一ノ宮から六ノ宮へ  武蔵国大國魂神社六所宮

これまで、一宮・三宮、総社についてまとめ不十分なまま、このブログに書き連ねてきた。総社は、特定地域内の神社の祭神を集めて合祀した神社のことである。総社宮、総神社、総社神社などとも呼ばれることがある。日本の律令制制定後においては、国史の着任後の最初の仕事は赴任した国内の定められた神社を順に巡って参拝することであったが、平安時代になって国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度化された。多くは令制国の範囲で集めたものを指すが、荘園や郡・郷・村などの地域内のものを集めたものもある。祭神の合祀だけでなく、神社そのものの統合である場合もある。
総社の多くは中世にいったん廃れたが、後に再興されたものも多い。ただし今に至るまで再興されずにいるものや、どの神社が総社だったのかわからなくなってしまった国もある。

また、国の総社のように全国一律に同時期に設けられたものではなく、設けられた理由や時期、主導した人物等は地域によって様々である。規模も大小様々なものが存在している。

では、武蔵国の総社と六所宮を順に訪ねてみよう。

 

大國魂神社    …東京都府中市

  

 

 

 

左 本殿                                             大鳥居

当社は府中市中心部に鎮座し、「府中」の市名はかつて武蔵国の国府があったことに由来する。当社の境内地がかつての武蔵国の国府跡にあたり、境内地と市道を挟んで東側の市有地は「武蔵国府(武蔵国衙跡地区)」として国の史跡に指定されている。東側市有地は「武蔵国衙跡地区」として整備されており、柱跡が表示されて展示室が設けられている。また、当社は府中宿の中心部近くにあり、大鳥居から武蔵国分寺や武蔵国分尼寺までの道が整備されていた。府中本町駅近くの市街地中心部に位置するにもかかわらず木々に囲まれており、参道の馬場大門のケヤキ並木は国の天然記念物に指定されている。

当社の創建は景行天皇41年(西暦111年)5月5日と伝えられており、大化改新の際に現在の場所に国府を置いたという。境内は多くの社殿からなるほか、重要文化財の木造狛犬を初めとした文化財を多数伝えている。
例大祭は、都指定無形文化財に指定されている「くらやみ祭」であり、関東三大奇祭の一つに数えられている。

 

 

           

拝殿                                                                                 くらやみ祭                                                                                                      

主祭神は、大國魂大神で、六所宮として一宮~六宮それぞれの主祭神と国内諸神を祀っている。本殿には中央に大國魂大神 御霊大神 国内諸神、東殿(向かって左)に一ノ宮 小野大神、二ノ宮 小河大神、 三ノ宮 氷川大神、西殿(向かって右)四ノ宮 秩父大神、五ノ宮 金鑚大神、六ノ宮 杉山大神が祭られている。現在の本殿は四代将軍徳川家綱の命により久世広之が奉行となり寛文7年に完成したものである。その後慶応3年と昭和40年に修理を行っているが、建立当時のままの形を残している。室町時代末期の神社建築と三殿一棟の特異な構造形式は例が少なく珍しい。

一宮=小野神社     …東京都多摩市

小野神社(おのじんじゃ)は、東京都多摩市にある神社。式内社論社、武蔵一宮を称す。旧社格は郷社。 京王線:聖蹟桜ケ丘から北西に徒歩6分の近距離にある。

本殿                             拝殿

『延喜式神名帳』に記載されている式内社「武蔵多磨郡 小野神社」の論社の1つ。論社には他に府中市の小野神社がある。多摩川の氾濫にともない遷座を繰り返した結果2社になったとも、どちらかが本社でもう一方は分祀であるともいわれる。「小野社」の名が初めて見られる史料として宝亀3年(772年)に作成された太政官符があげられ、「多磨郡□野社(多磨郡小野社を指すと思われる)」の記述がある

主祭神=天下春命、瀬織比咩命、伊弉諾尊、素戔嗚尊、大己貴大神、彦火火出見尊、大己貴大神、彦火火出見尊、瓊々杵尊、倉稲魂命
主祭神の天下春命(あめのしたはるのみこと)は、日本神話に登場する神。『先代旧事本紀』の「天拝殿神本紀」によると、両神は共に おもいかねのみこと(天照大神の岩戸隠れの際に集まった神々に岩戸の外に出す知恵を授けた)の御子神で、にぎはやの命が天磐船に乗って天降った時、護衛として随従した32柱の神の2柱とされる。。

二宮=小河神社  …東京都あきる野市

 

 

 

鳥居                  本殿

 

