「第49回多摩めぐり 晩秋の奈良ばい谷戸を散策し、小野路宿の歴史を辿る」を11月24日(日)に開催します

第20回多摩めぐり 五日市憲法草案~
幻の民衆憲法が紡がれた深沢の里を訪ねる

里山風情があふれる道端で説明を聞く一行

ガイド:味藤 圭司さん
主なコース
JR五日市線武蔵五日市駅 穴澤天神社 紫陽花橋 深沢家土蔵 真光院 深沢小さな美術館 山抱きの大樫 JR武蔵五日市駅

11月14日、20回目の多摩めぐりの舞台は、あきる野市深沢だった。明治時代初めに現在の日本国憲法を先取りする国民の基本的人権を保障し、国民すべてが平等であり、教育を受ける権利などをうたった私擬「日本帝国憲法」が編まれた里だ。起草されて87年目の昭和43年(1968)に深沢家の土蔵から発見されて「五日市憲法草案」と命名された。

元々進取の気性が見られる同市五日市にあって、さらに山深い深沢の地で起草された風土や、明治維新後に各地で沸き起こった自由民権運動で五日市や、ここ深沢で連夜に渡って人々が熱い論議を戦わせたであろうと想像した。参加者23人は、その聡明さに圧倒された。また、この集落に入る道の辻や民家の庭先に立つ木製の三角帽を被った人形の道標に案内されて訪ねた‟人形の館”にも夢を感じた秋の一日。締めくくったのは大岩を抱えるように根を張り、枝を広げたウラジロガシの木だった。

「深沢小さな美術館」のシンボルといえる
妖精ZiZiが招く

一揆の農民と農兵隊衝突現場

この日は、気温20度を超す陽気の中、JR武蔵五日市駅から北西の深沢地域へ向かった。駅北側の坂また坂を登り、集落が途切れたあたりに出た。山間の中で東が開けて眺望が効いた小倉台地で一行は止まった。眼下に三内川があるはずだが、川面はおろか、川筋さえ見えない。急斜面だからだ。
五日市憲法が起草される15年前のことだ。何度目かのペリー来航で海防問題が沸騰し、治安が悪化、物価高騰などで慶応2年(1866)秩父郡名栗村(埼玉県)の農民たちが決起した武州一揆の部隊は青梅、大久野(日の出町)を通り、6月17日未明、小机(あきる野市)から三内川を渡り、五日市中心地へ侵入を図った。その攻防ラインが眼下の三内川沿いにある「まいまい坂」だ。
鉄砲と竹やりで応戦した代官の江川太郎左衛門領内の農兵隊900人余りに追いやられた一揆勢は死者2人、負傷者21人、捕縛された農民は21人に上り、一揆勢の五日市侵入が阻まれて2時間の攻防戦は幕を下ろしたという歴史的な事件現場だった。
こうした農民らの不平不満は、後の自由民権運動の芽の一つになったのかもしれない。
道は、さらに西へ、北へと蛇行した。集落が途切れた。時には四方を閉ざした山が頭上高く覆う。西の金比羅山(468m)から延びるいくつもの尾根の裾を這い、右手に深く切れ落ちた三内川は、相変わらず顔を見せない。野鳥のさえずりと、水音だけがこだまする。山斜面には常緑樹に混ざったイチョウが艶やかに光り輝いている。散歩日和だ。
『この光景は、200年前と同じなんだろうな』とひとり呟いた。変わったといえば、道路が拡幅されて、電気が通って沿道に電柱が立ったぐらいか。足元のノアザミが濃い紫を、イヌタデも朝日を浴びて葉を輝かせている。

一揆勢と衝突した現場を俯瞰する高台の小倉台地を行く

山深い深沢村が育んだ開明精神

神社が見えてきた。穴澤天神社だ。境内には江戸時代中期の享保6年(1721)の庚申塔が立つ。静けさが漂っている。深沢の鎮守さまで、深沢集落の入口だ。ここから先へ邪気を入れないという構えか。
五日市は、江戸時代に入って江戸市中に近い立地であったことが功を奏し、5と10の日に周辺の村々から出荷された炭などが取り引きされる市が立ちにぎわった。木炭は鍛冶用に使われていた中世と違って、江戸時代は上流階級の燃料や暖房用に広まり、需要が高かった。山村の住民らは木炭で得た収入で食糧を調達した。

