小泉八雲の「雪女」は現青梅市の多摩川沿いで語られた話が元だった。

 日本各地の雪女伝承

*新潟県小千谷地方では、独身の男のところに美しい女が訪ね、女は自ら望んで男の嫁になるが、嫁の嫌がるのを無理に風呂に入れると姿がなくなり、男が切り落とした細い氷柱の欠け片だけが風呂に浮いていたという。(つらら女)

*山形県上山地方の雪女は、雪の夜に老夫婦のもとを訪ね、囲炉裏の火にあたらせてもらうが、夜更けにまた旅に出ようとするので、翁が娘の手を取って押し止めようとすると、ぞっとするほど冷たい、と、見る間に娘は雪煙となって、出て行ったという。

*長野県伊那地方では、雪女を「ユキンバ」と呼び、雪の降る夜に山姥の姿であらわれるという。

*岩手県遠野地方では、小正月の1月115日または、満月の夜には、雪女が多くの童子をつれて野に出て遊ぶので、子供の外出を戒めるという。

*岩手県や宮城県の伝承では、雪女は人間の精気を奪うとされ、新潟県では子供の生き肝を抜き取る、人間を凍死させるなどといわれる。秋田県西馬音内では、雪女の顔を見たり言葉を交わしたりすると食い殺されるという。逆に茨城県や福島県盤城地方では、雪女の呼びかけに対して返事をしないと谷底へ突き落されるという。福井県でも越娘(こしむすめ)といってやはり雪女の呼びかけにたいして背を向けたものを谷へ落とすという。

*雪女の昔話はほとんどが哀れな話であり、子の無い老夫婦、山里で独り物の男で、そういう人生で侘しい者が、吹雪の戸を叩く音から、自分が待ち望む者が来たのではと幻想することから始まったといえる。そして、その待ち望んだ者と一緒に暮らす幸せを雪のように儚い幻想をした話だという。

雪女と言われる像

小泉八雲の雪女(あらすじ)

青梅市多摩川に掛かる調布橋のたもとにある碑

武蔵国のある村に、茂作と巳之吉という二人の木こりが住んでいた。茂作は老人で木こりの師匠であり、巳之吉は18歳の若者で弟子であった。毎日二人で村から二里程のところにある森へ一緒に仕事へ行っていた。その森は広く大きな川を渡って行く場所で、その川には渡しがありその渡し船に乗って森に行っていた。

千ヶ瀬の渡し場があった付近の多摩川

大変寒いある夕方の事、茂作と巳之吉が帰路についていると、その時ひどい吹雪が二人を襲ってきた。二人が渡し場に着いてみると、渡し守は舟を反対側の岸に置いたまま帰ってしまっていた。とても泳げるような日では無かった。困った二人は、渡し守の小屋に避難して難を逃れる場所があって幸いだと思った。その小屋は囲炉裏も無く、火を焚きつける場所も無く、二畳ほどで窓の無い小屋だった。二人は、入口の戸をしっかりと占めると、蓑をかぶり、寝ようと横になった。茂作は間もなく眠り込んだが、巳之吉は、長い間目を覚ましていて、恐ろしい風の音や戸にぶつかる吹雪の絶え間ない音で眠れず、蓑下で震えていたが、寒さにかかわらず巳之吉もとうとう眠り込んでしまった。巳之吉は、顔に雪が盛んに降りかかるので、目を覚ました。見ると小屋の入口の戸は無理にこじ開けられていた。巳之吉は、雪明りで部屋の中にすっかり白い装いをした一人の女を見た。

巳之吉の隣で寝ていた茂作に女が白い息を吹きかけると茂作は凍って死んでしまった。女は巳之吉にも息を吹きかけようと覆いかぶさってきたが、しばらく巳之吉を見つめた後、微笑みを浮かべて囁いた。「お前もあの老人の様に凍らし殺してやろうと思ったが、お前はまだ若く、綺麗だから助けてやることにした。ただし、お前は今夜のことを誰にも言ってはならない。誰かに言ったら命は無いと思え」そう言い残し、女は戸も閉めずに吹雪の中を去って行った。夜明けまでに吹雪は止んでいた、渡し守が渡し場に来て小屋の中を見ると、凍え死んだ茂作の側で巳之吉は気を失って倒れていたが、渡し守に介抱され間もなく正気にかえったが、恐ろしい夜の寒気のため、長い間ずっと病気になった。茂作が死んだことにもひどく驚いたが、白い装いをした女の幻の事については何も言わなかった。暫くして身体がよくなるとすぐに、巳之吉は自分の家業にもどって、毎朝一人で森へ行き、日暮れに薪を持って家に帰って来た。

