ガイド:永江 幸江さん
多摩都市モノレール甲州街道駅(集合) → 万願寺一里塚 → 土方歳三生家跡 → 新井公園 → とうかん森 → 石田寺(せきでんじ) → 多摩川堤桜並木 → 北川原公園(昼食) → 新井公園 → 向島用水親水路 → 浅川・向島用水取水堰 → 高幡不動尊大日堂 → 殉節両雄之碑・土方歳三像・玉南鉄道碑 → 高幡不動尊山門前(解散)
4月1日、令和5年最初の多摩めぐりを行った。前年11月の「新選組のふるさと日野を訪ねる(日野宿編)」に続く高幡不動編だ。新選組副長だった土方歳三の生家跡があり、日野宿に住む義兄の名主・佐藤彦五郎との結びつきで近藤勇らとも強い絆で結ばれた土方歳三のお膝元だ。この日は、青空が広がり、気温が20度を超した。多摩川に並行する根川べりは、頬を撫でる風に乗った花吹雪が肩に乗り、眼前を塞いだ。川面の流れに乗る花筏も途切れることはなかった。土方歳三が暮らした時代には桜の並木こそなかっただろうが、土方は乱舞する桜の花びらの光景を見ただろうか。そんなことを思い描きながら参加者19人をガイドの永江幸江さんは高幡不動尊までの区間にある新選組に関連する舞台と日野市の特徴的な個所を案内した。
蘇った一里塚にエノキ頂く
集合地だった多摩モノレール甲州街道駅前に降り立つと、そこには「新選組のふるさと日野」と大書きした掲示が目に飛び込んできて、初っ端からわれらをその気にさせてくれた。
江戸時代を象徴する「万願寺一里塚」は、駅から近かった。都内に残る数少ない塚の一つで、天頂にエノキが1本立っているのが目に着く。塚の三方は民家やビルに囲まれ、もう一方の目の前をモノレールが走る。旧甲州道中をひっきりなしに車も往来する。
甲州道中が開かれた慶長年間(1596~1615)に万願寺一里塚が置かれた。日本橋から9里(約36㎞)にあたり、参勤交代の大名や甲州勤番、お茶壷道中の面々、八王子千人同心、甲府定飛脚らが行き交った。冨士講や身延詣での人々も絶えなかった。
代官頭の大久保長安が慶長9年(1604)に1里(約4㎞)ごとに塚を築かせた。その基準は、道を挟んで両側に塚を置き、平面を5間(約9m)四方とし、高さは1丈(約3m)という大きなものだった。昭和43年(1968)に万願寺一里塚の北側の一部が取り壊されたが、平成15年(2003)の発掘調査で塚は、道路に沿ってやや楕円形の直径9m、高さ約3mという基準通りだったことがわかった。塚の崩落を防ぐために道との境に3段の石積みがあった。その上に宝永の火山灰(宝永4=1707年の富士山の噴火)があったことから、塚は、それよりも古いものと確認できた。塚の北側に接する甲州道中にも道普請の痕跡があった。
道中変わっても利用された渡し
江戸時代初期の甲州道中は、青柳(国立市)付近から万願寺の渡しで多摩川を渡り、万願寺一里塚を経て日野宿に入った。その後の貞享元年(1684)に多摩川上流の日野渡船場を通る道筋に変更された後も、万願寺の渡しは、地元の人々の作業用として利用されていた。こうしたことから、この辺りを「塚越」ともいうそうだ。万願寺の渡しは、大正15年(1926)に日野橋が完成したことで日野の渡しとともに役目を終えた。
再開待たれる生家跡の資料館
万願寺一里塚から数百メートル南下した。日野市石田の住宅街に入り込むと、一転してこの地域に用水が流れ、穏やかさが漂っていた。その一画が土方歳三の生家跡だ。平成2年(1990)に建て替えた生家跡の家は瀟洒な2階家。手入れが行き届いた庭を設えていた。
この住居の一部を「土方歳三資料館」として平成6年に旧宅の大黒柱や長者柱を資料館の梁や柱に生かして生家の保存に努めたほか、土方が愛用した刀「和泉守兼定」や鉢がね、鎖帷子(かたびら)など多数の遺品を展示公開してきた。だが、人気の高さから家人の運営に限界を来たし、昨年暮れに一旦閉館して今後の運営を考えるとしている。再会を願う声が高いと聞く。
