「第50回多摩めぐり 作家吉村昭の書斎を訪ね、あわせて多摩地域の東端エリアを散策する」を12月21日(日)に開催します

第43回多摩めぐり 戦争遺跡の浅川地下壕と緑の聖域武蔵陵墓地をめぐる

各自、ヘルメットをかぶり、懐中電灯を持って頭上の露岩に目を注いだ

ガイド:菊池等さん、前田けい子さん

主なコース

JR高尾駅南口(集合) → 浅川地下壕(案内:浅川地下壕の保存をすすめる会)→ 高尾駅南口(昼食)→ 熊野神社 → 旧甲州街道 → 東浅川宮廷駅跡 → 陵南公園 → 武蔵陵墓地 → 京王御陵線多摩御陵前駅跡 → 京王御陵線橋脚跡 → 横山事務所前バス停(解散)

「浅川地下壕があることは聞いていましたが、百聞は一見にしかず、ですね。見学できて思いを新たにしました」「浅川地下壕をもっと多くの人に見てもらい、戦争があったことを忘れないようにしたい」。4月21日、43回目の多摩めぐりで80年前に日本陸軍が高尾山麓に掘った浅川地下壕(八王子市初沢町)に入った参加者が口々に漏らした言葉だ。縦横に数十本も掘った大規模な壕の通路は暗闇。手にした懐中電灯に照らされたむき出しの岩。天井からは鍾乳石が下がり、コウモリが飛び交っていた。同時に79年前の昭和20年(1945)夏の八王子空襲で、東京大空襲(投下焼夷弾1665t)に迫る1600tの焼夷弾が投下されて市街地の8割を焦土と化し、死者396人、重傷者494人を含む2千人余りが負傷した。戦火を逃れる市民を目前にしながら地下壕に避難させていればと悔やまれる。そんな重い胸を引きずりながらガイド役の菊池等さんと前田けい子さんは、午後、参加者20人とともに八王子市西南域の主要ポイントである武蔵陵墓地(同市長房町、廿里町、元八王子町)や、開花したばかりのサクラ、川の両岸を渡るこいのぼりを楽しみながら南浅川を下り、同墓地の参拝者を見込んで敷設された鉄道跡も訪ねた。

個人参加で地下壕を見たのが発端

「戦争遺跡の浅川地下壕と緑の聖域武蔵陵墓地をめぐる」企画が生まれたきっかけは昨秋のことだった。多摩めぐりの会定時幹事会の席上、前田さんが個人参加で浅川地下壕に入って戦争遺産と一口で語れないものを感じたとショッキングに話した。「ほぼ毎月、浅川地下壕の保存をすすめる会が見学会を開いているから多摩めぐりの会幹事も参加したら」と勧めてくれた。今年、年明けに別の2人が参加した。見学を終えた後、坑口で、この日にガイドをした「浅川地下壕の保存をすすめる会」副会長・中田均さんに当方主催で開くことを快諾していただいた。

その中田さんをゲストガイドとして招いたのが43回目の多摩めぐりだ。同すすめる会は平成9年(1997)に発足、全国の戦争遺跡保存運動の様々な団体と連携して活動を続けている。会員は100人ほどと多い。

地下壕にかかわって33年

地下壕に入る前にレクチャーをする中田さんの話に聞き入る参加者たち
(みころも霊園で)

元高校教員だった中田さんは平成3年(1991)学校に近い浅川地下壕の測量などをクラブ活動の一環として生徒とともに取り組んだのがきっかけで、以来33年になる。この間、在日朝鮮人から強制連行の実情を聞き取り、土木工学や日本防空史、米軍戦略爆撃調査団報告書などにあたり、浅川地下壕が掘削されたいきさつなどを調べてきた。

3本の地下壕、総延長10㎞超

中田さんはJR高尾駅から現場の浅川地下壕までの区間で関連する事柄を話し続けた。中田さんの案内で多摩めぐりの一行は高尾駅南口から数分歩いた八王子市立浅川小学校の校庭に入った。

浅川地下壕の配置図
(配布された浅川地下壕の保存をすすめる会の資料から)

中田さんは高尾山の東麓にあたる、穏やかな稜線を指差して「浅川地下壕が、この一帯に3か所ある」と説いた。「左手にある山が東高尾山稜(京王高尾線の脇)のイ地区、右方向にある小高い金刀比羅山がロ地区、さらに右にある初沢山のハ地区」と山容の地下を掘ったことを話した。3本の地下通路の総距離は10㎞以上に及ぶという。みころも霊園の北側には壕を掘る要員に駆り出された朝鮮人の飯場が20棟ほどあった。

