2025年の多摩めぐりは終了いたしました。ご参加の皆様、ありがとうございました。

第59回多摩めぐり 立川基地引込線跡を巡る

輝くイチョウが彩った栄緑道に迎えられた終着地の立川市栄町

ガイド : 永江幸江さん

主なコース

JR南武線西国立駅(集合)→ 正楽院 → 緑川第一公園 → 羽衣小橋 → 北第一公園 → 北緑地 → 西町緑地 → 栄緑地 → 芋窪街道栄緑地入口(解散)

指先がかじかむほどの北風が青い空を際立たせていた12月6日。イチョウは黄色く、モミジは紅く、ケヤキなどの樹々は色とりどりに秋色を深めていた。国立・国分寺・立川市を繋ぐ約3kmに渡る立川基地引込線跡の緑道を飽きることなく歩いた。公園化して45年。行き交う人々はそれぞれ思いのままに歩き、自転車も走る。のどかな緑地だ。引込線が敷かれたのは昭和13年(1938)。すでに陸軍飛行第五大隊が立川に移駐しており、飛行場は陸軍専用になっていた。飛行場周辺には陸軍の飛行機製造工場が稼働し、陸軍獣医資材廠(現在の陸上自衛隊東立川駐屯地)へ資材を輸送するために立川駅貨物ヤードから1.2km区間に引込線が敷かれた。昭和18年には引込線は途中から分岐して延伸した。その3.2km区間は立川飛行機専用線となった。この日歩いた資材運搬の引込線跡は、世界を巻き込んだ戦禍への道でもあった。そんな背景を抱えながら永江幸江さんは多摩めぐり参加者21人を案内した。

日課の三行で気分晴れる

多摩めぐり参加者の集合地は南武線西国立駅前。ここは戸建て住宅や高層マンション、商店に囲まれた真言宗智山派の正楽院の前でもある。寺は、元は多摩川右岸の日野町下田(現在、日野市)にあったが、大正13年(1924)、立川駅北口周辺に寺院がなかったことから移った。移転後、本尊の大日如来を安置し、弘法大師や興教大師を祀り、山号を立川山とした。

静かな正楽院山門前の境内は掃き清められていた

境内の正面に本殿の遍照殿を構えている。向かって左手の八角円堂は平成17年(2005)に開創80年を記念して建てられた。日野時代の本尊だった十一面観音菩薩が涼しい顔で参詣者を迎えていた。境内に立つ小振りの3体の童子も参詣人の気持ちを和ませる。先代住職・佐藤俊龍さんは「三童子といって私が自分を戒めるために石造を作りました。毎日必ず持つのは数珠(経本)・合掌と筆と箒。これらを毎朝すると気分が晴れます」と穏やかに説いてくれた。

歌謡曲「椰子の実」「赤城の子守歌」「湖底の故郷」などで知られる歌手・東海林太郎が立川市柴崎町に住んでいたことから正楽院に縁があり、昭和47年(1972)10月4日、74歳で亡くなったときに正楽院で葬儀を行った。墓所は出身の秋田市にある西船寺。

入れ替わった曙町と羽衣町

一行は、正楽院東側にある立川市立第六小学校前の羽衣いちょう通りに出た。一帯の地名は「西国立」といいたいところだが、「羽衣町」という。昭和17年(1942)に成立した町名だ。

このいわれをガイド役の永江幸江さんが説いた。大正11年(1922)に立川に飛行場が出来ており、昭和8年(1933)に陸軍専用飛行場になった。地元では飛行場に近いところだから飛行を連想する羽衣町にして、その東側を曙町に名付ける構想だった。だが、軍部が横やりを入れた。「羽衣など軟弱で飛行機が墜落しそうではないか」と。結局、飛行場に近いところを曙町に、東側を羽衣町にしたというのだ。「羽衣町には何の羽衣伝説もないんです」と永江さんは苦笑した。

出水対策で駅前疎開

多摩めぐりの参加者は永江さんを先頭に羽衣いちょう通りを歩いた。一見、変哲もないアスファルトの道路だ。だが、足下には導管の緑川が流れている。緑川が生まれたのは大正11年(1922)。立川飛行場が出来て以来、飛行場南端に作った地下浸透設備や貯水溜などの排水が計画通りにならず、降水時に立川駅周辺は再三、出水した。