両親を幼くして亡くした歳三
土方の生家は元々、一行がこれから訪ねる「とうかん森」の東あたりにあったそうだ。弘化3年(1846)6月に発生した多摩川の氾濫で家屋の一部が流された。残った母家などを現在地に移築したいきさつがある。
土方は「大尽」といわれた豪農の土方隼人と恵津の元に天保6年(1835)10人兄弟の末っ子として生まれた。だが、その3ヶ月前に父は他界していた。母も天保11年(1840)土方が6歳の時に亡くなった。長男・為二郎は盲目であったことから家督を継いだのは次男・喜六だった。土方は14歳で江戸に奉公に出て安政4年(1857)まで勤めていたことが近年の調査で分かった。
語り継がれる歳三の指揮ぶり
土方家では宝永年間(1704~1710)から打ち身や骨折に効能があるという「石田散薬」を作っていた。主な原料はタデ科のミゾソバ(牛額草・牛革草=ぎゅうかくそう)で全国に自生していた植物で食用でもあった。日野の石田村辺りでは牛額草と呼んでいた。石田散薬には浅川の川原で土用の丑の日に採取したものを原料にするとされており、石田村の人々が総出で刈り取って天日干しにした。この一連の採取作業に歳三が当たると仕事がはかどったと、その仕切りの見事さが語り継がれている。
保存しておいた牛額草を必要に応じて黒焼きにして、さらに鉄鍋に入れて酒を振りかけて再び乾燥し、粉末にして完成する。石田散薬の販路は、江戸市中をはじめ、現在の埼玉、神奈川県に及んでおり、ざっと400軒以上の顧客を抱えていたという。
「散薬」の製造、250年に幕
牛額草の茎や葉には止血成分があるといわれるが、どの程度の効能があったか、定かではない。昭和23年(1948)の薬事法が改正されて当時の厚生省は、全国で作られていた黒焼きの民間薬の薬効を認めず、約250年に渡って製造された石田散薬は製造が中止された。その50年ほど後に日野市郷土博物館と土方歳三資料館が協力、東京薬科大学の監修で石田散薬の再現を試みた経緯がある。
文武の修業に励む多摩時代
土方は奉公を終えて日野に帰った2年後の安政6年(1859)正式に天然理心流に入門した。翌年には免許皆伝の前段階である「極中位目録」を授けられたことや、各流派の600人を超える門人を記した「武術英名録」に天然理心流門人として記載されていることから、正式入門前に仮入門していたのではないかと推察されている。
文久3年(1863)2月に浪士組として上洛するまでの約5年間、剣術修業や書の練習をする傍ら、彦五郎の使いや村の用事にも応じていた。その間に四代目宗家を継いだ近藤勇とも親交を深める。親戚の老婆に見舞いの手紙を送る一方で歳三が大病を患った際には、皆が心配している。そのような多摩地域での生活ぶりが『小島日記』『橋本日記』『本田覚庵日記』書簡集などから推察できる。「新選組副長、土方歳三」以前の顔を垣間見ることができる。
道場で巡り合って結束固める
代々日野宿問屋であり名主の佐藤彦五郎は、後に新選組となる一党を物心両面で支え続けた。彦五郎の妻ノブは土方歳三の実姉であり、彦五郎とは元々、従弟の関係だ。土方は、彦五郎が自宅で開いた天然理心流道場で近藤勇、沖田総司、井上源三郎らと出会い、新選組の中核メンバーだった。
近藤勇、沖田総司、土方歳三らは文久3年(1863)将軍徳川家茂の上洛に際して警護するために浪士組に参加した。だが、上洛するや江戸帰還を提言する清河八郎と議論の末、試衛館一派と芹沢鴨一派は、京都残留を決める。京都守護職・松平肥後守預かりとなり、新選組の前身である「壬生浪士組」を結成した。土方歳三は副長に就く。