貧村ながら道祖神や句碑を納めて深沢村民の結束も願った穴澤天神社

主流の多摩川に注ぐ秋川と山林を抱える五日市は、木材搬出が多く、江戸へ筏を組んで送り込んだ。多摩川谷の木材と合わせて五日市の材も青梅材として重宝された。泥染めの絹織物「黒八丈」も高額で取り引きされた。こうした繁栄は、秋川流域の経済的地位を確立し、広大な山林を所有する富農も生んだ。
深沢村の名主は深沢家だ。村は、江戸時代前期まで貧村だった。貞享2年(1685)の文書によると、山畑にクワを植えて蚕を飼い、雑木を伐って炭を焼く生業だった。燃料や肥料を自給していた。江戸中期以降、育成林業の始まりと同時に深沢家も山林を集積し、家産を増やした。
穴澤天神社は、五日市憲法草案が発見された深沢家にゆかりが深い神社でもある。清水茂平が神官を務めた(清水家は明治元年=1868年に深沢姓に改名)。庚申塔と並んでいる道祖神に刻んである「左衛門監(さえもんのすけ)源茂平」は清水茂平を指す。茂平は、俳句にも傾倒して俳号を「社孝」といい、芭蕉句碑を献納したほか、国学にも通じており、広い人脈があった。
そうした茂平の見識の高さは子息名生(なおまる)や孫・権八に影響を与え、名生の元で書物に勤しんで後に憲法草案を編む仙台藩下級藩士の千葉卓三郎と権八の出会いを生み、憲法草案を編み出す下地になったことだろう。神社では、そんな人間関係も思い起こさせた。

討論・研究の学芸懇談会、そして憲法草案へ

穴澤天神社から20分も歩いただろうか。道路が細くなり、深沢集落に入った。ますます山がせり出してきた。集落の中ほどの石灰岩らしい岩の切通しを過ぎると、間もなくして深沢家の土蔵に着いた。趣きがある黒塀に囲まれていた。
深沢家は、昭和に入って五日市町中心地に転出したが、平成6年(1994)に改修された土蔵と墓所が残る。屋敷跡地は、江戸時代後期の名主屋敷の旧態が見られることから東京都指定史跡になっている。白壁は清楚で威厳が漂う。
明治維新になって深沢家を継いだ名生は、深沢村20戸ほどの戸長(村長)に選ばれ、息子の権八は、明治7年(1874)、13歳で村の代議人に、2年後、村用掛(村長に相当)に就いた。開明的であり、知的好奇心の旺盛さと立場をわきまえて蔵書に埋もれる父譲りの権八だった。

深沢権八

千葉卓三郎

そんな深沢親子と千葉卓三郎の縁は、明治政府が推し進めた公立学校設立だった。五日市に5学舎ができた中の一つ勧能学舎(明治6年設立)の教官として招いたのが仙台藩下級藩士の卓三郎だった。さらに明治13年3月、機運高まる自由民権運動の目的である選挙による国会開設を目指す熱気が五日市にも渦巻いており、深沢親子や卓三郎らが中心になって3町14ヶ村から40人ほどが集まり、学習会、討論会、研究会を重ねて、同年4月、学芸懇談会を誕生させた。
そうした経緯から卓三郎が編み出したのが五日市憲法草案だった。だが、国会期成同盟の動きよりも前に政府が国会開設の詔勅を出したことから明治14年10月、国会期成同盟の大会は自由党結成大会に切り替わり、各地代表が用意していた憲法草案を審議しなかった。五日市憲法草案は幻の草案になった。

中学生の教科書に取り上げられ
五日市町には憲法草案の碑も立つ

蔵にあった史料を庭に広げて
1点ずつ検分した学生たち

“開かずの扉”に光射す

昭和43年(1968)8月27日、暑い日だった。東京経済大学の色川大吉教授のゼミ生が明治100年に当たった年を機会に深沢家に懇願の末、土蔵を調査することができた。長年、開かずの扉だった。1階には什器が詰まっていた。2階はタンス、行李、長持ちの中に数千点に及ぶ文書類がびっしりと詰まっていた。近世・近代の諸文書の中に「日本帝国憲法」(原題。いまいう五日市憲法草案)、起草者は「陸陽仙台 千葉卓三郎」と記した文書に行き当たった。

参加者たちが見つめた土蔵に憲法草案が長らく埋もれていた

最初に手にした当時4年生だった新井勝紘さん(五日市憲法研究者・高麗博物館長)は、大日本帝国憲法の写しだと思った程度だった。色川教授とゼミ仲間で調査し分析した結果、大日本帝国憲法と違う。明治10年代に政府機関とは別に在野で作り上げた全国40件ほどの私擬憲法とも一致しない。未発見の憲法草案だと判明した。

国民中心に据えた人権擁護と平等

五日市憲法草案は、5篇(章)204条からなり、大日本帝国憲法(全76条)、いまの日本国憲法(全103条)よりも多い条項で構成している。中でも注目されるのは「人権擁護」を謳っていることだ。大日本帝国憲法になく、戦後制定された日本国憲法でようやく記述された条項だ。基本的人権の保護、すべての国民は平等であること、子供には最低限小学校の教育を受けさせること、自治権は国会といえども侵すことはできない、など今日の憲法を幅広い分野で先取りしていた。先駆的な憲法草案に多摩めぐり参加者一行は、卓三郎の遺産の大きさ、重さだけでなく、関わった人々の願いの尊さに感じ入るばかりだった。

