「第48回多摩めぐり 秋の狭山丘陵を歩いてミカン狩り」を 11月2日(土)に開催します

第47回多摩めぐり ユネスコ無形文化遺産「鳳凰の舞」道行から奉納まで、新しい仏さま鹿野大仏も

観衆が見守る中で太鼓を中心にして鳳凰と簓が舞い踊る

ガイド : 味藤 圭司さん

主なコース

JR青梅線福生駅西口(集合) → <路線バス> → 三吉野バス停 → 三吉野会館 (祭礼の道行に同行)→ 志茂町山車 → 春日神社(奴の舞、鳳凰の舞奉納鑑賞) → 鹿野大仏(昼食)→ 寶光寺 → 八幡神社 → 宿通り(中平井)→ 中平井バス停 → <路線バス> → 福生駅西口(解散)

日の出山(902m)を源にする平井川流域の日の出町平井。万燈に先導された笛と太鼓の音が響き渡った9月29日、多摩めぐりの参加者19人は「下平井の鳳凰の舞」が奉納された春日神社までの道行(みちゆき)に同行して祭の厳粛さと華やかさを堪能した。鳳凰の舞は、紆余曲折がありながらも100年以上も受け継いできた地元の人々の祭への心意気も肌で感じた。昨秋、奥多摩町小河内に伝わる「小河内の鹿島踊」に続く、ユネスコ無形文化遺産シリーズ第2弾として味藤圭司さんが案内した。

味藤圭司さん
味藤圭司さん

昨年9月の多摩めぐりで、ユネスコに登録された風流(ふりゅう)踊り「鹿島踊」を見学するために多摩めぐりの参加者とともに奥多摩町の小河内神社の祭礼に出掛けました。

こうなれば、多摩地区でもう一つユネスコに登録されている「鳳凰の舞」を見ないわけにはいかないということで、昨年の多摩めぐりが終わると直ぐに今回の準備(資料集め)に取り掛かりました。

そんなこともあり、今回、参加者にお渡しした冊子は「鳳凰の舞」に関してかなり詳しい資料になっていると思います。

当日の見学は30分ほどで終わってしまう「鳳凰の舞」だけを見るのでなく、お祭のいろいろな顔を見てみようと祭礼のスタートである道行から始まって、各所で行われるイベントを多く織り込んだプランを作りました。

日の出町平井地区のお祭りと一体となった鳳凰の舞について楽しんでいただけたのではないかと思います。

道行の行列を出迎える住人ら

鳳凰の舞保存会の面々が集合する三吉野会館の庭には祭礼の幟が立ち、横笛を首の背後に差し込んだ粋な青年たちや、衣装をまとい、たすき掛けした子らがあふれていた。庭の中天には大万燈が下がり、四隅には一回り小ぶりの万燈を飾っていた。一団を取り囲む見学者にも酒が振舞われて、午前11時すぎ、会館を出発。約1km西方の春日神社へ向けてゆっくりと進んだ。

道中の安全を祈願して道行の出発前に振る舞い酒を進める保存会の人たち

行列の先頭を行く「美吉野」「鳳凰の舞」と記した高張提灯が2つ。続いて花笠が付いた3つの万燈と、鳳凰の舞の前に演舞をする「奴の舞」の小学生たち。これに続く鳳凰の舞を演じる4人、簓(ささら)の4人、軍配を持っている人もいる。大太鼓や付締太鼓、笛の囃子連ら数十人が続く。沿道の家々では一団を出迎えた。

三吉野会館に幟を立て、中央に大万燈を吊るした光景は祭ならではの光景だ
春日神社に向けて出発した鳳凰の舞の厳かな道行
道行について歩く多摩めぐりの一行は浮き浮き気分

干ばつや悪霊を払う舞

鳳凰の舞が世界遺産に認定されたのは2022年(令和4年)。人目を惹くという風流の精神を体現して衣装や持ち物に趣向を凝らして、歌や笛、太鼓などの囃子に合わせて踊る民俗芸能だ。現在、ユネスコ無形文化遺産に記載されている国内分は全国に41件ある。ほかに能楽や結城紬など8件が登録されている。

鳳凰の舞が下平井で興ったのは明治年間のようだ。旱ばつや悪疫流行を払うときに度々行なったという。その後、廃れたが、昭和初めに当時の平井村の武田義勝や柴田近重、宮林喜一郎らが青少年に伝えて復活した。戦中にも一時中断したが、昭和23年(1948)ごろから毎年9月29日(現在29日に近い土・日曜日)の春日神社秋季例祭に奉納している。