43万㎡超の山林を買収

日本陸軍は昭和19年7月、43万3500㎡の山林を買収(3.3㎡当たり1円)して大本営設置を急いだ。建設の始まりは、日本が国防圏としていたサイパン島などを米軍に奪還されて敗色が濃くなり始めた同年11月、中島飛行機武蔵製作所(武蔵野市)が初の本格的な本土空襲を受けたころで、これを境に日本軍は敗戦へと動き始めた。すでに日本陸軍は八王子・浅川(東部軍)、長野・松本(東部軍)などに大規模な地下壕を建設し始めていた。松本に大本営を置くことも決めていた。浅川地下壕も大本営の候補地だったが、実際には使われず「幻の大本営」と言われた。

地下壕が掘られた山並みを見る参加者(浅川小学校で)

最初に掘ったイ地区に入る

初沢川に沿って浅川地下壕のイ地区に向けて歩く。住宅が途切れた広場に入った。中田さんは言う。「ここはトンネルを掘った岩のズリ置き場で、トロッコの線路もあった」と。東西に小高い山が迫る。谷間に猫の額のような畑を転用したズリ置き場だった。近くにはズリと思われる小岩を寄せ集めてあった。

地下壕から出たズリを一旦置いた現場にはレールを敷き、トロッコで
運んでいた。現在は広場になっている(八王子市初沢町で)

昭和19年9月、浅川地下壕の中で最初に掘ったのがイ地区。そこは個人所有の住宅裏だった。日が差す坑口から壕内を覗くと真っ暗で何も見えない。わずかに冷気が頬に感じる。中に入ると、坑口付近には水溜りがあり、たまり水を避けるために置かれた渡し板が体重の重みでたるむ。露岩が剥き出し、奥に進むにしたがって冷気が強くなる。壕内の気温は年間通して15℃程度とか。

縦横に掘った坑道の連続

イ地区は1万2千㎡。坑道は縦横に掘られ、延長は4.2㎞。掘削量は約3万5千㎥。着工から5ヶ月後の翌年2月に完成した。

断面幅は、1t爆弾に耐えるために土被り約20m以上が必要と想定して坑口付近を高さ幅とも2.4mとした。その奥を高さ3m、幅4mを標準とした。坑道を縦横に掘るために坑道の間隔を20mとしていた。削岩した岩の運搬や排水のために坑内に傾斜を設けた。掘られて80年もそのままであることに肌の荒い岩を見つめるしかなかった。唯一、今日、坑道を利用しているのは東京大学地震研究所だけで地震測定器を設置している。

東大が地震観測している装置も見た

主に削岩車を導入、ダイナマイトも

イ地区には東に9坑、西に6坑あるという。手掘りも一部で併用されたようだが、削岩車を入れての大掛かりだった。遺留物にはダイナマイトが見つかっており、ダイナマイトを岩に埋め込んだ穴もある。

露岩に竹の棒を差し込んでダイナマイトを仕掛けた当時の作業を
模擬体験した
ダイナマイトが発見された付近は鉄骨が組まれていた

削岩工事は、1期に続いて行われた2期工事分のロ地区とハ地区は未完成のままだが、計画では面積2万5千㎡、坑道の延長約6㎞、掘削量は8万3500㎥だった。敗戦までに6割しか進行しなかった。いずれの坑道も当時のまま残っているという。

機械330台、4千人が働いた

完成したイ地区には昭和20年7月に約330台の工作機械が搬入されて、その後、4千人態勢で稼働した。だが、地下壕は湿気による機械の腐食と気温が年間15℃で、工員の多くは体調を崩し、生産性は低かった。完成した飛行機エンジンは10台だったという。

資材などの出し入れに使われたトロッコの枕木跡も坑内に
残っていた(中央)

「早期に着工していたなら…」米軍報告書

地下壕の最大の利点は、生産施設を地下に収容することで戦略的に有効だった一方、トンネル独特の湿気が精密機械や従事者の健康・士気・能率に悪影響を及ぼしていた。ガイドの中田さんから配布された米軍戦略爆撃調査団報告書の末尾に「日本がその地下移管計画をもっと早期に着手していたならば、地下疎開工場は連合軍にとって一層の難題となっていたであろう」と結んでいる。