二宮神社(にのみやじんじゃ)は、東京都あきる野市にある神社。武蔵二宮で、旧社格はは郷社。JR五日市線東秋留駅から東北東に徒歩5分の距離。
別称は「小河神社(おがわじんじゃ)」。古くは「小河大明神」または「二宮大明神」とも称された。創立年代は不詳。『和名抄』に記されている武蔵国多摩郡小川郷の鎮守であり、「小河大明神」とも称された。周辺の地名は「二宮」と称されている。
古記録によると、藤原秀郷が生国の山王二十一社中の二宮を崇敬する縁故をもって特に当社を崇敬し、天慶の乱に際し戦勝祈願をこめ、乱平定の奉賽として社殿玉垣を造営した。
源頼朝、北条氏政も崇敬篤く、ことに北条氏照は滝山城主となって、同氏の祈願所とした。のち、神殿・神宮宅は罹災し、記録の大半が焼失した。
現在の本殿は、江戸時代に建立されたといわれる。明治3年現社名に改称した
主祭神は、国経立尊 (くにとこたちのみこと)。日本神話にに登場する神。『日本書紀』においては初めての神とされ、一部神道・新宗教で重要視されている。『古事記』において神世七代の最初の神とされ、別天津神最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)の次に現れた神で、独神であり、姿を現さなかったと記される。

三宮=氷川神社  …埼玉県浦和市

氷川神社(ひかわじんじゃ)は、埼玉県さいたま市大宮区高鼻町一丁目にある神社。式内社(名神大社)、武蔵札一宮を称する(ないし三宮)勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。宮中の四方拝で遥拝される神社の1つ。
東京都・埼玉県近辺に約280社ある氷川神社の総本社である。他の氷川神社と区別する際は「大宮氷川神社」とも呼ばれる。埼玉県周辺の広域から参拝者を集め、正月三が日の初詣の参拝者数(警察調べ)は全国10位以内に数えられる。特に全国的に初詣客が増加した2008年(平成20年)以降は毎年200万人以上が訪れている。
埼玉県・東京都の荒川流域、特に旧武蔵国足立郡を中心にして氷川信仰に基づく氷川神社が多数分布しており、当社はその中心である。神社の境内は、見沼(江戸時代中期まで存在した広大な沼)のほとりに位置し、大宮の氷川神社、見沼区中川の中氷川神社(現 中山神社)、緑区三室の氷川女体神社は、いずれも見沼の畔にあり、かつ一直線に並んでいる。
主祭神は、須佐之男命、奇稲田姫命(ヤマタノオロチの生贄から須佐之男命に助けられた娘)、大己貴命である。
社伝によれば、孝昭天皇3年の創建という。「国造本紀」によると、初代国造の兄多毛比命は成務天王(第13代天皇)の時代に出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って氏神として、当社を奉崇したという。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造(无邪志国造)は出雲国造と同族とされ、社名の「氷川」も出雲の簸川(ひかわ)に由来するという説がある。

 

 

 

 

    本殿                   楼門

氷川神社は、東武野田線「大宮公園駅」または「北大宮駅」か徒歩10分、JR東日本ほかの「大宮駅」から、氷川参道経由徒歩20分

四宮=秩父神社     …埼玉県秩父市

 秩父神社(ちちぶじんじゃ)は、埼玉県秩父市番場町にある神社。式内社、武蔵国四宮。旧社格は国幣小社、現在は神社本庁の別表神社。秩父地方の総鎮守である。三峯神社・宝登山神社とともに秩父三社の一社。12月の例祭「秩父夜祭」で知られ、秩父夜祭(秩父祭の屋台行事と神楽)は「山・鉾・屋台行事」(18府県の計33件)の1つとしてユネスコ無形文化遺産に登録されている。毎年12月に行われ、京都の祇園祭、飛騨の高山祭とともに日本三大曳山祭り及び日本三大美祭に数えられ、多くの観光客が訪れる。

                 秩父夜祭

荒川の河岸段丘上に広がる秩父市街地の中心部に鎮座する。崇神天皇の時代、初代の知知夫国造である知知夫彦命が、祖神の八意思兼命を祀ったことに始まると伝える。

 

 

 

    本殿                   神門

祭神は、八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)、知知夫彦命(ちちぶひこのみこと= 八意思兼命の十世孫で、初代知知夫彦命)、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、秩父宮雍仁親王=昭和天皇の弟。昭和28年(1953年)に合祀。
神社の現在の社殿は、徳川家康の寄進によるもの。本殿・幣殿・拝殿をつないだ、荘厳な権現造だ。左甚五郎作の彫刻「つなぎの龍」「子育ての虎」が有名で、背面にある「北辰の梟」等拝殿の側面を辿り巡るのも興味深い。社殿は埼玉県の有形文化財に指定され、神輿は室町時代のもので埼玉県最古。
秩父鉄道秩父本線秩父駅から徒歩3分、西武鉄道西武秩父線西武秩父駅からは、徒歩15分の距離にある。

五宮=金鑚神社(かなさな神社)  …埼玉県こだま市

金鑚神社(かなさなじんじゃ、金鑽神社)は、埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮にある神社。式内社(名神大社)、武蔵国五宮(一説に二宮)。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
この神社に行くには、どこどこに行ったついでに立ち寄ろうかというわけにはいかない場所にある。本庄駅(JR東日本高崎線、または丹荘駅(JR東日本八高線)から、朝日バスに乗り「新宿」バス停で下車し、「新宿」交差点から国道462号を東へ徒歩約20分。
関東平野西縁、埼玉県北西部に立つ御獄山(標高343.4メートル)山麓に鎮座し、社殿後背の御室山(御室ヶ獄)を神体山として祀る。山を神体山とするため、社殿には本殿は設けないという古代祭祀の面影を残すことで知られる。
社名「金鑚(かなさな)」は、砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」が語源であると考えられている。神流川周辺では刀などの原料となる良好な砂鉄が得られたと考えられており、御嶽山からは鉄が産出したという伝承もある。文献では当社について「金佐奈」と見えるが、「かなすな」がこの「かなさな」に転訛した由。