上方の踊りに奴歌舞伎加えた

鳳凰の舞は言い伝えによると、元は京都から落ち延びた公卿が伝えたとか、村人が京都見物の折に教わったとか、徳川三代将軍・家光のころに八王子千人同心で下平井に住んでいた旧武田家臣が日光で務めた火の番のときに上方の者から習って平井地区で広まったともいわれる。上方の雨乞い踊りに祇園囃子と風流踊りが結びつき、さらに江戸で生まれた奴歌舞伎の太刀踊りを加えて鳳凰の舞が誕生したと考えられている。

鳳凰の舞は、東京都が都無形民俗文化財に指定したのが昭和28年11月。さらに平成18年(2006)11月に国重要無形民俗文化財に指定された。

経験者が口伝で継承

鳳凰の舞の保存会は東京都無形民俗文化財に指定されたときに全住民が保存会の会員になって発足した。以来、70年余り。後継者や財源の課題を抱えながらも乗り切ってきた。伝承には文献がない。先人の口伝が何よりの教科書だ。所作は、いまも口から口へ、目から目へ、手取り足取りして受け継がれてきた。その成果を披露するのが春日神社への奉納だ。同時に地域の力、地域で子を育てることにも繋がっている。

重松囃子も150年継承

祭礼の道行の一団が下平井交差点で永田橋通りに合流して間もなく、志茂町の山車の前を通過。祭り熱が一段と高まった光景だ。多摩めぐりの一行は、ここで参加者の集合写真を撮ることにした。

道中で出会った志茂町の山車とともに収まった多摩めぐり参加者たち

志茂町の囃子と山車は、三吉野地域と同じ古谷重松に習った。古谷は埼玉・所沢で家業の藍染の行商しながら各地で囃子を伝え、埼玉や多摩各地へと広めた。志茂町では明治7(1874)~18年ごろに古谷から海塩繁蔵らに直伝され、囃子連ができたそうだ。こうしたことから日の出町やあきる野市などで重松囃子が普及した。

志茂町の山車は、明治26年に日の出町に住んでいた大工・田村與三郎が建造した。梁行1間(約180㎝)、桁行2間、前部が囃子舞台になっており、唐破風の平屋根が載っていた。平成12年(2000)に修復されるまで日の出町で最も古い山車だった。創建当時の部材を保存しているという。

下平井の秋祭りには志茂町の囃子と山車のほか、加美町、八幡、桜木、三和の山車も繰り出して平井地区は祭一色だった。

地口行灯も祭ムード盛り上げ

鳳凰の舞の一団は、中平井交差点を右折して住宅街を抜けた。この先に架かる千石橋は、穏やかに流れる平井川に架かる。赤い社殿が目印の春日神社は、すぐだ。社殿が近づくにしたがって地口行灯が目についた。行灯には高御膳に飛びつくキツネを描いて、柳眉な墨文字で「おきつね 八寸 とび」とある。このほかの地口行灯には駄洒落があり、冗談もありで粋な風情を醸し出していた。

しなやかさと舞い狂う見事さ

広いはずの春日神社境内は人で埋まっていた。神楽殿はあるが、奴の演舞と鳳凰の舞は、神楽殿前の境内を庭として、ここで奉納された。鳳凰の舞の前座役を務めるのが小学生の男児10人ほどの奴の舞だ。奴の舞を演じた先輩たちが、この日のために子らに夏休み以降、指導役に回り、手取り、足取りして教えてきた。

太鼓を中心に回って奴の舞を奉納する小学生たち

笛と太鼓に合わせて奴たちが舞い始めた。庭に置かれた大太鼓を中心に円を描くように1人ずつ奴が繰り出して来た。囃子方の「祇園囃子」の調子が徐々に上がる。どの奴も赤い襦袢に短い単衣(ひとえ)を着て、友禅染の三尺帯を垂れ結びにしている。頭には鴇(とき)色の鉢巻きを前で結んでいる。体に赤い襷を掛けて、草履履き。目鼻立ちを際立たせるための鼻筋の白粉や両頬の紅も効果満点。右手の白扇と左手の角鍔の木刀を持ちながら交互に腕を振る。

体のしなやかな線を存分に見せた奴の舞

先輩たちの言いつけを守るように白扇を持つ右腕を前に延ばすと同時に右脚も出す。さらに腰を落として囃子に合わせて白扇を持った右手を延ばしたまま腕を上下させる。また、左手の木刀を逆手に持って背につける。背筋は弓なりだ。相当な稽古を積んできたと感じる。そんな奴たちに先輩たちは、庭の近くで目を注ぎ続けていた。

庭の上段を囲み、舞を見続けた大勢の人たち

厳粛な口上にも威厳

10人ほどが庭に出そろって円陣を組んだところで始まったのが、一人一人が述べる口上だ。歴史や暮らしの一コマなどを織り込んでいる。一語ずつ区切ってはっきり言うことで堅苦しさが厳粛さを醸し出した。それぞれの始まりは「えっへん!」と咳を払う。「えっへん、昔々その昔、禁裏の御所のお慶び、鳳凰を舞い奉る。まことにお目出とう候らいける。ほほ敬って申す」など、都の香りがする舞であることが匂う。

