境界上の「はみだしもの」の多摩の駅

前回のブログでは三鷹市と武蔵野市にまたがる三鷹駅について書きました。
(⇒南口・北口で話題になった三鷹駅は「だまし絵」の駅 )
今回は、同じように複数の行政体にまたがった(≒はみだした)多摩地域内の(三鷹駅以外)を見ていくことにします。

多摩地域にはJRと私鉄を合せて駅は176あります。(JRと私鉄が一体となった駅で駅名が同じものは1つとしてカウント。例えば「吉祥寺」など。またモノレール駅を除いている。)
そのうち、7つの駅が複数の市区にまたがっています。

この7つの駅とまたがっている市区を示すと次のようになります。(カッコ内は開業年とその時の路線名)
拝島駅(明治27年、青梅鉄道)‥ 昭島市、福生市
保谷駅(大正4年、武蔵野鉄道)‥ 西東京市、練馬区
秋津駅(大正6年、武蔵野鉄道)‥ 東村山市、清瀬市、所沢市
喜多見駅(昭和2年、小田原急行鉄道)‥ 世田谷区、狛江市
三鷹駅(昭和5年、国有鉄道中央本線)‥ 三鷹市、武蔵野市
西立川駅(昭和5年、青梅電気鉄道)‥ 立川市、昭島市
玉川上水駅(昭和25年、西武鉄道上水線)‥ 立川市、東大和市

その場所は次のようになります。

ここに示した7つの駅の中で秋津駅は唯一最初から複数の町村にまたがって開設されています。あとの6駅は三鷹駅のように最初は一つの行政体の中に開設され、その後隣接する行政体にはみ出していきました。

それでは、当初から複数の行政体にまたがって設置された駅から見ていきましょう。

秋津駅

秋津駅は上の一覧で示したように3つの市にまたがっています。しかも、東京都と埼玉県にまたがってもいるのです。このようなロケーションの駅はたいへん珍しいと思います。
駅が設置された大正6年における駅の住所は、
・東京府北多摩郡東村山村
・東京府北多摩郡清瀬村
・埼玉県入間郡松井村(後に所沢町と合併)
これら3つの村が接する地点です。

(大正10年 1/25000「所沢」)

武蔵野台地の一角ですから地形的にはこの辺りのどこにでも駅の設置は可能だったのでしょうから、きっと何らかのドラマがあって、三村の接する場所に駅が決まったのでしょう。(この経緯のわかる資料にはたどり着けませんでした。)

秋津駅の航空写真 駅の中心で3市が接している

秋津駅南口

秋津駅南口改札の中ほどを東村山市と清瀬市の市境が走っていると思われるので、左寄り改札機は東村山市、右寄り改札機は清瀬市かと思います。そして画面奥に見える明るい場所は、反対側ホームにある北口改札で所沢市になります。

秋津駅北口(所沢市) 左に清瀬市のコミュニティバス「きよバス」が駐車している。

次から見ていく5つの駅は、最初は一つの行政体に設置されたものの、その後の駅の移転あるいは拡大・拡張によって隣接部へ敷地が広がって、複数の行政体にまたがる状態になったものです。

西立川駅

まず、西立川駅です。
昭和5年に青梅電気鉄道(明治27年に青梅鉄道として敷設。現在のJR青梅線)に西立川停留場ができ、旅客扱いだけを行いました。立川陸軍飛行場最寄りの駅として関係者の利便を考えて設置されたものでしょう。
次いで昭和6年に南武鉄道貨物支線西立川駅が開業。
その後昭和10年に南武鉄道貨物支線の西立川駅が西立川停留場を併合して旅客営業を開始という経過をたどっています。
JR東日本のホームページでは開業が昭和5年(青梅電気鉄道の西立川停留場の設置年)となっています。
なお、南武鉄道貨物支線は、現在は中央線から青梅線に直接乗り入れる際に利用している線路で青梅短絡線と言われています。名前から分かるように、来歴は南武線です。

陸地測量部作成の「昭和10年鉄道補入」の地図を見ると、西立川駅は立川町に納まった状態になっています。

(大正10年測量、昭和10年鉄道補入 1/25000「府中」)

しかし、終戦後、立川陸軍飛行場は在日米軍の空軍基地となって基地周辺には米軍関係施設が多く立ち並ぶことになり、この機能をより高めるために西立川駅は西へ移転することになりました。その位置がちょうど立川市と昭島市の境界上でした。

(昭和31年 1/3000「中神」東京都建設局) 丸印の場所から移転。駅北側には在日米軍関連施設が整然と並んでいる。

西立川駅の航空写真 橋上駅の西側端を市境ラインが通っている

西立川駅ホームの西奥から東を見ている

西立川駅の立つ位置を追うだけで、第二次世界大戦前後の激動の近現代史が浮かび上がってきます。

喜多見駅

次は小田急線の喜多見駅です。
現在は狛江市と世田谷区にまたがった駅になっていますが、設置当初は狛江市域(当時は狛江村)に入ることなく世田谷区域(当時は砧村)内に駅はできました。その頃の車両はせいぜい2両編成でしたので、駅のホームの長さは現在の1/5もあれば十分であったと思われます。

(昭和7年 1/25000「溝口」)

喜多見駅の航空写真

なお、駅設置の昭和2年においては、駅の場所はまだ世田谷区でも東京市でもなく、東京府北多摩郡砧村字喜多見でした。ですから文句なしに多摩地区の駅であったことになります。
しかし、砧村は昭和11年に東京市世田谷区に編入されて多摩地区から切り離され、その結果喜多見駅も多摩所在の駅ではなくなりました。
その後戦後になって大量輸送に対応するために車両編成が長くなったことで駅のホームが長くなり、駅の西側部分は狛江市内まで伸びることになりました。あたかも、再び多摩地区へ戻ってこいと西側へ引っ張られるようにして、2つの行政体にまたがる駅になりました。
ただし、駅の出入口は狛江市内にはありません。

