玉川上水の取水堰として江戸時代から首都への上水供給を支え続ける多摩川の堰~羽村取水堰

先のブログで、多摩川に設置されている主要な8堰のうち、河口から上流へ向かって、順に6つの堰(調布取水堰、ニヶ領宿河原堰、ニヶ領上河原堰、大丸用水堰、日野用水堰、昭和用水堰)の特色などについて触れてみました。
今回は、多摩川河口側から数えると7基目となる羽村取水堰について述べてみたいと思います。

玉川上水開削時に設置された羽村取水堰

玉川上水は、江戸の人口増加によって、更なる上水の確保が喫緊の課題となった幕府が多摩川の水を江戸の町へ引くために作った水路です。羽村取水堰から四谷大木戸まで43㎞あり、承応3年(1654)6月完成。玉川上水の開削には玉川兄弟として知られる庄右衛門と清右衛門の二人の人物が携わったことで有名です。

立っているのが庄右衛門(兄)、座っているのが清右衛門(弟)

羽村取水堰は、多摩川の水を堰き止めて玉川上水へ水を導くために造られた堰で、玉川上水と同時に計画に上がり、承応2年(1653)に完成しました。

堰の構造は、投渡堰(なげわたしせき)と固定堰から成り、投渡堰は多摩川に複数の支柱となる丸太を立て、その丸太へ桁となる木材を渡し、桁から幾本もの垂直材を川底へ向かって延ばしています。そしてその垂直材へ投渡木(なぎ)と呼ばれる多数の丸太を横に渡し、そこへさらに竹や木の枝の束、砂利を並べ積み上げて造られています。
大水の際は、垂直材を取り払い、投渡木ごと多摩川へ流す。これによって、玉川上水の水門の破壊を回避する仕組みです。

固定堰は、蛇籠、牛枠(うしわく、竹や木のわく組の中に石材を詰めたもの)、三角枠を並べて作られており、水の透過性を考慮した堰でした。
現在もそうですが、多摩川の流れは羽村取水堰へ近づくと大きく南へカーブしています。水の流れを玉川上水の水門へ誘導しやすくするために、右岸に蛇籠、牛枠、三角枠を多数並べて対処していました。その様子が上水記に描かれた羽村取水堰に現わされています。

多摩川に渡された羽村取水堰と、堰から右上方に連なる蛇籠、牛枠、三角枠の列 左下方の流れが玉川上水 上水記(1791年)より

投渡堰と固定堰の境に「筏通し場」がありました。奥多摩や青梅から伐り出した木材を筏に組んで江戸まで筏師が操って運ぶための通路です。
筏を通す日時が決まっているので、その時は先を争って「筏通し場」を通ろうとしたため戦場のようだったということです。「筏通し場」は大正時代に役目を終えましたが、「筏通し場跡」として現在も保存されています。

筏師の操作で羽村の堰へ向かう筏 新編武蔵風土記稿 羽村取水堰1の絵より(クリックすると拡大、右図も同じ)
筏通し場跡 画面中央のスロープ

堰は、その後明治44年(1911)、投渡堰、固定堰ともにコンクリートを取り入れた構造に造り変えられ、大正13年(1924)に改築、今日に至っています。

今日の羽村取水堰

今日の羽村取水堰は、江戸時代以来ほぼ同じ場所に設置されています。JR青梅線羽村駅からは歩いて10 分ほどの場所で、右岸はあきる野市草花、左岸は羽村市羽東に位置しています。多摩川河口から約54㎞上流にあって、投渡堰と固定堰を合わせた堰の長さは約380m。

左岸(向かって右側)から右岸へ向かって3門の投渡堰、筏通し場跡、そして長い固定堰が見えている


投渡堰は支柱で3個所に区切られ、左岸側から第一投渡堰、第ニ投渡堰、第三投渡堰の順に並んでいます。川の状態によって、流す堰を決めるようです。
投渡堰の支柱と桁は、それぞれコンクリートと鉄製に変わりましたが、垂直材と投渡木は江戸時代から引き続き木材が利用されており、羽村の投渡堰は、投渡しの技術が350年以上の長きに渡って継承されている全国有一の例と言われています。

3門から成る投渡堰(クリックすると拡大、右図も同じ)
台風13号(昭和28年)時の投渡堰

固定堰も、蛇籠、牛枠、三角枠からコンクリート製に変わり、 平成14年(2002)年、堰の一部にハーフコーン型魚道が設置されました。

羽村取水堰とその周辺の航空写真

羽村取水堰から玉川上水へ

羽村取水堰で堰き止められた多摩川の水は、取水口となる第一水門で玉川上水へ送り込まれます。第一水門の30mほど下流に第ニ水門があって、ここで水量の調節が行われ、第一と第ニ水門の間にある小吐水門(こはきすいもん)で余分になった水は多摩川へ戻されます。
第ニ水門の下流約500mの場所に第三水門があります。ここで玉川上水から取水された水は地下に埋設された導水管、羽村線を通って東京の水がめ、村山貯水池(多摩湖)と山口貯水池(狭山湖)へ送られています。

第一水門(クリックすると拡大、右図も同じ)
第二水門 右側に小吐水門
第三水門

景勝地としても有名な羽村取水堰

江戸時代、羽村取水堰は周囲の風景にとけ込んだその美しさから「羽衣の堰」や「時雨の堰」と呼ばれていました。
昭和57年(1982)、羽村取水堰は訪れた人々の心に感動や安らぎを与え、都内に存在する自然景観、名所、旧跡にふさわしいとして「新東京百景」に選ばれています。羽村取水堰から続く玉川上水土手の約1㎞の区間も桜の名所として有名です。

参考資料
 *東京都水道歴史館デジタルアーカイブシステム
 *国土交通省 京浜河川事務所資料