日本の敗戦によって地下壕にあった浅川工場は昭和20年8月17日に操業を停止。10月24日、米国戦略爆撃調査団が地下壕に入り、機械を持ち出した。その後、完全に封鎖されていた。

暗闇だった地下壕から出ると、春の日差しが目に痛かった。改めて坑口を見つめた。陸軍は国を守る使命があっても八王子空襲で多数が亡くなり、負傷しながら逃げまどった被災者を地下壕に受け入れなかったことを苦々しく思ったのは私だけだろうか。

菊池さん
菊池さん

午前中のメインだった浅川地下壕の見学は、浅川地下壕の保存をすすめる会の中田さんによる分かりやすい説明で、地下壕に入る事前説明の段階から参加者の期待を膨らませていました。いざ地下壕に入壕すると真っ暗。中田さんは慣れたもの。歩きながら足元の注意に心を配り、壕内でのガイドにも参加者は満足のようでした。

壕を掘削ドリルで開け、ダイナマイトを仕掛ける穴が数本残ったままの現場では、竹の棒を用意して穴に差し込まれており、掘削した穴の深さも参加者に試してもらうなど参加型の体験でした。壕に滞在すること2時間近くに及びましが、転倒者もなく無事に終了出来ました。参加者も良い経験が出来たと満足そうでした。

 午後のメイン「武蔵陵墓地」は、皇室専用駅だった東浅川宮廷駅跡から続くケヤキ並木、真っ白な南浅川橋が醸し出す風情は皇室らしいね!という声も聞かれた。陵墓の総門を入ると、荘厳な北山杉の並木が続き、参道の玉砂利にはゴミ一つ落ちておらず管理に感心し、北山杉と玉砂利の道は厳かだね!などの声も聞かれた。初めての方も多く、案内の甲斐がありました。

境内は“恋の世界”だった

午後の最初のポイントで、一転して気分を変えてくれた。多摩めぐりの一行を待っていたのは「恋の世界」だった。JR中央線を越えて甲州街道と町田街道が交わる付近にある熊野神社に立ち寄った。ガイドの菊池さんは、最初に一行をカシとケヤキの根元に誘導した。

若い2人が落ち合ったケヤキ(左)とカシの根元は接合していた(熊野神社で)

熊野神社の創建は定かではないが、遥かな昔、諸国行脚に精を出していた老夫婦が持っていた紀州(和歌山県)熊野本宮大社の御影を当地に祭ったことが始まりと伝わる。応安元年(1368)のころ、片倉城主だった毛利備中守師親が創建したともいわれる。八王子に縁が深い北条氏照が天正元年(1573)に再建するなど200年近くに渡って修復・改築したという記録がある古社だ。

菊池さんが案内した樹木は縁結びの木だった。400年もの前に北条氏照の家臣・篠村左近之助の娘・安寧姫を氏照がかわいがり、宴にはいつもそばにおいていた。宴で上手に笛を吹く狭間(八王子)の郷士の息子を目にとめた氏照は、この若者を宴に呼び、笛の音を楽しんでいた。安寧姫と若者にいつしか恋が芽生え、この木の下で逢瀬を重ねていたという。その後の2人の行方は分からないが、カシとケヤキの根元が一体になった相性の木をいつしか縁結びの木と慕われるようになったとか。

黒塀の旧道、牛車が行く

目の前の甲州街道沿道のイチョウ並木の幼葉が瑞々しい。一行は町田街道入口交差点付近から旧甲州街道へ入った。ここから旧道は東の多摩御陵入口交差点まで約600mだ。原宿町会を結んでいる町内の路面にはレンガ風の埋め込みがあり、真新しい住宅の合間に古風な黒塀や板塀、路肩に地蔵があり、用水が流れるなど趣が高い。ものの本によると、当時の街道は薪や粗朶(そだ)、野菜などを積んだ牛車が八王子へ売りに行った。その牛たちは所かまわずシモの置物を落として行った。片づけられることもなく置物は路上で乾いていたという。その一方、沿道には団子やうどんなどを出して客引きもしていた。いま、閑静な住宅街だが、どこか古風さが漂うゆえに街道の古を思い描いて歩いた。