尊王攘夷派を追放して新選組へ
壬生浪士組は、尊王攘夷派を京都から追放した政変「八月十八日の政変」以降、「新選組」を名乗り、政治的な表舞台を近藤が、土方は隊を運営する側に回って、2人で新選組の活動を方向づけた。
新選組は「池田屋事件」で一躍、名を馳せ、「禁門の変」「天王山の戦い」(いずれも元治元=1864年)を戦い抜いた。隊士が増えるに従い、土方は隊の規律を締めるなど副長として組織のさらなる強化を図った。
土方が表舞台に立つのは慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いだ。僚友の井上源三郎を亡くした。この前年12月に狙撃されて療養していた近藤に代わって土方は隊を率いていた。近代装備の薩摩・長州軍を前に完敗し、「もはや刀、槍の時代ではない」と思い知らされた土方は、かつて武士に憧れた思いを打ち砕かれた。江戸に戻り、服装も身軽な洋装、髷を断髪した。
相次ぐ転戦で力量上げたが…
慶応4年3月、新選組を母体とした甲陽鎮撫隊と日野の農兵を中心とする春日隊とともに甲府城へ向かった。勝沼戦争への出陣だった。だが、敗退した。
4月、近藤が処刑されても土方は、大鳥圭介率いる旧幕府陸軍に合流して宇都宮城攻撃に参戦。さらに会津若松へと転戦した。5月には沖田総司の病死の訃報も受けただろう。土方は近代戦争の指揮官として東北各地を転戦して力量を上げていく。
土方歳三の戦いは、さらに続く。明治元年(1868)10月、榎本武揚が率いる旧幕府軍海軍艦隊と蝦夷地で合流、箱館五稜郭を占拠した。その暮れに蝦夷地を平定して仮政権を樹立して土方は、陸軍奉公並になった。土方は全軍の指揮を執り、局地戦で無類の強さを発揮した。翌明治2年5月11日、新政府軍の猛攻を受けて弁天台場を死守しようと立て籠っていた新選組隊士を救出するために馬を急がせていた土方は、馬上で腹部に銃弾を受け、最期となった。35歳だった。それは、同時に戊辰戦争の終わりを告げた。
素早い対応、大きい度量に唸る
生前の土方を知る人々は、それぞれに土方を見ていた。武道に長けた政論家であり、劇作家、衆院議員の福地桜痴は「土方は商人風であり、色も白ければ、撫肩の少し猫背がかっていた。男っぷりがよかった。人との対応にも抜け目がない。気障なところもないではない」。幕府陸軍軍医の松本良順は「予、その措置の敏捷なるに一驚を喫したり」。土佐藩士脱藩後に高杉晋作の弟子となった田中光顕は「土方が役者のような顔で馬に乗り、隊士を連れて目を光らせて巡回していると、とても怖かった」。渋沢栄一も土方の度量の大きさを見ていた。「なかなか相当の人物……」と唸っていたという。
「冤をすすがんと欲せしむのみ」
佐倉藩士の依田学海(がっかい)は、生前に土方が箱館で悠然と語った言葉を『鐔海(たんかい)』で、こう記している。「吾、近藤昌宜(近藤勇)とともに死せざるは、一に故主の冤(ぬれぎぬ)をすすがんと欲せしむのみ、万一赦(ゆるし)に遭いては、何の面目ありて地下における昌宜に見(まみ)えんや」。当時の土方の心境を察するに余りある。
歴史伝える樹齢250年のカヤ
土方歳三の生家跡から東方寄りにある「とうかん森」へは、すぐだった。ここも戸建て住宅に囲まれていた。古くから土方一族は十家会を作り、稲荷社を祀ってきた。寛政11年(1799)の棟札によると、稲荷社の歴史は宝永5年(1708)まで遡るという。「とうかん」と呼ばれる所以は「稲荷(とうか)」または「十家(とうか)」の読みに由来すると伝わる。