このため昭和19年(1944)3月に川幅12m、側道両側各9m、合わせて30mの排水路を設けた。排水路用地を確保するために飛行場周辺50m以内の住宅や商店など約400戸を疎開させて編み出した。この方式を駅前疎開といわれ、いまの北口大通りは、その名残りだ。工事は昭和19年末に始まったが、未完のまま、終戦になった。戦後、進駐した米軍の重機などを使って素掘りのまま、昭和22年4月30日に通水した。緑川は、いまも国立市泉の多摩川に注いでいる。

緑川は、当初、排水路と呼ばれていたが、昭和24年(1947)8月4日、飛行場がある緑町に因み、緑川と命名された。ちなみに他の候補名は中川、立谷川だった。
「燃える川」といわれた時代もあった。昭和25年と27年に立川基地から流出した廃油が発火したのだ。昭和29年にコンクリート護岸にしたものの、翌年に2件の転落死亡事故が起きた。時代とともに相次ぐ緑川の景観は、蓋掛け、駐車場、道路と目まぐるしく変わった。

引込線の分岐地に小橋

いちょう通りをさらに北の緑川第一児童遊園へ向かった。北側の奥にJR中央線の高架が東西に走り、これと並行して高架下にあったのが「羽衣小橋」だ。緑川に架かる橋の一つで長さ約5m、幅2.5mほどだ。背の低い欄干に「1954(昭和29)年8月」と刻まれており、コンクリートの護岸工事の時期に重なる。

引込線の分岐点と思われる袋小橋。中央線の高架下に当たる

この地点は立川駅から東へ1kmあまりで、中央線と引込線の分岐地のようだ。だが、引込線跡へは中央線高架の北側へ回らなければならない。その道を求めて一行は東側へ数百メートル歩いて国立市側へ向かった。沿道は住宅密集地。小規模な工場も点在している。

「東京のへそ」に認定した公園

中央線の高架をくぐった先は国立市北第一公園だった。サクラの大木など国立市随一といわれる森の景観を誇る自然豊かな公園だ。広さは約973㎡。緩やかな傾斜地で、木々を眺めるような高台に四阿があり、大小の石を配した池を作り、奥行きを演出していた。

雑木が覆い茂る国立市自慢の北第一公園は引込線跡の始まりでもあった

ここは東京都の中心地を示す「へそ」だそうだ。平成25年(2013)7月のテレビ番組で認定して園内に「東京都のへそ石」を設置している。ちなみに「東京都のへそ」は「東京のへそ・子育て厄除け八幡さま」と親しまれている杉並区の大宮八幡宮と、東京都の中心(重心)だといわれている国分寺市富士本の「富士本90度公園」がある。どちらも島しょを除く。また、日野市は東京都のほぼ中央に位置していることも知られている。

廃レール生かして緑道に癒し

北緑地に生える硬い冬芽の桜の大木の下を北へと進む多摩めぐりの仲間たち

北第一公園の北端でようやく立川基地引込線跡に出合った。グリーンベルトの引込線跡は国立・国分寺・立川市に跨る約2kmを緑道としたもので、昭和55年(1980)に遊歩道とした。

一番東側の国立市北にある北緑地は、いたって短く約150m。低木や高木の木々が遊歩道に被さるように覆う。引込線時代のレールを半円に曲げたアーチ型のモニュメントを過ぎると、直後に当時のレールを使ったパーゴラがあった。これにフジヅルが巻き付いていた。緑地の入口付近には石造りのテーブルやイスが備えてある。パーゴラに使われた廃レールには「2602」の皇紀の刻印があった。昭和18年(1943)の立川飛行場への引込線敷設年に符合する。

北緑地のアーチで

眼をきょろきょろさせていると、あっという間に国分寺市西町の西町緑地に入った。長さは約280m。ここも北緑地の道幅と変わらず、3m弱で左右に木々が植わる。緑道と個人住宅の敷地を区分けする柵は鉄道時代の名残だ。この緑地も歩く人らが途中に一休みできるパーゴラがあって、市民の憩いの場になっている。

行く手の西側を鉄柵で仕切っていた西町緑地

濃かった軍事色の傷痕

なぜ、引込線が敷設されたのか。始まりは大正11年(1922)に陸軍飛行第五大隊が立川に移駐したことに始まる。当初、立川飛行場は民間飛行場だった。陸軍専用飛行場になったのは昭和8年(1933)。これを契機に武蔵野市の中島飛行機をはじめ、立川市に立川飛行機(後の立飛ホールディングス)が出来た。周辺の小金井市や国分寺市、国立市にも軍需工場や研究所などが出来、年々、戦争色が濃くなり、軍需産業を中心とする企業が集まり、陸軍機を製造する立川飛行機の工場も増築された。