翌年の冬のある夕方の事、巳之吉が山から帰路についていると、同じ道を歩いて行く一人の娘に追いついた。娘は背が高くほっそりした器量の良い娘であった。巳之吉は挨拶して娘と一緒に並んで歩き、二人は話をしはじめた。娘は自分の名前はお雪ということ、つい先頃両親を亡くし、親戚のいる江戸で女中の口を見つけてくれるかも知れないので江戸へ向かっているとの事だった。己之吉はこの娘に心を引かれ、娘がもう婚約しているかどうか尋ねた。娘は笑いながら、まだ自由な身だと答え、娘も己之吉にもう結婚しているか、あるいは結婚の約束をした人が居るかと己之吉に尋ねた。巳之吉は、母親と二人暮らしだが、自分は若いので、「お嫁」のことはまだ考えたことは無いと話した。こんな打ち明け話をした二人は長い間黙って歩いた。「気があれば目も口ほどにものを言い」であり。二人は村に着くまで互いに好きになっていた。家に近づくと巳之吉は自分の家で暫く休んで行ってはどうかと、お雪に言ったらお雪は恥ずかしそうにためらったが、巳之吉と一緒に家へ行った。母は喜んでお雪を迎え、お雪のためにご馳走を用意しもてなした。お雪が立派に振る舞ったので、母はたちまちお雪が気に入り、江戸へ行くのを延ばすように説きつけ、そして江戸へは行かず、家に留まり、お雪は、己之吉のお嫁に成ることになった。お雪は大変良い嫁になり、巳之吉の子供を男女合わせて10人産んだ。お雪は10人の子供の母親になった後でも初めて村へ来た日の様に、若くてみずみずしく見えた。

ある晩、子供たちが寝静まってから、お雪は行燈の(あんどん)の明かりで縫物をしていた。すると己之吉がお雪を見守りながら言った。「お前がそこで明かりを顔にうけて縫物をしているのを見ると、俺が18の若者だったころ起こった不思議なことを思い出すよ。俺はその時、今のお前のように綺麗で白い人を見たんだ、本当にその女は、お前そっくりだったよ」。お雪は、仕事から目を放さず答えた。「その人の話をしてください。どこでお会いになったの?」そこで、巳之吉は、吹雪の渡し守の小屋での出来事を詳しくお雪に話した。

お雪は縫物を放り出して立ち上がり、坐っている己之吉の上に身をかがめて、巳之吉の顔に向かって叫んだ。「それこそ私―私―私でした」。そして、あの時、もしあの晩のことを、一言でも洩らしたらお前のことを殺してしまうと言ったでしょ!」そこに眠っている子どもたちがいなかったら、今すぐにお前を殺してしまうのですが、子供のことを思えば、お前を殺すことができようか・・・。この上は、せめて子供たちを立派に育てておくれ。この先、お前が子供たちを悲しませるようなことがあれば、その時お前を殺しに来るから。

こう叫んでいるうちにもお雪の声は風の叫びの様に細くなり、お雪は溶けてきらめく白い霧となって消え去った。それきりお雪の姿を見た者は誰もいないと言う。

*小泉八雲の描く「雪女」の原伝説については、東京・大久保の八雲の家に奉公していた東京府西多摩郡調布村(現在の青梅市南部の多摩川沿い)出身の親子(お花と宗八とされる)から聞いた話が元になっていることが分かっている。

多摩川の渡し場跡に掛けられた現調布橋

小泉八雲のプロフィール

1850年6月27日(日本では嘉永3年)ギリシャ生まれで新聞記者。

出生名は、パトリック・ラフカデイオ・ハーン

1884年(明治17年)ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場で、日本の農商務省官僚の服部一三に展示物など日本文化を詳しく説明を受ける。

1890年(明治23年)急遽日本へ行くことを決意し4月4日横浜港に着く。7月、アメリカで知り合った服部一三(この当時は文部省普通学務局長)の斡旋

で、島根県尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と 島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に任じられる。

1891年(明治24年)1月、中学教頭・西田千太郎のすすめで、松江の士族小泉湊の娘・小泉節子(1868年~1932年)と結婚する。

11月、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身校)の英語教師となる。長男・一雄誕生。

1894年(明治27年)、神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居。

1896年(明治29年)、東京帝国大学部文学部英文学講師に就職。日本に帰化し「小泉八雲」と名乗る。秋に牛込区市ヶ谷富久町(現・新宿区)に転居。

1902年(明治35年)西大久保に転居、この頃「雪女」が書かれた。

1904年(明治37年)9月16日死去。

 

 

*雪おんな参考資料

◎訳注者 田代三千捻

◎発行者 南雲一範

◎発行所 株式会社 南雲堂