平成6年7月22日
多摩川は東京の南を東京湾に向かって東流している。「我らがふるさと」東京都(23区と30市町村)については、700余の古墳が確認されており、下図の通りに分布している。見てわかるように、まさに、多摩川の中下流域に集中的に分布しているのがわかる。それも多摩川の左岸に集中している。これまで、何回かと「東京の古墳」めぐりを案内してきたが、多摩めぐりの会のブログは多摩のいろいろの名所旧跡他を紹介していただくが、東京都三多摩が大半である。旧武蔵国は現在の東京都、埼玉県、川崎市、横浜市からなる東の大国であった。多摩川の流域は東京都と川崎市が占めており、川崎まで多摩川流域をブログで訪ねるのも興味深いことだろうと提案する。
筆者は、東京生まれの三多摩在住であり、多摩川左岸の古墳には何回も訪ねてきたが、では多摩川の右岸はどうなのだろうかというかねてから先送りしてきた疑問の追及は、ただ怠ってきただけだ。ここらで、一度多摩川南岸・右岸の大半を占める川崎市の古墳を訪ねんと思った。
古墳MAP HPより 「東京の古墳MAP」より
多摩川には水資源肥沃な平地を利用した、弥生時代以来の生産性の高い農耕社会を背景とする、強力な首長の治める政治的集団が存在していたと考えられる。そして、古墳時代を通じて、この地域が、その首長一族の墓地として利用されていたのである。その首長たちの財力・技術力・知識を積み上げて、多摩川領域に主に円墳群を展開した。
川崎市と古墳
多摩川は古くから「暴れ川」として知られており、河口部から上流にかけては、氾濫原が広がっていたという。縄文時代中期には、中流から下流にかけて平坦な丘陵上に涌泉周囲集落が出来て、後期には、弥生時代には稲作農耕を中心にした社会が構成され、弥生時代から古墳時代にかけては、階級の差が現れ、政治経済の発展とともに古墳に象徴される豪族を中心とした社会が形成され、幸区南加瀬の白山古墳(前回訪問)のように全長87mを超える大型の前方後円墳も築かれた。さらに、古墳時代後期から終末期になると、多摩川や矢上川に面した丘陵部や台地上には、古墳群も多く築かれた。
川崎市内には、これまで61の古墳が確認され、うち43基が現存するとの資料があり、中世や近世の経塚や供養塚などの可能性のあるものを含めると高塚古墳70基ともいわれる。
筆者は、この多摩川沿いの古墳群には、全くの素人であり、第二回の今回は中央部の古墳から、資料を手繰りながら、初見参していきたい。
1.西福寺古墳 (さいふくじこふん)
川崎市高津区梶ヶ谷3-1 神奈川県指定史跡
田園都市線の武蔵溝ノ口駅隣りの梶ケ谷駅の駅前のバス停から鷺沼行きバスで梶ケ谷五丁目のバス停で下車し、バスでおりてきた坂を上って右折すれば梶ケ谷第三公園に到着する。公園奥に大きな部分を占めて、長垣できれいに整備された数本の長木の経つ小山古墳が「西福寺古墳」である。近隣にある天台宗西福寺の名がつけられている。調査の結果、この古墳は直径約35m・高さ5.5mの円墳で、墳丘の周囲には幅約6~7.5m、深さ約70~80cmの周溝がめぐっている。また、西福寺古墳に埴輪(はにわ)が伴っていることは以前からよく知られていたが、この調査でも周溝の中から多量の埴輪片が発見された。
西福寺古墳
西福寺古墳は、矢上川によって開かれた細長い沖積低地を望む、左岸標高約46mの台地上の縁辺部に立地している。梶ヶ谷周辺には、この西福寺古墳をはじめ、馬絹(まぎぬ)古墳や宮崎大塚などの古墳が集中しており、いわゆる馬絹・梶ヶ谷古墳群を形成している。また、西福寺古墳に埴輪(はにわ)が伴っていることは以前からよく知られていたが、周溝の中から多量の埴輪片が発見された。この古墳は公園として長らく保存されてきたので、これまでに古墳そのものの発掘調査は行われなかった。盗掘などによって古墳の破壊が進んだため、その保存整備事業を実施することになり、昭和57(1982)年、墳丘の裾部から周溝を中心に確認調査が実施された。出土した埴輪には、上部がやや開いた筒状の円筒埴輪が最も多く、その他に円筒部の上端がラッパ状に開く朝顔形円筒埴輪や形象埴輪などもあった。ここでは形象埴輪のうちの動物埴輪である水鳥の頭部が出土している。これらの埴輪は、古墳が築造された当初は、墳丘の裾部をぐるりと取り囲むように立ち並んでいたと考えられる。