崇高な憲法草案が眠り続けた土蔵がある深沢家跡の敷地で参加者全員集合

温もりと艶漂う細身の人形たち

われら一行をメルヘンの世界に招いてくれたのは「深沢小さな美術館」だった。途中の道路わきや民家の庭先、木陰にあった木彫りの小人「ZiZi」も美術館入口で出迎えてくれた。人形作家・友永詔三(あきみつ)さんが平成14年(2002)に設立した美術館だ。古民家を改修し続けて、いまもって完成ではないという。昭和54年(1979)から3年間、NHKテレビ人気番組の人形劇「プリンプリン物語」656話のパペット500体の人形美術を担当、その人形たちも展示している。妖精のような少女、幻想的な動物たちが見る者を夢心地にさせてくれた。

幻想的なパペットたちが入館者を出迎える

友永さんの手になる人形たちは、どれも手足が長く、しなやかさを際立たせている。そぎ落とした細身を強調しながらもぬくもりと艶をたたえている。友永さんが手がける世界は木彫りにとどまらず、木版画、ブロンズなどジャンルが広い。

卑弥呼も幻想の世界に引き込んでしまう

舞い飛ぶ姿も軽い

デザイン学校を卒業後、舞台美術の世界に飛び込んだ。23歳でオーストラリアの人形劇団のオーディションに合格し、現地で人形製作に没頭した。

「日本では技術にお金を払うが、外国ではアイディアにお金を出す」と多摩めぐり参加者に語り掛けた。以来、人のまねでない、枠にはまらない自由な作風を重んじている。「作品の色使いも、形も、自然からヒントをもらっている」とにこやかに言葉を重ねた。

参加者に語りかける友永さん

深沢に住んで37年。山に抱かれ、清流がある風景が故郷高知県四万十に似ていたことが、いまも変わらず気に入っている。美術館前の庭に清流を引き込んで季節の花を植え、水の生き物たちとともに暮らしている。
友永さんは、12月9―15日、日本橋高島屋本館6階美術画廊で、清澄なエロスをたたえた木彫の「聖少女」シリーズなど約30点で構成する作品展を開く。

山を抱きかかえるウラジロガシ

木の妖精がいると思いたくなったのは、美術館庭から見上げた森に根を張った「山抱きの大樫」だ。幹回り約6.5m。都内最大で、あきる野市天然記念物に指定されている、樹齢300年以上と推定されているウラジロガシだ。一つの根から育った幹が3本も4本も。それぞれの幹から生え出た枝は、どれもうねりというか、ねじりを繰り返したよじれに力強さがみなぎっているように感じた。

岩を抱き、「生」を見せつける強さを醸し出している「山抱きの大樫」

根本が、また圧巻。多摩地域西部の特徴である秩父古生層に属する石灰岩が露出している。約2億年前から1億5千年前の中生代ジュラ紀の地層に見られる岩だという。この岩を何本もの根で抱え込んでいる様は、まるで眼下に見える深沢の集落に岩を落とさない姿に見て取った。この木の下に集った一行の姿は、まるでミニチュア人形だった。

山を抱えるウラジロガシの下に集う参加者たち

巨樹といいたくなるこの木を集落の誰もが知っている。材は堅く、建材や家具材に広く使われる。葉を乾燥させてお茶にしたり、エキスを医薬に生かしたりできる。一時代は筏を組んで木材を江戸市中へ送り込むために伐採を繰り返した土地柄だったことを思えば、よくぞ生き残った、手を付けなかった地元の人々の思いに心を寄せた。

ガイド:味藤さん

「五日市深沢」と聞いて、その場所がわかる人はまずいないと思います。五日市からさらに川沿いに山中へと入って行くと、深沢の集落に至るのですが、そのような辺境の地において、現在の「日本国憲法」を先取りする内容の「五日市憲法草案」が議論されていたことを知ると、住む場所、立場に関係なく、明治という新しい時代を作り上げようとした先人の熱い思いと深い考えに感動せざるを得ません。
今回は、秋が深まりつつある深沢の自然の中で、この五日市憲法草案の内容、歴史的な位置づけ、そして発見にいたるストーリーと盛りだくさんのお話をさせていただきました。参加されたある方から「五日市を見直した」という感想をいただき、企画担当者としては、何よりのねぎらいの言葉として受け取りました。

深沢最奥の深沢家屋敷跡から望むと、幾重にも山々が重なっていた

【集合:11月14日(土)午前9時30分 JR五日市線武蔵五日市駅/解散:武蔵五日市駅 午後3時頃ごろ】