帝釈天 ?

「私、生まれも育ちも葛飾柴又、帝釈天(たいしゃくてん)で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」 耳慣れた「男はつらいよ」寅さんシリーズ映画の冒頭のセリフである。コロナ禍で、ステイホームの時間つぶしに、寅さんシリーズの人気も増していると聞く。ところで、帝釈天とは何であるか? 銭湯や温泉の名でもないし、お寺の名でもない。仏法および仏教徒を守護する仏教界「天」部の神々のことを護法善神といい、その中の親分格の善神が、帝釈天である。

帝釈天 ?

 これまで身近な仏や神の正体・来歴等を続けて紹介してきたが、今回の神様・仏様は帝釈天。帝釈天が仏教の神だと聞いて仏寺を色々と巡っても、ああ! 例のああいう姿かたちで仏具を携えた例の仏像だ、と思い出すことはまずない。同じ「天」部の四天王=毘沙門天(多聞天)・持国天・増長天・広目天のように本尊仏の脇や敷地を守る門の中に設置された特徴ある像形を目に浮かべることもない。殆ど見ず知らずで、ただ耳には馴染みの「帝釈天」である。

仏教が成立する以前にインドで根強く信仰されていたバラモン教やヒンドゥー教の神々が、仏教に取り入れられて仏法を守護する護法神化したものが、天部の神々であり、四天王、梵天、帝釈天、金剛力士、弁財天、吉祥天などが代表的なもので、早くから信仰されている。仏教的世界観の中で、その中心にそびえる須弥山の四方を守るのが四天王であり、その中心にあって天部を統率するのが、帝釈天と梵天である。帝釈天はインドのバラモン教・ヒンドゥー教のヴェーダ神話における雷神、天候神、軍神、英雄神である有力神インドラが仏教に取り込まれたもので、梵天はインド・バラモン教典にいう万物の根源であるブラフマンを神格化したもの。ともに釈尊の守護者として諸天の中で最高の地位にあるという。8世紀ごろからわが国で信仰されてきた。

 

     

白い象に乗るインドラ

 

 

                                                                         

帝釈天(左) と 梵天(右)

 

 

帝釈天の像容

帝釈天の起源になるインドラは、本来は武勇の神であったが、釈迦が悟りを開く前から釈迦を助け、説法を聴聞してきたことで、梵天と並んで二大護法善神となった。もとより武勇神であるから、普通は鎧の上に衣を着ける姿であらわされるが、密教流入後は、一面二臂(ひ=腕)で手に金剛杵をもち三本の牙をもつ白い象の背に乗る形に作られた。下の東寺帝釈天像をご覧ください。                                                                                                                      帝釈天と梵天は、奈良時代以降、「梵釈二天」と呼ばれるほど、一対の像として造立されることが多い。

 

 帝釈天の名品

 仏教が伝来し国教化した奈良・平安期では、東大寺の法華堂(三月堂)内10体の仏像や、21体仏像を立体曼荼羅化した東寺講堂のように、本尊たる如来・菩薩やその脇侍を囲んで、周囲に梵天・帝釈天が護法善神たる天部を総括し、周囲に四天王を配する仏像世界が大きく構築されたが、次第にその仏教世界も簡素化されて、四天王は寺の四囲を守衛し対外的なこわもての面相を強調したものの、その統率者である帝釈天と梵天はあまり目立つ存在ではなくなっていたのかもしれない。

多摩地区で、帝釈天の名品を探したもののなかなか見つからない。国内の名品をここに紹介しよう。

 

  奈良 東寺講堂 帝釈天半跏像(国宝)

 

 

      奈良 唐招提寺 金堂 帝釈天/左と梵天/右 国宝

 

  香川県高松市 来迎院法然寺の帝釈天像

 

 

葛飾柴又題教寺の帝釈天

 となると、帝釈天といえばこれだと言われる東京都葛飾区柴又の経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)の帝釈天にご挨拶に行かねばなるまい。東京上野の東、京成電車に乗って、京成本線の京成高砂駅で金町線に乗り換えて、その次の駅が、映画にもしばしば登場した柴又駅だ。駅前では、渥美清の寅さん像と倍賞千恵子の妹さくら像が出迎えてくれる。歩いて5分ほど、帝釈天参道の商店・茶店街を通り抜ければ、日蓮宗題経寺のあの堂々たる二天門に到着。コロナ禍最中で、彫刻ギャラリーと庭園は閉鎖中。参拝者も数少ない。

なぜ題経寺が帝釈天の呼び名をいただくことになったか?

題経寺の旧本山は市川市の日蓮宗大本山中山法華経寺で、現在の本尊は「大曼荼羅」と呼ばれる、中央に南無法蓮華経の題目を大書し、その周囲に諸々の仏・菩薩・天・神などの名を書したものである。

この題経寺が「柴又帝釈天」の通称で呼ばれることになったのは、以下の事情があるという。すなわち、中興の祖である9世住職の日敬(にっきょう)が、長年行方不明になっていた、宗祖日蓮が自ら刻んだといわれる帝釈天の板本尊を本堂の棟木の上に発見し、その4年後の天明3年(1783)には板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ不思議な効験があり、柴又帝釈天への信仰が深まったのだという。今では、この板本尊発見日の安永8年(1779)が庚申の日であったことから、60日に一度の縁日となっている。

庚申の日ではないので、帝釈天にお会いすることも叶わず、参道の茶店で蓬だんごを味わって、板本尊を模したお守りを手にして帰路についた。

 

「柴又帝釈天」題経寺の二天門

 

   庚申日に公開される木札帝釈天を模したお守り

 

 

参考資料:Wikipedia、題経寺homepage、高松法然寺homepage他