四天王 ?

先日、久方ぶりに福井の永平寺を訪れた。禅の曹洞宗を、鶴見の総持寺と当寺で大本山として支える古刹だ。若年僧侶の修行の場として、日々の営みの厳しさが伽藍の建物に滲んでいるような緊張感と節制感が窺える思い出があったが、今回は、さすがに昨今の観光来訪者対応でこぎれいな建物管理がなされているようで、なんとなく厳しい場所という印象が少々薄らいだ感あり。重要文化財の豪壮な山門を正面から鑑賞せんと思ったが、観光順路からは山門の内側からしか臨めず、山門内側の豪快な四天王像を金網越しに撮ったのが、下段のものである。

これまで、歴史歩きをすれば各寺院でお目にかかる、「地蔵尊」と「不動明王」の由来・像に向けられた想いについてお話してきたが、今回はこの「四天王」の由来等に関して述べてみた。

下欄4図のうち ‥‥  上/ 多聞天ー 北、中左/ 広目天-西、中右/ 持国天-東、下/ 増長天-南

四天王とは、仏教的世界観の中で、その中心にそびえる須弥山(しゅみせん)の中腹の四方を守り、帝釈天に仕える天=四神である。天とは、仏を守る役目をする神々で、インドの古来の神が仏教に取り入れられて護法神となったもの。四天王は四大王ともいわれる。

・東方を護る持国天(じこくてん)                  ‥‥梵語でドゥリタラーシュトラといい「国を支える者」と訳される

・南方を護る増長天(ぞうちょうてん)           ‥‥梵語でヴィルーダカといい、「成長あるいは増大した者」と訳される

・西方を護る広目天(こうもくてん)      ‥‥梵語でヴィルーパークシャといい、「尋常でない眼、特殊な力を持った眼」さらに千里眼と拡大解釈され、広目と訳された

・北方を護る多聞天(たもんてん)          ‥‥梵語でヴァイシュラヴァナといい、「よく聞く所の者」という意味にも解釈できるため多聞と訳された。多聞天のみ単独で祀られることがあり、単独では毘沙門天(びしゃもんてん)と呼ばれる。

四天王は日本でも飛鳥時代から信仰されており、聖徳太子が物部氏との戦いで戦勝祈願をしたのが四天王で、四天王に祈願して勝利を得たことに感謝して摂津国玉造(大阪市天王寺区))に四天王寺(四天王大護国寺)を建立したとされる。戦勝祈願・国家鎮護のご利益があり、ちなみに、武勇や技芸に優れた4人が「○○四天王」と呼ばれるのは仏教の四天王から来ている。

像容は、インドにおいては貴人の姿をしているというが、日本では必ずしも定形がなく一定していないが、四天とも憤怒相で甲冑をつけた唐代の武装の姿で足下に邪鬼を踏まえている。持国天と増長天は、剣や矛を持ち、片手を腰に当てているものが多く、広目天は左手に筆、右手に巻子(かんす)をもつ場合や、左手に矛、右手に赤策をもつ場合などがある。多聞天は、左手に宝棒や矛を執る場合が多い。寺院の本堂内神の東西南北の四方に四天王の像を祀ることがある。彩色される場合は、方向に関係していることから陰陽道の白虎、青竜、朱雀、玄武になぞらえる事が多いようだ。JRのポスター(下)に掲出されて知られる、なんとも素晴らしい表情の四天王像は、東大寺戒壇堂に安置され今も仏に誓いを立てる人々を見守っている。

 

この多摩で見られる四天王像では、立川市柴崎にある臨済宗建長寺派の玄武山普済寺(ふさいじ)の六面石幢(せきどう)に描かれた四天王をお勧めしたい。普済寺は、南北朝時代に立川一帯を領有していた立川一族に由縁ある古刹で、本堂・庭園の裏手の小堂に祀られている緑泥片岩の板石からなる六面石幢(方形または多角形の笠の各辺から布を垂らしたものの形を模して石で造立したもの)に刻まれたものが、金剛力士2像と四天王だ。大正2年(1913)に国宝に指定された。顔は摩滅が進んで表情がよく分からない部分があるが、体部の動勢が生きいきと描かれている。

ところが、今年9月7日より、この国宝の新収蔵施設への移設に伴う保存修理工事のため、拝観停止が伝えられた。令和6年3月までの予定の由。残念ながら、下の写真で、その代わりとさせていただきたい。なお、立川市富士見町の立川市歴史民俗資料館ではレプリカを展示している。下図は普済寺homepageより。

                 増長天

                                                                                                                                                持国天

            広目天(左)  と 多聞天(右)