五畿・七道
武蔵国 21郡
「多摩めぐりの会」のブログでは、東京都の23区以外の多摩地区(いわゆる三多摩地区)の各所の自然・歴史等々が紹介されているが、小生のブログでもこれまで触れてきたように、今の東京都と埼玉県と神奈川県の横浜市川崎市を含む地域が、昔からの武蔵国であり、そのいわば中央政庁のある郡が多摩郡であり、その中央南部に「府中」がある。地方行政組織が全国的に動き出したのは天武帝の頃からで、紀元701年の大宝律令で制定され、天皇の権力が及ぶ範囲を、畿内(大和・摂津・河内(のち和泉が分立)・山城)と七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)に分けてその下に66国と対馬・壱岐がおかれた。各国では、国・郡・里制の三段階の行政組織が定められ、国司・郡司・里長がおかれた。
そのうち、東山道に属する武蔵国は、東国の大国として、上図のように21の郡がおかれていた。 (上部の地図をご参照願いたい)
現在の府中
府中市は、東京都のほぼ中央に位置し、副都心新宿から西方約22kmの距離。面積は29.43平方kmで、その広がりは東西8.75km、南北6.70km。南端に多摩川が流れ、ここから北へ約1.7kmにわって平坦地が広がり、これより東西に走る高さ約6mから7mの崖線から北へ約2kmにわたって立川段丘が広がっている。大化の改新以降、武蔵国の国府が置かれ、早くから政治、経済、文化の中心地として栄えた。鎌倉時代末期は合戦の舞台となり、江戸時代には甲州街道の宿場町として栄え、明治以降は北多摩郡の郡役所が置かれるなど、多摩地域の中心として歴史的役割を担ってきた。
昭和29年4月、府中町、多磨村及び西府村の1町2村が合併し、人口約5万人の府中市が誕生。現在では、26万人を擁する首都東京の近郊都市として、発展を続けている。「府中」とは「国府所在地」を意味する地名で、武蔵国国府が置かれた地であることから「府中」と呼ばれており、これが市名の由来である。京王線府中駅からJR南武線府中本町駅までのエリアは、東京多摩地域有数規模の繁華街・市街地が形成されていて、多摩地域では立川・町田・吉祥寺・八王子駅周辺に次ぐ規模を誇る。
武蔵国 府中
武蔵国で国司がおかれたところが、府中である。小生は、元府中市民であり、今は多摩川を挟む南側に住んでいるが、東国の大国武蔵国の国衙が、なぜ武蔵国南端多摩郡の府中にあったのか、前々から疑問に思ってきた。少々勉強してみようと思って府中の歴史・地勢などを勉強している。
それでは、新宿から京王線に乗って、この府中を探っていきたい。特急で25分の距離にあり、多摩川の左岸の平地にある。府中駅で降車し、南側に武蔵国総社大國魂神社へ向かう馬場大門の天然記念物の杉並木があり、ここが大國魂神社の参道である。この参道を神社に向かい、大國魂神社の門前を左に折れて、少々進み右折して神社の脇道に入れば、国史跡武蔵国府跡(国衙地区)のこじんまりとした史跡地区が設けられている。
天然記念物の大國魂神社杉並木
大国魂神社の大鳥居
武蔵国府は、奈良時代の初めころから、平安時代の中頃(今から約1,300年~1,000年前)にかけて、武蔵国を治めた役所がおかれた古代武蔵国の政治・行政・文化・経済の中心で、古代武蔵国の首都として栄えていた。
平成21年7月に、大國魂神社とその東側の武蔵国衙跡地区などが、「武蔵国府跡」として史跡に指定された。「国府」の中心の施設である「国庁」は現在でいえば都庁の知事部局のことで、国庁では国司という都から来た役人が政治や儀式を行っていた。国庁周辺には行政事務を行っている建物群があり、それを「国衙」という。
1975年以来、市民の協力のもと発掘調査が続けられており、今では1,800ヶ所を超すまでになる。その結果、多くの貴重な情報が蓄積され、古代国府の実態を知る上で全国的にも欠くことのできない遺跡として評価されている。国史跡武蔵国府跡国衙跡地区の盛り土は、発掘された建物の柱穴跡を保護するための盛り土と聞く。
武蔵国府跡(武蔵国衙跡地区)の遺跡は、大國魂神社の東側面と道路を挟んだ東側にあり、南北30m×東西25mほどの区域の盛り土をした小さな史跡公園である。
府中市のほぼ中心部、大國魂神社境内から東側の一帯では、大きな溝に囲まれた区域があり、その内部では整然とした配置で大型の掘立柱建物や礎石建物の跡が見つかっている。建物跡には長さが20mを超す大きなものもあり、瓦も出土しているので、壮大な建物群の存在が想像できる。さらに武蔵国内の郡名を記した瓦やレンガ(磚セン)が出土するのもこの一帯の特色だ。これら郡名のある瓦やレンガの出土地には、武蔵国を挙げて建造した建物が存在したことになる。それは、国府の中枢である国庁とそれを取り巻く役所群(国衙)を置いてほかに考えられない。
この史跡公園は小規模だが、府中駅の近くは、長年にわたって宅地化が進められて、史跡は削平されてきたものとみられて、国士跡を十分な広さで展示展開する土地確保が出来ず、このこじんまりとした史跡公園となったものだ。
なお、大國魂神社の南西の府中本町駅近くには、国司館(と家康御殿)史跡広場があり、改めてご報告したい。
武蔵国府跡
当時の役所は、大國魂神社とその東側で見つかっており、北端は旧甲州街道のすぐ南側、南端は大國魂神社本殿裏手、西端はふるさと府中歴史館の下で、役所を画する大溝が見つかっており、東端は西端から約200mで見つかっている大溝とも推察 されている。
JR南武線府中本町駅の東隣に、国史跡武蔵国府跡(国司舘地区)国司舘と家康御殿史跡広場がある(上記写真の中央左の国司館地区と表示の場所)。次回は、この地区を紹介しよう。
国造、国士、国衙、国府とは?