喜多見駅南口(この場所は世田谷区内)

線路をくぐる道路が市区境。そこを境として駅ホームの幅が違っており世田谷区の方が広い

保谷駅

次は西武池袋線の保谷駅です。
設置された時点(大正4年)では西武池袋線ではなく、武蔵野鉄道でした。この鉄道会社が母体となって、今の西武鉄道ができていきます。
そして、関係する行政体の名前も、保谷村から西東京市へ、大泉村から練馬区へと変わりました。
さて、最初に駅が設置されたのは地図で示されているように保谷村内でした。
その後、ホームの延長によって東寄り1/5ほどが練馬区に飛び出すことになりました。
しかし駅の出入口については練馬区内には設置されていません。

(大正6年 1/25000「田無」)

保谷駅の航空写真

保谷駅北口

市区境ライン上の行き止まりの道から見る保谷駅ホーム

駅ホームを南側から見た写真ですが、この写真に写っている行き止まりの道が西東京市(左側)と練馬区(右側)の市区境ラインになります。このラインは塀の向こうの保谷駅のホームを突っ切り、その先にある道に再び繋がります。市区境となっていた道を駅が寸断してしまったことがわかります。

拝島駅

拝島駅は現在はJR青梅線、JR五日市線、JR八高線、西武拝島線の4本の線路が集結する大きな駅になっていますが、最初に駅のできた明治27年には青梅鉄道(現JR青梅線)の駅として、北多摩郡拝島村内に設置されました。

(明治39年 1/20000「拝島」)

拝島駅の航空写真 多くの線路が集まる拝島駅

その後、別会社の五日市鉄道(現JR五日市線)が西側に隣り合わせにできたり(大正14年)、八高線が開通したり(昭和6年)、更には西武拝島線の終着駅ができたり(昭和43年)という経過をたどって、駅機能がどんどん拡大して駅の規模も大きくなって、東側の福生市域にまで広がっていきました。
特に西武拝島線が東側にできたときには、福生市へ直接出られる出口ができることになりました。

拝島駅北西の出口(福生市内)

拝島駅はJRと西武が横に並んで一体となった橋上駅となっていて、橋上の横断通路には、昭島市側には「アキシマクジラ」、福生市側には「福生の七夕」の大きなステンドグラスが掲げられ、駅が両市にまたがっていることをアートでアピールしています。(駅利用者はこのことに気付いているのかな?)

昭島市側の「アキシマクジラ」

福生市側の「福生の七夕」

玉川上水駅

最後に玉川上水駅を見ます。
この駅も西立川駅のように戦争と深いかかわりのある生い立ちがあります。この地にあった軍需工場、日立航空機立川工場まで小平から引き込み線がありました。それを戦後西武鉄道が譲り受けて上水線(今の拝島線)として整備し、昭和25年に開業したものです。
開業時には上水線の終点で、駅の場所は砂川村でした。駅の南側を玉川上水が流れ、駅のすぐ北側で大和村と接しているといった位置関係でした。軍需工場は大和村に広がっていたのですが、地図の作られた昭和27年には東京ガス電気立川工場に変わっています。

(昭和27年 1/10000「立川北部」)

この後昭和43年に上水線は拝島まで延伸されて拝島線と改称されましたが、駅の場所に変化はありません。
それが、平成10年の多摩都市モノレール開通の際に、拝島線・玉川上水駅の上にモノレール駅を設置するために両方の駅舎を一体化する大改造を行いました。この結果、モノレールに関係する駅施設の大部分が東大和市内に増築され、更には東大和市に直接出ることのできる駅出口ができることになりました。

玉川上水駅の航空写真 西武拝島線、多摩都市モノレールが十字交差する

西武拝島線改札出口の表示板(左が立川市方面、右が東大和市方面を指示)

複数の市区の境界に立地する6つの駅の歴史を眺めてきました。境界にあったから特別な何かがあったという訳ではないのですが、いずれの駅も大変興味ある歴史を秘めて現在そこに在ることがわかりました。

いつも利用している最寄りの普通の駅でも、その歴史を調べると、「へー、そんなことがあったんだ!」という何かを発見できるかもしれません。

おまけ

もう少しで隣の市・県とまたがることのできた駅があります。町田駅です。

町田駅の航空写真 かろうじて町田市内に止まっている

明治41年に横浜鉄道(現JR横浜線)に駅ができたときには原町田駅と言いましたが、今のJR町田駅の場所よりもうちょっと横浜寄りに置かれました。
それが小田急線の町田駅(当初は新原町田駅と言っていたが昭和51年に町田駅と改称)との接続が不便であるとのことで、昭和55年に小田急線寄りに駅が移転しました。
町田市と相模原市の市境(および都県境)は境川の旧河道なのですが、その時には境川は付け替えられていて駅の新たな敷地を旧河道の上にも設定できたかもしれませんが、結果はほんのわずかの距離を残して町田市域からはみ出すことなく町田市内に納まるように町田駅は移動しました。
町田駅は「はみだしもの」にはなりませんでした。

(明治39年 1/20000「原町田」)

原町田駅は昭和55年に矢印のように移転し、その時、駅名も「町田」に変更されています。

 

※各駅の航空写真については、全て「地理院地図/全国最新写真/撮影期間2019.6~11」を利用しました。