いま敷地には人が2~3人で抱えるほどの大木のカヤの木が2本ある。いずれも雌株だ。推定樹齢250年と聞いて再度、カヤを見上げる。かつてはほかに樹高30mを超すカヤが2本、ムクが5本、これらの木にフジが絡みついていた。このフジの太さは大人の胴回りほどもあったという。幼少の歳三は、ここでも遊んでいただろう。
近年、一帯は区画整理されて田んぼが宅地となり、稲荷社は住宅に囲まれてしまった。平成23年(2011)2月16日、社の維持が難しく感じるようになった一族が英断してカヤ2本とムクの幹を一部残して歴史の継承を図ることを決めた。平成31年(2019)2月2日、最後の初午の行事を行い、1週間後の9日にご神体を近くの神社に移す儀式を行ったという。いまは日野市の公園に生まれ変わっている。
延命地蔵を祀る石田寺
われら一行は、南へと向きを変えて真言宗愛宕山地蔵院石田(せきでん)寺の門前に立った。草創は康安元年(1361)だが、一旦、途絶えたものの、天文13年(1544)の洪水で立川普済寺の近くから十一面観音が漂着したのを取り上げて堂に安置していた。その半世紀後の文禄2年(1593)に僧慶心が中心になり、石田寺を建立した。本尊を延命地蔵尊としている。安政4年(1857)の村名帳には観音堂領として朱印7石を拝領して高幡山金剛寺(高幡不動)の末寺となった。
献花絶えない土方の墓前
山門を入ると、身震いするほどのカヤの大木に圧倒された。目通り4.5m、樹高26m。樹齢400年以上とも600年ともいわれる。この奥が墓地で、土方歳三一族の墓石と歳三顕彰碑がある。史上に残る新選組隊士の波乱万丈の生涯を改めて振り返った。命日の5月11日をはじめ、年間を通して献花が絶えないという。顕彰碑は、歳三の兄である喜六の曾孫・土方康氏が昭和43年(1968)に明治100年を記念して建立した。
村の中心に庚申塔、高札場
石田村の中心地だった石田寺。寺の近くのT字路には江戸時代に高札場が設けられていた。天明8年(1788)にあったといわれる庚申供養塔も再建されていた。道路沿いや民家の敷地を這う用水にも石田村の原型を見る思いがした。いまも市内全域で120㎞にも及ぶ用水路があるという。
かつては、一面に田んぼが広がっていたという石田村。コース途中で永江さんが掲げた昭和49年(1974)に撮影された周囲の写真を見ると、水田が広がっていた。いまは宅地で埋まっている。
生活関連の巨大施設並ぶ
中でも土方歳三の生家があったといわれる浅川と多摩川、さらに根川の3河川の合流地付近は、大きく様変わりした。日野市クリーンセンター、東京都動物愛護相談センター、浅川水再生センター、都立日野高校と巨大施設が連続してあり、クリーンセンターに出入りするごみ収集車などが引っ切りなしに走っている。われらの暮らしに欠かせない施設とはいえ……自分の生活を顧みてしまった。
桜並木と花吹雪に歓声
広々とした浅川。時間がゆっくり流れているようだった。ウグイスが本調子で歌って、土手にはナノハナの黄色が映えて……心地よい気温に加えて、空の青さが身体を解放させてくれた。根川を渡り、多摩川右岸の土手に立った。歓声が上がった。桜の花々が数百メートルにわたって列を成す。桜のベルトの終わりが見えない。その下を歩き続けた。根川の水面にしな垂れる桜の枝の花房も見事だ。昼食を採った北川原公園の足元にはスミレ、タンポポ、ヒメオドリコソウといった身近な野草が咲き誇っていた。
名実ともに“春の小川”の親水路
そんな春気分をさらに盛り上げてくれたのは“水辺のふるさと日野”を象徴する向島用水親水路だった。この用水は、高幡の浅川右岸から取水して東の新井、石田、三沢、百草(もぐさ)、落川地区を網の目のように巡って程久保川に注ぐ全長約7㎞。元は、根川と呼ばれた浅川の旧流路で、流域の水田を灌漑していた。