厳冬、真夜中の霊柩列車

旧甲州街道が現在の甲州街道に合流する先が多摩御陵入口交差点。左に入ると御陵参道に繋がる。われらは、ひとまず右手にルートを取った。八王子市などの駐車場になっている広場に入った。ここには昭和35年(1960)9月10日まで東浅川仮停車場(後の東浅川宮廷駅)があった。仮停車場は大正天皇が崩御されて武蔵陵墓地を造営したことで皇族専用駅として昭和2年(1927)1月25日に竣工した。

東浅川皇室御専用駅
東浅川駅霊柩列車

2月7日に行われた大喪の儀では新宿御苑で喪場殿の儀を終えて、翌8日午前0時15分、新宿御苑仮停車場を出発した霊柩列車は東浅川仮停車場に午前1時35分に到着した。厳冬の真夜中ながら、代表者をはじめ、各種団体や児童らが駅のホームで出迎えた。駅からは天皇の霊柩を牛車に移した。葬列を松明やかがり火が照らす中、参道を多摩陵へと向かった。

大正天皇御大喪儀の様子

皇族の多摩御陵参拝のための駅舎は戦後もしばらく使用されたが、次第に自動車で移動されることが多くなり、昭和35年(1960)9月に廃止された。昭和37年に当時の国鉄(現JR)から八王子市に払い下げられて集会室や図書室などを備えた陵南会館だったが、平成2年(1990)に過激派による放火で焼失した。跡地は、秋の一大イベントに育った「いちょう祭り」事務局や同市関連施設の駐車場になっている。

浅川宮廷駅があった地には、いま陵南会館で駐車場にもなっていた。
手前に中央線が通る(高尾町で)

武蔵陵墓地の建造に3千人

一行は東浅川宮廷駅跡を出て、ケヤキ並木が延びる北西の武蔵陵墓地へ向かった。途中の南浅川橋の荘厳さに加えて多摩御陵参道のケヤキ並木に招かれるように歩いた。甲州街道の喧騒とは裏腹に静かさが際立つ。

どこまでも続くと感じるケヤキ並木の参道(長房町で)

大正天皇崩御の翌昭和2年、南多摩郡横山村、浅川村、元八王子村にまたがる民有地約46万㎡を買い上げて御陵地「武蔵陵墓地」となった。

大喪の儀にともない東浅川仮停車場の設置をはじめ、御陵参道、甲州街道の整備、南浅川橋の架橋などの工事が続けられた。資材運搬には中央線や甲州街道を利用した。工事従事者は3千人にも及び、その住居の確保に困難したという。

甲州街道の追分交差点付近から高尾駅前まで間に763本のイチョウが植えられたのもこの時だ。昭和54年(1979)秋に始まった「いちょう祭り」は、いまに継がれている。

アーチ式の厳かな南浅川橋

東浅川宮廷駅から北西の南浅川橋は、御陵に至る参道として建設されたものだ。昭和11年(1936)大正天皇10年式年祭に東京府が木橋(87.3m)を鉄筋コンクリートアーチ式(53.3m)に架け替えた。同時に幅員もほぼ3倍の21.4mに広げた。新橋は「厳かな形式と周囲の自然との調和を図ったデザイン」にしたという。

大正天皇崩御の折に架け替えて88年。
昭和天皇崩御(昭和64=1989年)で
武蔵野陵造営に合わせて南浅川橋も洗浄、補修などをした

南浅川橋を渡ると、さらにケヤキ並木が続く。東浅川宮廷駅から御陵総門までの参道に植えられた160本のケヤキは、どれも幹の太さは数十センチに育っている。それだけに参道は奥行きとともに、広がりも演出した格好だ。

玉石が鳴り、北山杉の並木

武蔵陵墓地の総門を入った。前方の光景が変わった。この日午前にみころも霊園から北に横たわるようにあった“緑の丘陵”は、ここだったかと実感した。その木々は、周囲の雑木に比べて、すっくと立ちあがり、背丈が高い。枝ぶりも張っている。参道沿いに陵墓まで約400mに渡って150本も植えた北山杉だった。足元で玉砂利のこすれる音が身を引き締めるようだ。

400m区間に150本を植えた北山杉の並木

丸い4基の陵、石の乱積み

参道の行き着いた先に浮かぶように鎮座している上円下方の形状をした大正天皇の多摩陵(たまのみささぎ)だ。上円部は直径15m、高さ10.61m。下方の一辺は27mあるという。石積みの清楚さが際立つ。一行の誰もが声をひそめているのか、会話がないのか。ここでの空気感をどのように伝えればよいのか……。