この古墳の築造年代については、出土した埴輪の特徴からみて、5世紀後半~6世紀初頭頃と考えられる。西福寺古墳は、昭和55(1980)年に神奈川県の史蹟に指定された。 水鳥を模した形象埴輪
2.馬絹古墳 (まぎぬこふん)
川崎市宮前区馬絹994-10 神奈川県指定史跡
西福寺古墳から徒歩でもと来たバス道路を突っ切って、だらだら坂を下りていくと、JR貨物ターミナルを経て、(宮前区入りし)金山を通り、尻手黒川道路を西進すれば、道路右の丘に馬絹神社が現れる。「馬絹」名は、平安時代の当地は勅旨牧であった「石川牧」に含まれ、そのことに由来する呼称と言われる。伊佐那美神(いざなみのみこと)を主祭神とする馬絹神社は元禄以前に建立されたというが詳細不詳。
この神社本堂の裏地に、馬絹古墳がある。雑木に覆われた墳丘直径約33m、高さ約4.5mの円墳で、西福寺古墳と並んで梶ケ谷古墳群を代表する存在。ただ、西福寺古墳の主体部が未発掘であるのに対し、馬絹古墳は昭和46 (1971) 年からの調査で、極めて大形の横穴式石室が発掘された。それは、泥岩できれいに積み上げたもので、墳丘の南面に出入口部があり、石室の全長が、9.6mにも及ぶ非常に大型の石室である。きわめて整美かつ堅固な版築工法で築造されている。
ちなみに、近隣の影向寺(ようごうじ)について付記しておきたい。「稲毛薬師」とも称され、。最古の縁起によれば、天平12年(739)光明皇后が眼病を患った折、聖武天皇の御夢の中に一人の僧が現れ、「武蔵の国橘樹郡橘郷に霊地があって、その地に不思議な霊石があります。その石の上にはいつも聖浄比なき水が湛えてあります。此処に伽藍を建立し、薬師如来を安置し奉るならば、皇后の御悩み立ちどころに御平癒となるでありましょう」と申し上げた。天皇は早速、高僧・行基を遣わし祈願させたところ、霊験あらたかで皇后の御病気も快癒されたという。天王の勅命にこの地に伽藍がそびえたのはその翌年のことであると伝えられている。国分寺建立時代に開かれた当山には、武蔵国橘樹郡の郡家が設置された居たものとみられている。平成27年に国士跡と指定された国史跡橘樹官衙遺跡群(くにしせき たちばなかんがいせきぐん)は、武蔵国橘樹郡の役所跡である千年伊勢山台遺跡[橘樹郡家跡]と、その西側に隣接して造営された古代の寺院跡である影向寺遺跡から構成される古代官衙の遺跡。地方官衙の成立から廃絶に至るまでの経過をたどることのできる貴重な遺跡で、その成立の背景や構造の変化の過程が分かり、7世紀から10世紀の官衙の実態とその推移を知るうえで重要であるとされている。
東京の多摩の府中を学んだこともあり、その関連を探るべく、この影向寺と橘樹郡遺跡に再訪したい。
図右・左が馬絹古墳
馬絹神社 |
3.史蹟二子塚の碑
川崎市高津区二子6丁目10-1
川崎の世田谷区との境目、高津区の北東部は多摩川に面しており、そのちょうど中ほど、厚木街道が二子橋で多摩川を渡っているあたりが二子地区、そのから下流に向かって諏訪地区、北見方地区と続く。この3地区にはいくつか現存するものも含めて多くの古墳があり、それらは総称して「二子・諏訪古墳群」と呼ばれている。
二子玉川は、世田谷区の玉川と多摩川を挟んで隣接している川崎市高瀬区の二子を組み合わせた地名であり二子玉川という行政上の地はない。「二子玉川」の名は、かつて多摩川を挟んで川崎市に存在した「二子村」と世田谷区側の「玉川村」に由来すると二子玉川郷土史会は説明している。また同地にあった「二子の渡し」にも深い関係がある。それはそれとして…
