御朱印と神社

 これまで御朱印話を3回続けてきたが(前回5月4日)、今回が最後。

 御朱印は、お寺へ写経を納めた納経の受取印だとしてお話ししてきたが、ご存じのように現在はお寺でも神社でも提供されている。神道旗下の神社に、仏教の経典を書き写し納付して、それを仏教ならぬ神道管轄の神社群が受けて、参拝の受印を出すのも、おかしなことと言えばおかしいことではある。今は少ないようだが、お寺の朱印が並んだ朱印帳に、神社で朱印の押印依頼をすると、別に神社用の朱印帳を準備するように指導されることもあった。寺社の朱印帳には、中央に寺社・神仏などの朱印が押捺されて、お寺の場合は「参拝or奉拝」「仏像名或いは仏堂名」「お寺の名前」「参拝日付」の4点が墨書されて完成するが、神社の御朱印は、「参拝」「神社名」「参拝日付」の3点墨書が基本となる。お寺4行、神社3行が普通であるが、下欄に掲げた伊勢神宮の内宮・外宮の御朱印(通称‘伊勢神宮’の正式名は、「神宮」である)は、何とも簡単なものであるが…。神社では、祀られた神像の神の名が記されることは見られない。今では、昨今のパワースポット探訪者確保増強の為か、色彩豊かで、装飾過多の御朱印が各地の神社で提供されている。

 

 

 


 

 

 

 

    日本に仏教が西暦538年に伝来したあと、聖武天皇が国分寺・国分尼寺建立、天平15年(743年)には東大寺大仏造立を命じるなど仏教鎮護国家を目指し、鑑真を招いて戒壇を設け、僧侶に戒を授けて僧侶は官僚組織の一員(官僧)になる。収入・身分が保護されて、多くは相応以上の階層出身の官僧層の腐敗が鎌倉新仏教の興隆を慫慂したともいわれる。仏教が定着するにつれて、日本土着の地霊・神祇信仰(神道)と仏教信仰が融合して一つの信仰体系として再構成され、実は日本の神々も仏が化身として現れた権現であるという考えである本地垂迹説が起こり、神仏習合が始まる。山岳信仰と仏教が習合してできた修験道はその習合の早い事例。以来、地縁霊を当該地域庶民が祀る伝道・管理組織とは縁の少ない神社と、鎮護国家を支え官僧が仕切る経典多数で知識集約され管理能力を備えた有人仏教寺院との間で、千年来の神仏習合が進められた。神社には、近接して神宮寺が建てられ、神道も由来・構成論理を強化して、神仏習合として展開して疑問を生じることとなく、寺院・神社の併存が続けられてきた。参拝の受付証拠印としての御朱印は、江戸時代頃よりと言われるが、上記の神仏習合が当然の寺院・神社併設時代であるから、御朱印の受付は、どちらかに限定されることなくどちらでもOKであったようだ。だから、今でも、寺院でも神社でも、継続して御朱印が供されている。
 明治維新になり際立った皇国史観推進が全国を覆ったが、神仏分離・廃仏毀釈が進められた時期はさほど長くはなく、そしてかならずしも全国一律に支持されたわけでもないが、現在の通りに神社とお寺は分離当然の風潮が漂うようになった。一神教支配の西欧優位の風潮の中で、日本の神仏習合形態は前近代的な宗教観だという観念があり、粗雑な信仰扱いとして千年の神仏習合歴史が顧みられることなく現在に至っているようで、日本人が無宗教だといわれるベースには、一神教信仰ではない生活習慣概念にとらわれているようだ。
 時々、お寺訪問時に、「なんで鳥居があるの? お寺に鳥居って変じゃない?」という若者の声を耳にするが、神仏習合の長年の歴史を知らず、またお正月・法事・X’masと各種信仰・宗教のいいところ取り?をして、生活を謳歌している日本人のいろいろな拠り所を知らないのは、少々悩ましい話ではあるが…。