平成7年(1995)までの3年間でコンクリート護岸を取りやめ、自然傾斜に改めるなど改修した親水路は、新井団地から市立潤徳小学校を経て向島緑地まで数百メートルに渡っている。清流に目を止め、緩い流れに身を任せる水草にも春の小川の風情を感じた。「ほほえみ橋」などの欄干は、高さを一般のものより50㎝以上低くして60㎝に抑え、人にやさしく造ってあった。生き物に配慮して夜間照明もフットライトだ。沿道脇の畑のナノハナの黄色が濃く、流路沿いの木々が芽吹いていた。
環境学習の基地「水車小屋」
「ほほえみ橋」のたもとにあったのは水車小屋。親水路整備の時に設置した。直径3.5m、幅0.5mの胸掛け式の水車だ。小屋の中では水輪の回転と連動した杵が1分間に37回上下運動し、精米用臼2基があり、玄米10㎏を2時間ほどで精米できる。平成23年(2011)7月には市民が「日野の水車活用プロジェクト」を立ち上げて環境学習の担い手になっている。日野には昭和初めまで50基以上の水車があったという。
潤徳小学校の校庭につながる部分では水生動物やトンボなどが生息できるようにビオトープを設けている。水深30㎝ほどで水遊びができ、環境学習の場になっている。
川底下がって砂利積みの取水堰に
親水路を歩いたら、50mほど先の取水口を見ないわけにはいかない。浅川の土手で花見を楽しむ人々をよそにわれら一行は、鋼鉄で組まれた取水門と堰を見続けた。毎秒0.5t取水できる。冬場は取水量を減らし、4月ごろからの灌漑期には水量を増やす。用水路の維持管理は、日野市と地元の用水組合員で構成している「用水守(ようすいもり)」が当たっている。大雨や台風の時には水門を閉めるが、本流の流量と導流堤の塩梅を見ながら取水量を調整している。
堰の造りは一般的にコンクリートだが、ここでは別の手法で造られている。砂利積みだ。コンクリートで造ると、増水の時に上流の水位が上がるのを避けている。砂利積みの導流堤なら増水で砂利が流されて川底が上がることがなく増水の危険が回避できるということだ。以前は導流堤がなくても本流に水位があったから取水できたが、いまは上流から下ってくる砂利の量が少ない上に、川床が下がったことから導流堤を築堤した。
平安時代創建の高幡不動尊
いよいよ、向かうは高幡不動尊だ。京王線高幡不動駅のショッピング街をやり過ごし、高幡不動尊参道の商店街を歩くと、参道の正面に真言宗智山派別格本山の威風を放つように仁王門が建っている。室町時代に建立された国重要文化財だ。高幡不動尊は高幡山明王院金剛寺が正式名で、国の重要文化財が数多い。創建は平安時代初期。慈覚大師円仁が清和天皇の勅願で不動堂を建立して不動明王を安置したのが始まりだ。足利時代には「汗かき不動」として戦国武将の尊崇を集め、江戸時代には関東十一壇林・火防の不動尊として広く信仰を集めた。
地元の牽引者名を刻む瑞牆
山門前で一行の足を止めたガイドの永江さんは、まず「瑞牆(みずがき)」について話し出した。明治42年(1909)ごろに改修された瑞牆は、地元の人々の寄付によるところが大きかった。瑞牆には改修に貢献した人々の名が刻まれている。中でも参道両脇の瑞牆には明治の多摩地域を牽引した人物の名が刻まれていた。
1人は森久保作蔵。森久保は自由民権運動に身を注ぎ、衆院議員を5期務めた。実業界では鬼怒川水力電気、玉南鉄道(京王電鉄の前身)相談役、八王子倉庫銀行取締役、殖産銀行取締役などを務めた。
もう一方の有山彦吉は南多摩郡長だった佐藤(彦五郎改め)俊正の四男で日野銀行や日野製氷所の設立者、多摩川砂利会社発起人の一人で神奈川県議や日野町長を務めた。こうしたお歴々をはじめ、その支持者らが高幡不動尊を崇めてきたことが読み取れる。
大風が仁王門を不動堂と7度傾かせた?