昔あった大型の前方後円墳を訪ねていく。賑やかな二子玉川の西方二つ目の高津駅を下車して、駅西の電車と交差する道路を南東に下っていくと、当初は二子町、その先10分距離の道路右側の道路面住宅の裏地に入ると、二子塚公園にたどりつく。道路右を少々入った住宅の裏手に、なぜか昔のトロリーバスを配置した小さな二子塚公園である。すぐに、「史蹟二子塚之碑」と刻まれた石碑が目に入る。
二子塚古墳も多摩川右岸の低地上二子・諏訪古墳群に属する前方後円墳だ。古い時代に消滅しているため規模など詳細は判明しないが、「新編武蔵風土記稿」に記載有り、6世紀に築造されたものと考えられている。二つの小塚が離れて並んでいたことから、「二子塚」と呼ばれていた「二子塚」と呼ばれていて、塚の間を奥州街道が通っていた、とされる。
4.東京都多摩市の古墳群
多摩川右岸・南岸には、明治以降の神奈川県から東京都への移転あり、多摩市内では、多摩川に注ぐ大栗川の下流に沿った和田・もぐさの台地上に6~7世紀の古墳が集中している。和田・百草地区の丘陵には、稲荷塚古墳・臼井塚古墳・庚申塚古墳・塚原古墳群などが存在し、また大栗川対岸には、中和田横穴墓群・日野市の万蔵院台古墳群が所在する。これらはまとめて和田古墳群と言われ、都内でも有数の古墳群の一つ。
多摩市内の古墳は、稲荷塚古墳が全国的にも数少ない八角形墳であるほかは、すべてが円墳で、周溝がめぐらされ、溝の内側は盛土がなされ、その中央に埋葬する石室が設置される形態が一般的であった。
5.稲荷塚古墳
東京都多摩市百草1140 東京都指定文化財(八角墳)
ご無沙汰して数年になるが改めて多摩市在のこの古墳を紹介したい。京王線聖蹟桜ヶ丘駅より京王バス乗車。多摩センター駅行or多摩南部地域病院行で一之宮経由、「落川」下車、徒歩7分。
大栗川は八王子市および多摩市を流れる多摩川水系の一級河川、鑓水付近を水源とし八王子市松木付近で支流の大田川を合わせ、多摩市に入り、稲城市との境界付近で多摩川に合流する。
稲荷塚古墳は、大栗川右岸の台地上に、直径34m、高さ4m、2段築盛の八角形墳で周囲を幅2mの堀が巡る。埋葬施設は南西方向に入り口を持つ横穴式石室で、全長7.7m。玄室・前室・羨道からなる複室構造で、凝灰岩の切石を用いて構築されている。盗掘されていたため、副葬品は見つかっていない。7世紀前半の築造、1958年に都指定の史跡に指定されている。現状は直径20m、高さ2mほどの円墳で、墳頂には恋路稲荷神社が建つ。石室は、ブロック舗装によって石室の位置がわかるようになっている。
周溝が直線的で角が意図的に深く掘られていることから、全国でも10例ほどしか報告されていない、「八角墳形」であると考えられている。東京都の7世紀代の古墳としては大型の部類に属している。 古墳時代の終末期に造られた八角墳(はっかくふん)。現・天智天皇陵(7世紀半ば))や奈良県高市郡明日香村の野口王墓古墳(現・天武・持統天皇合葬墓)などが有名。八角形墳の意味については、同郷を含めた広い意味での古代中国思想において、八角形が天下八方の支配者にふさわしいとしてという思想の影響がみられる。
以上、川崎市中部から二子玉川辺まで、訪ね歩いたが、
東京の多摩川辺と川崎辺に、人民が住み始めたのは少々東京側が早いようだが、特段の変化は見当たらず、次第に農産物の蓄積が貧富差を生み出し、大小地域の統率者がうまれ、円形の古墳が用意されてきたようだ。統率者に率いられた、弱小農民の古墳地区の苦難が窺われる。
はてさて、多摩川右岸古墳探索は、続けるか続けまいか???
〈 参考資料 〉
川崎市発行の諸資料
ネット「東京の古墳MAP」
WIkipedia