村分割の歴史を見てきた一等三角点「高根」

今回は、多摩にある4つの一等三角点のうち、今までの紹介で残った最後の一つについて書きます。(既に紹介した他の3つは、「三鷹村」2020.1.27「雲取山」2020.3.9「連光寺村」2020.7.13
今回の三角点の名称は「高根」です。標高のありそうな名前ですが、194.0mです。
この名称は、三角点の設置された場所が「高根山」の山頂であったからと思われます。高根山には高根神社が祀られ、その北側には高根神社を信仰の拠り所とする集落が高根村をつくっていました。高根山の高根神社からは高根村が一望でき、逆に高根村からは高根山と高根神社を仰ぎ見ることができるといったふうに、村落の原始的な形態をうかがうことができます。(大正7年、他の神社と合祀され元狭山村の村社・元狭山神社となったため、現在は高根神社はなく跡地が公園になっています。)
さてここで、三角点設置当時の明治29年の三角点所在地名をみると、埼玉県入間郡元狭山村高根となっています。
多摩地域にある一等三角点を見てきているのに、埼玉県入間郡が出てきて「あれっ?」となるところです。
その疑問を解くことを今回のテーマにしたいと思いますが、その前にこの場所を確認しましょう。

一等三角点「高根」の場所(地理院地図)

地図の右の方に貯水池が2つ見えます。山口貯水池と村山貯水池です。左下にちょっとだけ横田基地も見えています。そうです。この三角点は狭山丘陵にあります。
高さが視覚的にわかる3D図で見ると、三角点「高根」は狭山丘陵の中で、最も高い地点になります。(微妙な加減がちょっと分かりづらいですかね)

狭山丘陵の立体図(地理院地図「3Dツール」により作図)

三角点の右下の方が高いように見えるかもしれませんが、そちらは193mですから三角点「高根」の方がわずかに高いです。
前回(「多摩で一番低い山」2020.10.5)述べましたように、この狭山丘陵は古多摩川が削り残した武蔵野台地上の出っ張りです。見事に削り残されています。大昔の古多摩川の水流が見えるようです。

さて、埼玉県入間郡元狭山村高根のことです。
正確に言いますと、三角点のあるピークは昔の多摩郡と入間郡の郡境、さらには東京府(都)と埼玉県の府(都)県境の上にありました。

明治45年の地図における東京府・埼玉県境

それが、昭和33年(1958)に元狭山村の一部が分離して東京都瑞穂町に合併することとなり、三角点の場所は境界上ではなく、すっぽりと東京都西多摩郡瑞穂町に含まれることになったのです。
一つの村が分裂して埼玉県に残る部分と東京都へ移る部分ができたということは、ただ事ではありません。何があったのでしょうか。
(三角点の場所がどうのこうのとのんきなことを言っている場合ではありません。)

この地域一帯は、中世以降武蔵七党のうちの一つ村山党という武士団が支配する地域となり、江戸時代になると日光脇往還沿道の村々として、近隣に住んでいる人々は、人情、風俗、ことば、生活習慣など密接に結びついた生活を続けてきていました。一つにまとまる下地はありました。
まずは、明治22年(1889)4月1日、明治政府の町村制施行により、入間郡内の二本木村高根村駒形富士山(こまがたふじやま)富士山栗原新田(ふじやまくりはらしんでん)の4カ村が合併して埼玉県入間郡元狭山村ができました。ここまでは入間郡内での話です。(この数年後に三角点が設置されています。)
さて、その後、近代・現代の生活が進んでくると、埼玉県入間郡元狭山村は隣接する東京府西多摩郡瑞穂町と日常的なつながりが以前に増して深まり、同じ自治体で一つにまとまった方が住民にとって便利で有利になるとの考えが多くを占め、昭和15年(1940)瑞穂町が町制を施行した頃から合併機運が盛り上がってきました。しかし、時は戦争が日増しに苛烈になってくるなか、この話は沙汰やみとなってしまいます。
戦後昭和28年(1953)になり国会で「町村合併促進法」が成立すると、両町村の合併機運が再び盛り上がり、両町村では早々に合併の合意が確認され、埼玉県、東京都、自治庁(当時)への報告・陳情を行っています。
しかし、そこに、埼玉県が「待った」をかけたのです。
当時、東京都への編入を希望する埼玉県の自治体がいくつかあり、一つを認めると後の収拾がつかなくなるとの思いからか、埼玉県側の合併阻止の動きが強くなってきて、様々な策動があったとのこと。
一方で、米軍が横田基地を使用するために瑞穂町は実質的な土地利用面積が減ることから、合併により面積を増やしたいとの瑞穂町の要望を聞き入れることは安保政策上必要であろうとの国政レベルでの思いもあった模様です。4年間の攻防の末、困り果てた自治庁が昭和33年(1958)、苦肉の「合併に関する処理方針」を出し一応の決着をみることになりました。
元狭山村の瑞穂町への合併を基本的に認める内容ではあったものの、村の一部が埼玉県に残留するという決着であったのです。所沢青梅線という道路で南北に分けられ、その北側が埼玉県に残ることになりました。さまざまな行政サービスがある日をもって別々になり、仲の良い友達同士が違った学校へ通学するといったような悲しみや憤りのなか、当分の間、住民の間にはしこりが残っていたといいます。

こんなわけで、多摩郡と入間郡の境界上にあった三角点「高根」は、昭和33年以降、東京都西多摩郡に含まれる三角点になりました。

昭和46年の地図における東京都・埼玉県境(東京府は昭和18年に都制移行)

そうそう、三角点「高根」の写真をご覧いただいていませんでした。
この三角点は、他と比べるとずいぶん整備されています。狭山丘陵を歩くハイカーが休めるように高根山山頂を整備して「三角点広場」と名付け、その中央に置かれた形になっています。知らない人が見たら、「何の遺跡だろうか?」と思ってしまいます。

三角点所在地の現在の地名は、東京都西多摩郡瑞穂町大字高根字池之上368番

※参考資料:瑞穂町史