もう10年以上も前のことになりますが「多摩・武蔵野検定」の勉強をしているときに、八王子市の大谷町に「北大谷古墳」があることを知りました。我が家に近い所らしいので「いったい何処に、どんな形であるのか?」と思い探すことにしました。
バス停「バイパス大谷」からスマホの地図を見ながら進んだものの道案内の標識は見当たりません。迷う前にと農家のおじさんに声をかけ「この辺りに古墳があると思うのですが?」ときいてみると、親切に家の中から地図を持ってきて道を教えて下さいました。
民家が続く道から教えていただいた山道に入り、こわごわ歩いていくと、左右に畑が広がり人の姿も見えて一安心しました。左手にたわわに実った柿の木を見ながらさらに進むと「東京都指定旧跡北大谷古墳」の案内版があり、周囲を柵に囲まれた木立ちの中にようやく「北大谷古墳」の墳丘が現れました。
この古墳は昭和30年(1955)に東京都旧跡に指定されています。
墳丘は見ることが出来ましたが中の様子が気になって、郷土資料館に行き、資料の写真を見せて頂きました。
「北大谷古墳」の発掘は、明治32年(1899)2月11日に小宮村の木下亦蔵(きのしたまたぞう)を中心とした 数人の有志によって行なわれました。
発掘された横穴式石室は、奥行約14.4m、幅約2.4m深さは約2.7m以上で、石室が 4部屋あり、3部屋は方形で、もう1部屋は円形で最も広く甃石(たたみいし)も巨大なものが用いられていることがその年の2月17日発行の『時事新報』に報道されています。明治34年(1901)には、考古学者の八木奘三郎(やぎそうざぶろう)が『人類学雑誌』に「武蔵國八王子在の古墳」という題で「古墳は奈良時代のもので高貴な者の墳墓である」と古墳を視察した時の所見を述べています。残念ながら、石室の中には副葬品のような遺されたものは無かったようです。
その後昭和11年(1936)3月に、当時帝室博物館に勤務していた後藤守一は、その調査報告で「古墳には埴輪・葺き石もないことから、古墳の年代は八木奘三郎が推定した奈良時代よりも更に古い古墳時代後期のもの」としています。
最も新しい調査は平成5年(1993)に行なわれ、石室の再確認と古墳の周溝の確認がされています。この調査で「北大谷古墳」は直径39m、高さは2.1mの円墳であったことが判明しました。この古墳は7世紀前半代における多摩地域最大の円墳であり、横穴式石室もまた最大規模のものということです。
八王子駅から北へ約3キロという丘陵に古墳があるということは、古代、八王子周辺にどのような古代人の生活が営まれていたのか、またどのような人物が埋葬されていたのか想像すると感慨深いものがあります。
現在は古墳の周辺には畑が広がり、冬ネギが青々と元気に育っていました。
参考資料:『新八王子市史、資料編1 原始・古代』 八王子市
『特別展 多摩の古墳』 八王子市郷土資料館