓、その次に令弟及幼児の墓あり。夫人の石を除きて皆曾て向嶋にて見しものなり。香花を供へて後門を出でゝ来路を歩す。
この墓石の並びも荷風が訪ねた時と変わっていないですね。
今も、花の絶えることはなさそうです。
墓前でのあれこれの記述はなく以外にあっさりと墓を後にしています。
日記では、荷風はこの後新橋まで戻り、行きつけの小料理屋で夕食をすませ、六本木の自宅(「偏奇館」と呼んでいた)へ帰宅しています。
今回は、以前から読みたいと思っていた断腸亭日乗を読んでいて三鷹訪問の記事に偶々出会ったことから、それを確認するために禅林寺へ出かけ、そのことを紹介しました。
当時の地図を脇に置いて読み進めると、文章に描写されている風景が時を越えて浮かび上がってきて、たいへん楽しい体験ができます。
おまけ
森鴎外の墓の写真を撮った場所の左すぐ後ろには太宰治の墓があります。
※使用した地図など
・陸地測量部および国土地理院の地形図に加筆している。
・「断腸亭日乗」は「荷風全集第25巻」岩波書店(平成6年)を引用。