空襲による犠牲者が多数

さらに昭和13年(1938)に陸軍獣医資材廠(現在の陸上自衛隊東立川駐屯地)が世田谷から立川に移った。この時、立川駅貨物ヤードから同廠まで1.2km区間に引込線を敷いた。戦争の勢いは増すばかりで、昭和18年に立川飛行機は引込線の沿線を買収して引込線の途中から約3.2kmを延長した。その線路跡は、これから多摩めぐりの一行が目指す立川・栄緑地の一部だ。

米軍B29の空襲を受けた中島飛行機の工場では終戦までに200人以上、周辺住民を含めると数百人が犠牲なったほか、立川飛行機では終戦までに5回の空襲で150人ほどが犠牲になった。周辺住民も巻き添えを食らうなど国立市や国分寺市、小金井市にも被害者が出ている。

30年以上、米軍の支配下に

戦後は、飛行場も工場も米軍に接収された。接収後、引込線は飛行機工場から南の飛行場へ1.7km延長され、飛行機燃料を輸送した。昭和43年(1968)までに米軍が運んだジェット燃料は1日あたり120両に及んだという。昭和44年には米軍立川基地の飛行が停止され、引込線は廃止された。8年後の昭和52年に立川基地は日本に全面返還になった。跡地は昭和記念公園をはじめ、国や東京都などの施設のほか、土地を所有していた立飛などが再開発した。

樹木圃場に鉄道の枕木

国分寺市側の西町緑地から立川市の栄緑地(奥)へ。空は青く高い・・・

立川市域の栄緑地は、一番長く1.6kmある。西町緑地から立川通りを横切り、芋窪街道までの区間だ。これまでの2本の緑道と違ってエリア一帯は「歴史と文化の散歩道」の一つであり、立川の近代と現代が分かるコースであることを示す表示がある。この緑地そのものが立川の歩みを語る標本だ。

栄緑地沿いに広がる野菜畑にも広がりを感じた

沿道にはビニールハウスや収穫した後のキャベツ畑などが点在していた。緑地には高木が多く、ケヤキやトチノキの大木が目につく。ここにも廃レールを利用したパーゴラの一つにノウゼンカズラが這っていた。この先には苗木の圃場があった。永江さんは「この緑道の風景の中で、この圃場の景観が一番好きです」と話した。見れば、圃場内の道には枕木を敷いて他の圃場へ車を進入させない方式をとっている。絵的にも奥行きがあり、土の温かみと軟らかさが感じられた。

樹木圃場内に鉄道の枕木を敷いた作業路(栄緑地で)

金色に輝く“ピースロード”

芋窪街道が見え始めた地点は栄緑道の終点であり、入口だ。付近には立飛ホールディングス本社があり、スケートの浅田真央さんとの協働による「MAO RINK TACHIKAWA TACHIHI」のほか、「ドーム立川立飛」、「アリーナ立川立飛」、「ららぽーと立川立飛」、「タチヒビーチ」、「ソラノホテル」、「グリーンスプリングス」と立川駅まで続く基地跡地は近代都市に生まれ変わっている。

一行が終着した栄緑道は別天地だった。これまでも樹形や背丈に違いはあったが、一木の姿を際立たせたイチョウが数十メートルにわたって両サイドに並んでいるのに目を見張った。金色の世界に招かれたような思いだった。昭和の一コマを物語る引込線跡は、戦争と平和を刻んでいる“ピースロード”だ。

来た道を振り返りたくなった栄緑道のイチョウ並木
永江さん
永江さん

立川基地引込線跡は、国立市・国分寺・立川市と3市にまたがる緑道となっています。各市の特徴と長閑な雰囲気を楽しみつつ、引込線として使用されていた歴史にも触れながらのご案内でした。
2時間のショートコースということもあり、元気なまま和やかに歩くことができました。土曜日とあって自転車の通行も多かったのですが、スタッフだけでなく、参加者の皆様も声を掛け合って安全に勤めていただけたのはありがたいことでした。
芋窪街道の栄緑地入口近くにあるイチョウ並木、見ごろは過ぎたかなと思っていましたが、見事な黄葉でゴールを彩ってくれました。

【集合:12月6日(土)10時 JR南武線西国立駅/解散:緑道終点12時ごろ】