ブリヂストンの最寄り駅、西武線でもっとも古く開設された小川駅周辺を歩く

北多摩のほぼ中央にある小平市、西武線でもっとも古く開設された小川駅周辺を歩いてみた。

国土地理院地図使用 画像をクリックすると大きく見られます(以下同じ)

㈱ブリヂストンの最寄り駅で、東口を出て府中街道にぶつかれば目の前がブリヂストン5分ほどで着く。アッシーで使う車のタイヤ、日頃お世話になっていることもあって、今日はギャラリー(Bridgestone Innovation Gallery)を見学する。

ギャラリー受付
玄関脇の巨大タイヤ
タイヤの説明

見学は無料で、ネット予約すれば(1組20名) 約1時間ガイド付きで見学できる。今日は、予約1名とあってガイド独り占めだった。2021年世界シェアは14.6%で2位、ミシュランが15.0%で1位。ブリヂストン★三つの格付けがあってもいいかもしれない。小平の工場は昭和35年(1960)6月に竣工している。平成28年(2016)からは、乗用車や小型トラック用のタイヤの生産は他の工場に移し、航空機用のラジアルタイヤを継続して生産している。

用途を映すスクリーン
飛行機タイヤの負荷
タイヤの構造
各種タイヤの実物

小川駅は国分寺から川越までの川越鉄道の中間駅(川越、入間川、所沢、小川、国分寺)として明治27年(1894)12月に開業した。この時は、柳瀬川架橋工事をめぐって地元とトラブルがあったため久米川仮停車場を設置しての部分開通だった。全線開通は翌明治28年(1985)3月になる(全通により仮設駅は撤去された)。現在の東村山駅(久米川仮停車場の少し南に位置する)の開設は同年8月だった(撤去後、地元の駅設置要求によって開設した)。東村山駅が出来たことによって、北多摩地区の物産の集積駅としての小川駅を望み、土地買収のまとめ役だった細田佐十郎の目論見は叶わなかったと思われる。

昭和の戦時期になると、小平も軍事関係施設が昭和15年(1940)から同18年(1943)にかけて次々と設置された。傷痍軍人武蔵療養所(国立精神・神経医療研究センター)、東部国民勤労訓練所(職業能力開発総合大学など)、陸軍兵器補給廠小平分廠(ブリヂストン)などが小川駅周辺に設けられた。

軍事関係施設の位置と名称    小平市史より

小川駅から西へ日立航空機㈱の専用線だった小川~玉川上水と小平分廠への引き込み線は、それぞれ昭和25年(1959)と昭和37年(1962)に西武線となり、拝島~小平間の拝島線となるのは昭和43年(1968)5月のことだった。

昭和22年航空写真  国土地理院より
昭和32年当時の小川駅  小平市史より

令和2年(2020)の1日平均乗降客数は約2.1万人。小川駅西口に回ってみた。駅前通りは25mほどですぐT字路となる。左に折れると細い都道(小川停車場線・797m)が南へ青梅街道まで続く。駅近くは飲食店などの個人商店やコンビニが並ぶ、T字路突き当りのうどん屋に入って昼にした。西口再開発事業の建築工事が来年から始まると主人から聞いた。

小川駅西口
T字路から南方面の都道

コロナと再開発事業(建築工事が令和5年度(2023)から令和7年度(2026)までの予定)の関係で、後継者のこともあってか店をたたむところが随分多いと話してくれた。工事期間中や今後の経営を考えると店を続けることが難しいのかもしれない。

再開発完成図 
小川駅西口地区市街地再開発組合の資料より(左も同じ)
小川駅改札階から西口を見る(高層ビルの予定地)

都道から1本西側の通り、南北に走る富士見通りに進む。職業能力開発総合大学が面する通りだ、都立の障害者職業能力開発校や小平特別支援学校、病院などが並ぶ。周りは、都営住宅やアパートが多い、北側の東西に走る中宿通りは賑わっていたようだ。支援学校の南に、住宅建設の波にのまれず小川農園がある。入園無料、自由に花を摘み買取できる農園だ。当日は、午後3時半の開園にまだ早くて入ることが出来なかった。

小川農園の花

明暦2年(1656)小川九郎兵衛によって開拓された小川村。その後、東へ南へといくつもの開拓地を加えて小平村となったのが明治22年(1889)4月だった。小川の「小」と四方が平らであるの「平」を合わせて「小平」と名付けたとされる。360年余りが経って現在や将来の姿を思うと、力強い営みを感じる。

小川村と新田位置図 小平市史より
現在の小川駅周辺  国土地理院より

中宿通りに、国産大豆のみで豆腐を作っている店があると聞いたので、絹と木綿を買って帰る。

中宿通り