高幡不動尊には謎があるといわれる。旧小野みち(現川崎街道)に沿って建つ仁王門と不動堂の向きには、7度のぶれがある。なぜだろう。建武2年(1335)8月4日の大風で山中にあった不動堂が倒壊した。この倒壊で不動明王像も落下し破損した。その際に不動堂は、現在の位置に移築されたが、門前で小野みちから分かれる別旅みち(現参道)に正面するように再建したからだという。
身が改まるような鳴り龍の妙音
一行は、数多くの尊像を安置した総本堂の大日堂に入った。昭和62年(1987)に全面改修した折に寛政9年(1797)に建造された本堂の基礎構造の一部を生かした造りで重々しい雰囲気が漂っていた。
江戸時代の彫刻群や後藤純男画伯の襖絵などが空気感を高めていた。中でも大日堂外陣は直射日光が入らず、暗さが目に付く清閑な間で、この天井に中村岳蓮画伯の手になる墨絵の「鳴り龍」天井に身が引き締まった。絵は縦540㎝、横720㎝。墨絵は裸龍で、龍の中央真下で手を打った。『ジ、ジ、ジ~』『ビ、ビ、ビ…』というどちらともつかない音に聞き間違いかとも思う音が頭頂で響いた。身が改まったかのようだ。この音を高幡不動尊では「妙音」といい、願い事が叶うといわれる鳴り龍(成り龍)と言っている。
隊士の位牌を前にして……
清浄な面持ちで廊下を進んだ先にあったのは檀家である土方家の土方歳三、近藤勇をはじめとする新選組隊士の位牌だった。激動、動乱、混迷、苦渋、恐怖……どんな言葉を紡いでも隊士が創造した世に向かってやり遂げようとした行動への緊張感は、どれほどのものだったか、余りあることにただ頭を下げるのみだった。
苦渋の顛末1600文字で綴る
そうした行動と苦節をつまびらかにしているのは境内入り口に立つ「殉節両雄之碑」だ。高さ3m、幅1mの一枚石に1600文字で綴った碑は、原文を小島為政が、撰文を元仙台藩士の儒者・大槻磐渓が、さらに揮毫したのが元幕府医師・松本良順、篆額は元会津藩主・松平容保によるものだ。
碑は言う。多摩川の清流を受けて生まれ出てから天然理心流を携えて上洛して京の平定に力を注いでもなお追われる身となった新選組の苦渋と最期を刻む。新選組は当時、賊軍扱いされていて明治9年(1876)に碑が出来ても建立は許されず、設置が完了したのは明治21年だった。
殉節両雄の碑の左隣には平成7年(1995)秋、結成30周年を記念して日野ロータリークラブが建立した土方歳三の立像がある。容姿端麗、涼しい顔の堂々たる出陣の武士構えに、なぜか、救われる思いがした。
土方の近代的なセンスに光当てる
新政府に歯向かう乱暴狼藉者の賊軍と多くの人から見られていた新選組。地元日野でも声を潜める時代が長かったが、作家・司馬遼太郎が、代表作の一つになった「燃えよ剣」を昭和37年(1962)に発表してから多くの人の新選組の見方が変わった。司馬遼太郎は、機能的な新選組の運営に近代的なセンスを持った土方歳三に焦点を当てて生涯を描いたことで読者の心をつかんだ。日野の地元をはじめ、報われた人々のなんと多いことかと改めて感じる。
「新選組まつり」が開催されるのもその表れだろう。例年、土方歳三の命日に近い日に行われる。今年は26回目で、新選組結成160周年に当たる。開催日は5月13日(高幡不動境内)と14日(JR中央線日野駅に近い旧日野宿・甲州街道)。新型コロナウィルス蔓延による中止で4年ぶりの開催で多くの人出でにぎわうだろう。
今回は、昨年の11月の「日野宿編」に続く「高幡不動編」として、土方歳三にまつわる場所を巡ることをテーマとしました。前回に引き続き、見学場所以外に「新選組のふるさと」について「どこで、何を」ご案内するかという難しさを感じました。長い間不明であった歳三の青春時代が、近年明らかになりました。そんな歳三の多摩時代に焦点をあて、前回同様ドラマなどでは、あまり取り上げられない事柄を中心にご紹介しました。
多摩川堤桜並木や向島用水親水路など、季節を感じながらのウォーキングを楽しむ行程が半分を占めていたので、何よりも晴天に恵まれたことがありがたかったです。気持ちのよいひと時を楽しんでいただけたら嬉しいです。
【集合:4月1日(土) 午前9 時30分 多摩都市モノレール甲州街道駅/
解散:高幡不動尊山門前 午後3時】