国造(くにのみやつこ)
大和朝廷が国の範囲を行政区分として認定し、その長として国造を認定した。古墳時代より続くその地方を支配する地方豪族が任じられ、旧来と同様に、その国内で軍事権、行政権、裁判権などを担った。しかし、大和朝廷に服し、任じられる立場へ変わった。
国司(こくし)
地方行政単位である国を支配する行政官として中央から派遣された官吏。四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)を指す。史生(ししょう)、博士、医師などが置かれており、広義では国司の中に含めた。
国衙(こくが)
国庁とその周りの役所郡をいう。
国府(こくふ)
国司が政務を執った国庁等重要施設が設置されて、国庁の周囲は土塀等によって区画されていた。国庁とその周りの役所群を国衙といい、それらの都市域を総称して国府という
武蔵国国府が府中に置かれた経緯
行田市のさきたま古墳群にある稲荷山古墳から出土した副葬品に金象嵌銘文が刻まれた国宝の刀剣があり、乎獲居臣(おわけのおみ)が杖刀人(じょうとうにん、軍事官僚)として雄略天皇(第21代、西暦457~479?)に仕えたと記されていて、現埼玉地区から中央へ軍人が派遣されていたことがわかる。武蔵国造の本拠地は、武蔵国埼玉郡笠原郷(埼玉県行田)市と考えられ、埼玉(さきたま)古墳群がその墳墓と推定されている。その後の安閑天皇時代の534年とされる武蔵国造の乱で、埼玉県行田市(さきたま古墳のある地域)の笠原直(かさはらのあたい)が、上毛野(今の群馬県)地域の豪族小熊(かみつけぬおぐま)に支援を求めた小杵(おき)との戦闘で、大和政権に援助を求めて勝利し国造を世襲することになった。
現在の東京都・埼玉県と神奈川県川崎と横浜の一部にあたる、武蔵国が成立するのは、大化改新後に大宝律令(大宝元年、701)による国・郡・里の3段階行政組織=国郡里制により国司が命じられてからとするが、大国である武蔵国府には大宝3年(703)に引田祖父が武蔵守に任じられたと「続日本記」に記載されている。
和銅3年(710)には、武蔵国造の乱での大和政権支援の代償として献上された多氷屯倉(みやけ=大和政権の直轄地)のある府中市に国府が置かれた。位置は多氷を多末の誤記と見て後の多摩郡と推測されている。比較的に早くから屯倉が置かれ、交通・産業上の重要度を次第に高めた南部の多摩川中流域に面する点で選ばれたものらしい。
一説に、府中周辺には古墳がほとんど存在せず、つまり大きな地域有力者が不在であり、北武蔵には大きな古墳があり、有力豪族がいた。東国の大国である武蔵の中央集権化を進める政府としては、中央政権支配の傘下に確実に置くべく、武蔵北の豪族からは離れた、多摩川沿いの府中に国府を設定したのではないか、とも言われている。
この時点では、武蔵の国は東山道の中にあった。武蔵国は歴史的にその北部が毛野国と関係が深く、当初は同じく東山道に属した。しかし国府の府中はこの幹線から離れていたために、新田・足科から伸び武蔵国をほぼ縦断する支線である東山道武蔵路が設けられ、その後、武蔵国はその南部において相模国及び東京湾を経由する往来が次第に活発となり、宝亀2年(771)に東海道に移管され、相模国・武蔵国・下総国を結ぶ陸路も整備された。
では、東の大国武蔵国の政庁が、武蔵国南端の多摩郡に置かれたのは、上記の事由からといわれているが、その論点にはいろいろと謎がある。
前回(4/17)ご案内した、武蔵府中熊野神社古墳に祀られているのは、かねてより武蔵・多摩在住したの豪族なのか? あるいは大和政権から派遣された監視役的貴族なのか? 国府が設置されるとなると、府中の地区にはどういった経済的力量や政治的力量をもつ豪族がいて、国司を府中に呼び寄せられたのか? 桓武天皇により天平13年(741)3月の詔(続日本紀)で、この地の東西880m南北550mの広大な敷地に、20年余の歳月をかけて、国分僧寺と国分尼寺を完成したが、その技術・工業的技術、経済的体力等は武蔵にあったのか?
次回は、この府中の謎をさらに詰めていきたい。
《参考資料》
府中市郷土の森博物館ブックレット17 よみがえる古代府中国府
府中市郷土の森博物館ブックレット8 あすか時代の古墳 検証! 府中発見の上円下方墳
府中市他各種団体発行のパンフレット・ホームページ
府中市郷土の森博物館 展示品&刊行物「アルムゼオ」
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