著名な芸術家も歩いた?青梅駅前通り、裏道には老舗の味

昨年3月に閉館していた青梅市吉野にある吉川英治記念館が、今年9月7日に吉川の命日「英治忌」に合わせて「青梅市吉川英治記念館」としてオープンした。青梅にちなんで、都道で延長が2番目に短い95mの「青梅停車場線」を歩く。戦争で昭和19年に青梅(吉野)に疎開した吉川英治や、同じ19年には川合玉堂も青梅(御岳)に疎開しているので、著名な二人が青梅駅前通りを歩いたと想像するのも楽しい。

緑線が都道 国土地理院地図使用

青梅駅は青梅鉄道株式会社が明治27年11月に開業した当時の終着駅で(現在の奥多摩駅までの開通は昭和19年)、大正13年に新築し現在の姿になった。地上3階、地下1階の建物で青梅鉄道の本社が入り、地下には商店街(売店)もあった(今は閉鎖されている)。写真は郷土出版社が発行した「青梅市政60周年記念写真集」から複写したもので「青梅停車場線」がまだ拡幅されていない。

昭和43年頃 青梅駅から駅前通りを見る

駅前通りから横道を行くと、創業120年余り、明治20年代に建築された木造3階建ての食事処「寿々喜家」が目に入る、多くのメディアで紹介されているので皆さんもご存じでしょう。吉川英治夫妻や川合玉堂も、後に玉堂美術館の建設に深くかかわった飛田東山(勝造)などが利用していたと店の主人が話してくれた。今日は奮発して看板の「うな重」を食べる。肝吸い、香の物、やっこ豆腐がついて満足の昼だった。

寿々喜家入り口、3階は使用していない

池波正太郎が吉川英治記念館を訪ねた後に、ここで食事をした時のことを書いている。

日が暮れて、青梅の町に出て、裏道の「寿々喜家」という鰻屋へ入り、枝豆、そら豆でビール。あとは柳川、鶏の釜飯、鰻丼など、三人でわけ合って食べる。旨くて安い。池波正太郎の銀座日記(全)新潮文庫

若い頃に隣駅の東青梅近くに半年ばかり暮らしたことがあるので、昼飯の力で東青梅まで歩くことにする。駅前通りもそうだがメイン通りも後継者不足なのか閉まっている店が少なくないように思える。青梅の鎮守である住吉神社の急な階段を登りお参りする。昭和レトロの町中を眺め、映画の看板を撮る。

子供の時に銭湯に通ったせいか、高い天井から幾枚も張られたポスターを思い出す。牛乳を飲みながら洋画の予告を見てワクワクしたものだ。

西分町を右に入ると、青梅織物工業協同組合が見えてくる。木綿夜具地を中心に一大織物産地となった青梅に同組合が昭和23年に設立された。その建物群が国登録有形文化財に平成28年に登録されている。本館はじめ旧都立繊維試験場など4件が登録された。今はレストランやイベントホールなどに利用されている。少し歩くと東青梅駅、懐かしい一日だった。

レンガ造り、中央の青い建物、のこぎり屋根の建物、下の本館が文化財