「えっへん、古池や蛙飛び込む水の音、芭蕉が残す平民文学」と庶民が自然と共に生きる様子もアピールした。かと思うと「菊の御紋を第一に、二つ巴に、三つ柏、四つ目の武田菱、五三の桐に六文銭、七つ楠氏(なんし)の菊に水、八つ花菱、九は九曜星、十は常盤の雪の松」と七五調で日本の伝統を読み込んだものもあって、聞かせる言葉のなんと床しいことかと感心する。

この日の庭の光景に当てはまる口上も出た。「清き流れの平井川、左岸におわす春日社は境内広く幽谷の、老樹古杉天を摩し、昼なお暗き荘厳は、いとも尊き社なり」。そう、その通り。境内を取り囲むスギやヒノキの古木や大樹が異空間を演出していた。

色鮮やかな衣装の舞い手

いよいよ「鳳凰の舞」の10人の出番だ。庭の中央に設えた太鼓を古老が打った合図で囃子役の「石町(こくちょう)囃子」が庭に響き始めた。先頭は赤頭布を着て手に軍配を持っている。これに続いたのは鳳凰、簓。最後に小太鼓が出てきた。

きらびやかな鳳凰と簓の役は目まぐるしく動きながら太鼓に一打入魂する

鳳凰の冠を頭に載せた5人のうち4人が太鼓の撥(ばち)を手に持っている。1人は小太鼓を携える。赤頭布を被った5人のうちの4人は簓(ささら)を持ち、別の1人は軍配を手に持っている。10人の舞い手は、揃いの柄の単衣に裁付袴(たっつけはかま)をまとう。鳳凰は白、簓は赤い襷を十字に綾取り、足には足首を結ぶ紐付きの草履履き。全員、腰に幣を着けている。

踊り舞いながら太鼓を打つ

軍配を持つ人の「そりゃ持ってこい」の掛け合いで舞が始まった。囃子方が「打っ込み(ぶっこみ)」を歌い始めた。「大内山に紫の瑞雲たなびく幾八千代 鳳凰舞うで寿ぎぬ」。大太鼓を中央にして、鳳凰は踊りながら撥で大太鼓を叩き、頭布の者は簓を鳴らして舞い続ける。囃子方の歌は中盤の「舞の唄」から徐々に千秋楽の「追い出し唄」へと変わっていった。

昭和初期の冠は笊(ざる)に木で作った鳳凰を被ったが
昭和33年(1958)以来、金物製に切り替えた

鳳凰と簓は、腰を落とし左足を前に出し、左手の撥を左足の方へ差し、右手の撥を右肩に移して立てる。囃子方の笛が鳴り響く。鳳凰と頭布役は同じ歩調で右回りに跳ねながら順序良く大太鼓を代わるがわる打ち続ける。

全身を生かす速い所作の連続

舞う速さに庭を取り囲んだ観客たちに言葉がない。見とれて言葉を失っているのか。熱視線が庭に集まっている。舞い手の所作で最も難しいのは、腰をぐっと落として、前に出した足と手、さらに後ろに引いた足と肩に立てた姿勢が、ほぼ一直線にすることだという。なぜならば、腰を落とした姿勢で庭の地べたに置かれた大太鼓を叩くために肩の高さを大太鼓の位置まで落とさなければならないからだ。この所作を会得するには並みの稽古では出来ないらしい。

千秋楽が近づいて庭の四隅を仕切っていた万燈や笛方らが太鼓を囲み
「石町(せきちょう)囃子」を奏でてお終いの「追い出しの場」になった

緩急効かせた舞の見事さ

軍配と小太鼓にも約束事がある。囃子の一章ごとに鳳凰と簓は円陣ごとに庭を4分の1ずつ回るが、鳳凰らの外周を足早に半周しなければならない。しかも軍配と小太鼓は絶えず向かい合う位置にいることを求められている。緩と急が一体化していることにも目を外せなかった。

本祭で舞い終えた人々は、本殿前で集合写真を撮った。どの顔にも笑顔がありながらもまだ緊張の面持ちだ。夕刻の本宮で、もう一度、町内をめぐり、神社で演じなければならないからだろう。

上々の奉納だった本祭の祭礼に笑顔が戻った鳳凰の舞を演じた人たち

継承する気概に歴史あり

ややなだらかな丘陵に挟まれた、いわば山間の地である平井川沿いで鳳凰の舞が100年以上も継承されてきたのには訳がありそうだ。元々、小田原北条氏が平井郷に宿駅を設けていた。ここに平井市が立ったのは中世末期の16世紀後半以降。秩父・青梅と滝山城や八王子城を結ぶ交通の要衝であり、古くから鎌倉道として使われていた。北条氏滅亡(天正18=1590年)で平井市は廃絶したが、慶長4年(1599)4月の氷雨で平井村が飢饉に陥り、その復興目的で平井市が復活した。