武蔵陵墓地案内図

大正天皇が崩御されたことで関東に初めて陵墓を置くことになったのが武蔵陵墓だった。大正天皇に別れを告げる人々は90万人にも及んだという。当初、大喪の儀以来、3月14日までとしていたのを葬列がやまず、4月4日まで延期されたほどだった。

一行の誰もがおもむろに次の陵へと足を運ぶ。陵墓に向かって右手へ順次に進む。今度は、多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)という貞明皇后の陵だ。多摩陵よりも4mほど小ぶりだが、清楚さが引き立つ様に変わりはない。

さらに武蔵野陵へと向かった。昭和天皇の陵だ。上円部が大正天皇陵に比べて11㎝小さく10.5m。下方部の一辺は変わらない。4つ目が武蔵野東陵で香淳皇后の御霊が入っている。武蔵野東陵の規模は多摩東陵と同じだ。

いずれも形態は上円下方で、上円部は玉石葺き。下方部は石の乱積みで丸さを強調した形態だからか、穏やかな線に身がほぐされるように感じた。

武蔵陵墓地の総門で集合して…

参拝者移送の目的で鉄路計画

参道の帰り道に、都営長房住宅へ向かう三差路でガイドの前田さんが一行の足を止めた。実は、昭和20年(1945)1月20日を最後に廃線した京王御陵線多摩御陵前駅があった地点だという。京王御陵線は昭和6年(1931)3月に開業した。京王線北野駅から単線の支線で、多摩御陵前駅までの6.4㎞区間を運行していた。それまでは国鉄が立川駅までしか電化されておらず、多摩御陵へ行くには立川駅で八王子方面への汽車に乗り換えなければならない上に、最寄り駅は浅川駅(現高尾駅)か、八王子駅、あるいは京王線東八王子駅だったことから不便さを解消する目的で新路線を敷いたものだった。

高架で繋いだ多摩御陵線

一方、八王子中心部と御陵参道まで京王電気軌道(現京王電鉄)が運行していたものの、汽車から乗り換えなければならなかったことから京王電気軌道は、東八王子駅から浅川沿いのルートを取り、御陵参拝者を輸送する計画をした。だが、市街地が路線で分断されるという理由で断念した経緯もあったという。

多摩御陵線は、中央線、甲州街道、南浅川を高架で渡るしかなかった。中でも南浅川は御陵に近く、川から急勾配で登らなければならなかったことから左岸側に高さ数メートルの橋脚を建設して運行にこぎつけた。その橋脚は、南浅川沿いを下って横山橋のたもと近くの住宅地にいまも2本残る。

住宅地に忽然と現れた京王御陵線の橋脚跡

戦後、放置されていた京王御陵線の復帰運動が起こり、高尾山麓への乗り入れとめじろ台地区の住宅開発のために旧路線の一部だった北野-山田駅間を生かして昭和42年(1967)北野-高尾山口駅間の京王高尾線が延伸開業した。

前田さん
前田さん

午前は「浅川地下壕の見学」、午後は「武蔵陵墓地を訪ねる」という長い行程になり、参加者の皆さんには負担になったかと心配しました。

浅川地下壕では戦争について改めて考えさせられました。「浅川地下壕の保存をすすめる会」の中田均さんのガイドに感謝します。浅川地下壕が戦争遺跡として残され、多くの人に知ってもらえることを願っています。

武蔵陵墓地を訪ねるのは初めてという方もいて、上円下方の形状をした陵(みささぎ)を見て感嘆の声が上がりました。静寂の中、玉砂利の参道を歩き清々しさを感じながら武蔵陵墓地を案内できたことを嬉しく思いました。

廃線となった国鉄東浅川宮廷駅、京王御陵線多摩御陵前駅と歩きました。見ることができたのは京王御陵線の橋脚だけでしたが、今は形の無い所にも少しでも昔を偲んでもらうことができたら嬉しく思います。

最後に歩いた南浅川の土手に続く八重桜と、川に架かる無数のこいのぼりに癒されました。思いがけないことに出会うといつも嬉しく思います。

参加者の皆さん、お疲れ様でした。

南浅川土手を彩っていた盛りの八重桜の下を歩く一行(長房町で)
南浅川をまたぐように泳いでいたこいのぼり。
桜の花とのマッチに気持ちが高まった(長房町で)

【集合:4 月 21 日(日) 午前 9 時 15 分 JR中央線高尾駅南口/
解散:甲州街道「横山事務所前」バス停、午後3時45分ごろ】