千川上水は、元禄9年(1696年)、本郷・下谷・浅草方面への給水のために開削された総延長約30㎞の上水である。現在の西東京市と武蔵野市との市境付近にある境橋で玉川上水の分水によって誕生した。 河村瑞賢の設計と伝えられ、仙川村(現在の調布市東端から三鷹市南部にかけての一帯)出身の徳兵衛と太兵衛が工事を請け負った。千川の名は、工事に功績のあった二人に仙を吉字の千に改め、千川性を与えたことに由来するという。
千川上水は、昭和46年(1971)大蔵省印刷局への給水が停止されてから長年使用されておらず、幼児の水死事故や都市計画への障害などを理由に、空堀や暗渠の状態が続いていた。昭和61年(1986)、東京都は清流復活事業を立ち上げ、玉川上水の小平監視所(立川市幸町)から浅間橋(杉並区久我山)の区間、約18㎞に高度処理下水を流して水辺を甦らせた。これにより、千川上水にも平成元年(1989)一部区間に水辺が復活した。
水辺に沿って境橋から青梅街道までの約5㎞の流域を歩いてみることにした。青梅街道から先の流路の大半は暗渠化したままだという。約5㎞の流路の大部分は武蔵野市と西東京市、武蔵野市と練馬区との境界域を通過する。流路に沿って「千川上水遊歩道」が整備されており、水辺にはケヤキやサクラの並木がつづき、水路をコイが泳ぐ。コサギやアオサギも訪れる。蛍橋、ちんじゅ橋など昔の面影を残す名前の橋が架かっている。
水辺の景色を楽しみながら更新橋交差点(2020・4・2のブログ)まで来て、その先に進もうとしたとき、信号待ちをする若い女性が連れている小型犬が足元にじゃれてきた。可愛い犬だ。私はかがんで「おぉ、いい子だ、いい子だ」と言いながら小さな犬の頭や背中を撫ぜてやった。
チビ(私が勝手につけた名前)は私の胸にとび込み、親愛の情を示して小さなしっぽをプリプリ振った。と、まもなく、女性は困惑の表情を浮かべて私とチビの仲を割くように”クイッ″とリードを引き寄せて急ぎ足で練馬区側へと交差点を渡って行った。見上げると、練馬区側の信号機が今にも赤に変わろうとしていた。
参考資料
- 練馬区公式ホームページ
- 東京都建設局ホームページ
- 地理院地図