拝殿  中門

 

 

神流川周辺では刀などの原料となる良好な砂鉄が得られたと考えられており、御嶽山からは鉄が産出したという伝承もある。文献では当社について「金佐奈」と見えるが、「かなすな」がこの「かなさな」に転訛したとされる。
主祭神は、天照大神と素戔嗚命。
社伝(『金鑚神社鎮座之由来記』)では、日本武尊が東征の際に伊勢神宮にて叔母の倭姫命から授けられた草薙剣と火鑽金(火打金)のうち、火鑽金を御室山に御霊代として納めて、天照大神と素戔嗚尊を祀ったのが創建という。
当社から徒歩数分のところに、当神社の別当寺たる大光普照寺=通称「金鑚元三大師」が控えている。

六宮=杉山神社   神奈川県横浜市

名称の由来については、杉山に祀られていたという説や樹木の神である五十猛命と杉林に因むという説、船舶材として杉の木に因むという説など諸説ある。また当社の由緒についても不明な点が多いが、出雲民族の末裔(五十猛命)が紀州熊野より海人族を引き連れて伊豆半島や三浦半島に辿り着き、後者を経由して鶴見川水系に住み着いた一族の頭領が杉山神社を創建したという説がある。
当社の由緒についても不明な点が多いが、出雲民族の末裔(五十猛命)が紀州熊野より海人族を引き連れて伊豆半島や三浦半島に辿り着き、後者を経由して鶴見川水系に住み着いた一族の頭領が杉山神社を創建したという説がある。 当時の都筑郡(つづき郡=横浜市と川崎市にあった令制時代の群)は古墳や環濠集落が作られるなど武蔵国府の支配外にある一つの小国を形成しており、古東海道も横断する物資の集散地であった。

杉山神社(すぎやまじんじゃ)は、主に五十猛神(スサノオの子)や日本武尊を主祭神とする神社である。旧武蔵国における式内社の一社とされるが、その論者とされる神社は現在の神奈川県横浜市を中心に川崎市、東京都町田市、稲城市などに数十社存在す。本社は比定されておらず、未だ多くの論社が存在する。なお、論社のうち現在では横浜市(緑区西八朔町、都築区中川および茅ヶ崎中央、港北区新吉田町)にある4社が最有力とされている。杉山神社は周辺地域に住む民衆の信仰の中心として鶴見川水系沿いを中心に拡大したとされるが、謎の多い神社である。鶴見川の他に帷子川および大岡川水系、多摩川の右岸(川崎市・稲城市)に存在するが、多摩川を超えた領域には存在しない。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』では杉山神社が全部で72社あると記されているが、その後の合祀や社名変更などにより現状で宗教法人登録されている「杉山」(椙山も含む)が付く神社の合計は44社となっている。

 ここでは、各論社杉山神社の中で、大國魂神社の六宮としてくらやみ祭に参加する横浜市(緑区西八朔町)在の杉山神社を取り上げよう。
杉山神社(すぎやまじんじゃ)は、神奈川県横浜市緑区西八朔町にある神社。式内社論社、武蔵国六宮。旧社格は郷社。この杉山神社は、旧戸部村の鎮守で、横浜市内唯一かつ旧武蔵国の式内社である「杉山神社」の論者の一つとされている。旧戸部村に鎮座していたことから、戸部杉山神社(とべすぎやまじんじゃ)とも呼称される。
主祭神は、大己貴命。

 

 

 

 

 

拝殿                       境内入口

江戸時代には「杉山明神社」と称していた。また願成寺を別途寺とし、幕府より朱印地を与えられていた。京急本線「戸部駅」から徒歩7分

 

 

現在、神社巡り、一の宮巡り等々、祈祷するのがブームになっていて観光の大きな目玉になっているというようだ。祈祷するにはより格の高い神社が、好まれ選択されているようであるが、各神社を祈祷の目的だけで訪問するのは、もったいない。自分が育った地域、訪れた地域の過去現在をより身近に知ることのできるチャンスなのである。お寺が一般的には、初代住職の発意で創建地が選ばれるのに比べると、神社の創建には、その地域の住民の心持、その地域での言い伝え等歴史、風俗等を取りまとめて、当初は地域住民の発意をまとめ上げて神社の創建に繋げる場合が多いのではないか。現在の姿からすれば、多分なんとも立派とは言いようのないものであろうと、神輿を担いて祝う気持ちはその地の住民の心持が素直に現れて、地域の皆々と共存していく心的地盤を築き上げているのではなかろうか。

今回、武蔵国の六宮をまとめて順に並べ挙げて、長い文章になったが、いろいろと知らないことを知ることで、次の興味・好奇心に広げて敷衍することで、興味も各方面につなげることが出来よう。武蔵国の六宮の次は、どうしようか??