さいしょに
今回は畠山重忠(はたけやま しげただ)の父であり畠山氏の祖である畠山重能(しげよし)が大成功を収める大蔵合戦までを調べてみよう。この後、平治の乱で仲の良かった源義朝が敗死すると畠山重能は平家に従って20年に渡り平氏の家人として苦汁をなめていたらしいのですが、その話は次回で…
1.秩父畠山氏
畠山氏は、桓武平氏高望王(たかもちおう)の子・平良文(たいらの よしふみ)の子孫で秩父平氏の一族、武蔵国男衾郡の畠山(・菅谷)を本拠とする在地領主でした。畠山重忠の父・重能のころは後述するように他の東国武士と同様、畠山氏も源氏と仲が良かったようです。
ちなみに高望王の子・良持(よしまさ)の子が平将門(たいらの まさかど)で、高望王の子・国香(くにか)の子・貞盛(さだもり・将門の乱で功績をあげた)系統から平清盛(たいらのきよもり)を輩出する伊勢平氏が出ることになります。
2.秩父重綱
11世紀末から12世紀前半、平良文の5代のちの秩父重綱(ちちぶ しげつな)は武蔵国内の武士と連携し、武蔵国衙の有力在庁(武蔵留守居所総検校・武蔵惣追捕使と考えられる)として、武蔵北西部の霊場慈光寺とも連携し、河内源氏に臣従するかたわら、関東の有力国衙在庁の大田氏や千葉氏とも婚姻関係を結び、「秩父」は滝口(天皇の護衛役)の家柄にもなります。いわば、武蔵国衙、中央軍事貴族としての河内源氏、中央政界、武蔵の地域社会にネットワークを持つ有力武士の地位の土台を築きました。
3.大蔵合戦
ところが秩父重綱の死後、秩父平氏家督争いと河内源氏の内紛が絡んで争いが起きます。
- 畠山重能(畠山流)の争いvs秩父重隆(河越流・家督)
- 南関東の勢力圏とする源義平vs信濃・上野から北武蔵に入った源義賢
この2つの争いで双方が手を組んで、
- 畠山重能・源義平・平児玉氏(秩父氏)vs秩父重隆・源義賢
ついに源義平が源義賢・秩父重隆を殺害して1155年に大蔵合戦(おおくらかっせん)が起きます。結局この合戦は畠山重能側が勝利しました。
4.畠山重能が大蔵合戦で得たもの
畠山重能が大蔵合戦で得たものは大きかったです。
(1)秩父平氏嫡流の族長(平姓秩父氏の家督)を継承
- 武蔵国最有力在庁(推定)
- 秩父平氏嫡流(平姓秩父氏)の本拠地・大蔵地域の確保
(2)摂関家領武蔵国稲毛荘の成立(1156年前後)に関与
- →「畠山庄司重能」という通称
- しかし「畠山荘」という荘園の存在を示す資料の不在
「男衾郡畠山郷」であった可能性も
畠山重能の子・重忠の弟に「下口(渋口)六郎宗」→渋口郷は稲毛荘内の地名
しかし「畠山荘」という荘園の存在を示す資料の不在で所説あります
- 「男衾郡畠山郷」であった可能性も
- 畠山重能の子・重忠の弟に「下口(渋口)六郎宗」
→渋口郷は稲毛荘内の地名
5.大蔵合戦後の畠山重能は
- 摂関家・武蔵国司藤原信頼(ふじわらの のぶより)・源義朝(みなもとの よしとも)父子と連携した荘園形成
- 1155から1156年ころの畠山重能は、河内源氏と結びついた武蔵国最有力の武士
家系図を書こうとしたがなかな大変で作成次第アップしますね。m(__)m。