市が立った宿通り(江戸道または御嶽道とも)に上宿、中宿、下宿があり、各宿では月に1回、6の日(6、16、26日)に市が立った。売られた商品は穀物をはじめ、絹縞・太織縞などの織物を中心に集荷市の役目も果たしていた。沿道には市場衆が30軒ほどあり、市場商人に庭先を貸して口銭(賃料)を得ていた。19世紀以降に八王子の縞市が盛んになり、平井市は季節市(3月、5月、12月の26日)になった。こうした土地柄が生んだ気概が祭に滲んでいるのだろう。

見上げる山上の釈迦如来

多摩めぐり参加者の列は、鳳凰の舞の一団と離れ、近くの寶光寺の鹿野(ろくや)大仏を目指した。寶光寺の駐車場から北側の山上(標高233m)で大仏が座禅を組んでいる姿は、まさに天に近い場所だ。鹿野大仏は山形鋳物の青銅製。高さが12m(ほかに蓮華座3m)あり、台座を含むと高さは18mにも及ぶ。奈良・東大寺の大仏(14.7m)に次ぐ2番目に大きい。鎌倉の大仏(11.39m)を凌ぐ。

麓から見上げる山上の鹿野大仏

座禅を組む大仏の膝下に立った。その姿は、なんと重々しいか。膝幅も10mある。口長0.8m、耳は2m。大きさに息を飲む。

「デカイ」という言葉遣いをためらうほどに、全身に気品と優美さがあふれる鹿野大仏
南方を向く鹿野大仏の先には大観覧車(あきる野市の東京サマーランド)や建物群のほか、
丹沢山系の山並みがたなびいていた

数十年の願いが叶って開眼

寶光寺(天台宗から曹洞宗に改宗)の開山は500年以上も前の文明10年。諸堂は江戸時代から明治時代にかけて幾度も火災で総門以外、消失した。先代の禅岳昭道住職が江戸時代の図面をもとに七堂伽藍を復興した昭和後期に西多摩地域に仏教の教えを広めるために釈迦如来の大仏の建立を誓願した。この遺志を継いだ33世の八坂良秀住職が建設委員会を立ち上げ、平成30年(2018)に大仏の公開に漕ぎつけた。大仏の柔和な顔をはじめ、全身を流れる優美な線を撫でてみたい思いに駆られた。山上の大仏は多摩の新名所になっている。台座下に胎内仏を安置しているが、この日は扉が閉ざされていた。

鹿に教えられて名湯に

大仏の麓に湧く「鹿の湯」に立ち寄った。直径1mほどの池だが、開山当時のエピソードがある。足に傷を負った1頭の鹿が草庵の前を行き来するのを見た和尚は、草庵の北に湯が沸いているのを知った。ここで鹿は傷ついた足を癒していたのだった。和尚は、この泉を「鹿の湯」と命名してけがで苦しんでいる村人に浴室を建てて提供した。「武蔵名所図会」に多摩七湯の一つとして紹介されるようになり、明治のころまで繁盛していたという。いま、湯本跡には大振りのカシの木が立ち、祠を建てて鹿之湯大権現を祀っている。

明治時代まで名湯として人気があった鹿の湯跡の池にはカシの木がすっくと立っていた。
そばに鹿之湯大権現を祀っている

明かり灯る神楽殿に開放感

多摩めぐりの一行は再び平井川の右岸に回り、この日の最後のポイント、八幡神社へ向かった。町内の通り沿いには露店が出て、境内では重松流祭囃子がにぎにぎしく歌い上げて奉納されたのだろう。本殿や神楽殿などに明かりがともり、祭半纏を着た氏子が迎えてくれて、祭の風情が漂っていた。

町内に出た山車の戻りを待つ八幡神社。
祭り提灯が下がり、神楽殿(左)に太鼓も出そろっていた

八幡神社の祭神は誉田別命(ほむたわけのみこと)。創建は不詳だが、承平5年(935)の平将門の乱のときに藤原忠文が参詣したと伝わる。この地に遷座したのが建永元年(1206)。新編武蔵風土記稿に平山景時が明徳元年(1390)に創建し、その後も平山家がしばしば再興したと記している。

山車から響く笛や太鼓の音。さらに囃子を聞いて、舞を見て気分が高揚した。この数年の新型コロナ騒動も沈静化しつつある中で、来し方行く末を考えたと同時に、祭気分に浸って人と人、人と地域、いろんな形で時代を繋ぐ象徴の一つが祭であることも見た。

【集合:9月29日(日)午前9時30分 JR青梅線福生駅西口/解散:福生駅 午後3時30分ごろ】