多摩めぐりの会のように、各地を歴史散歩していると、一番馴染みになるのがお地蔵様=地蔵菩薩ではないだろうか。交差路に道端に或いは寺院内にと、お地蔵さまはしばしばわれわれの目に触れてくるが、なぜそこにお地蔵さまという仏像が建てられていて、しかも皆から愛され慕われているのか、なぜ観音様でも不動明王でもなく、お地蔵様なのか。現代人が忘れかけている、昔の良民のお地蔵さまへの願望や祈祷の理由を改めて問うてみたい。
板橋宿 観明寺
地蔵菩薩は、サンスクリット語でクシティ(大地)・ガルバ(胎内)。意訳して「地蔵」、大地のような広大な慈悲で人々包み込んでくださるとされている。仏教節理では、釈迦入滅後から弥勒菩薩が如来となって救世を始めるまでの56億7千万年と言われる途方もなく長い間、人間は地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道の六道を輪廻転生しながら苦しむ。地獄道は罪悪を償わせるための残酷な世界であり、餓鬼道では腹が膨れた姿の鬼で食べ物は火となって餓えと渇きに悩まされる。畜生道は牛馬など畜生の世界で本能のままに生きて使役されるだけの救いの少ない世界、修羅道に住む阿修羅は終始戦い争い苦しみや怒りが絶えない。人間道は人間が住む世界で四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界だが楽しみもあり解脱し仏になりうるという救いもある。人間よりも優れた存在で寿命は非常に長くまた苦しみも人間道に比べて殆どないとされる天人の住む天道といえども、煩悩から解き放たれておらず解脱も出来ない。このような六道を輪廻転生する人間を、地蔵菩薩が孤軍奮闘して深い慈悲で包み込み救うものとされた。日本では、平安末~鎌倉期にかけて釈迦の説いた正しい教えが行なわれなくなる末法期到来が自覚(末法元年は西暦1052年との認識が多い)されて、地獄を恐れる風潮が強まり、地蔵菩薩への信仰が庶民にも広がった。釈迦の出家前の王子時代の装束を表したという装身具の多い一般の菩薩像とは違い、装身具の殆どない簡素な袈裟の像容も特徴的である。簡易な子供の守護尊としても慕われ「子安地蔵」と呼ばれ小僧姿も多い。また道祖神と習合した為、村はずれに交差路に設置されて、六体地蔵(六地蔵)として六道を巡りながら人々の身代わりとなって苦しみを背負ってくださるといわれた。交通の便が今ほどでない時代には、寺院への参拝がかなわず、地域の境に設置されたお地蔵様への参拝で代用したり、地域の民間信仰と一体化して崇敬を集めた。お地蔵さまが各地に多いのは、子供の守護神として、また仏教色だけでない神道的地域神とも習合して、近寄りやすい小僧様のかわいらしさを表出して、各地各様で信仰され、祈願され、愛玩されてきたわけであり、日本の各地の地域色や時代色を反映した姿のままで、現代の道歩き人にも親しまれている。
この多摩にも多数のお地蔵さまがあるが、小田急電鉄多摩線唐木田駅の旧八王子往還分岐点近く(駅から徒歩3分程)にある「長坂橋の笠地蔵」を紹介したい。柘植の木を笠にして佇む像高55cmのお地蔵様で、元禄13年(1700)設置と言われる。多摩ニュータウン開発に伴い、多くの石像群が散逸・消失していく中で、一時期仮移転していたが、元の位置に戻そうという近隣住民の思いが実現して、原位置にかつての姿のままで下の写真のように鎮座されている。これから夏に向かって、街道歩行者へ優しく涼しい笑みを寄せてくれるはずだ。