多摩と多磨 ?

小生は、多摩川の南岸の稲城市に住み、年に2回は多摩川を渡って、多磨霊園に墓参に通う。

多摩と多磨、子供のころから「多摩」と「多磨」に慣れてきて、それが書き間違いではないことがわかると、多摩は多摩川だから「多摩」で、「多磨」は多摩地区にあるものの石塔立ち並ぶ霊園に因んでの洒落気発揮の名づけか?との解釈で、自身が勝手に満足していた程度の認識であったが、多摩めぐりの会の一員として「たま」の各地を巡っていれば、そもそも多摩と多磨との違いについて、曰く因縁を多少なりとも説明できぬことはよろしくない、多少なりとも事情・経緯を探ることをしてみたいと思った。

 

「たま」の由来は、当然に多摩川によるものと思われるので、多摩川の川の名の歴史から、つついてみよう。

 

  1. 多摩川の名称

多摩川は、関東南部を流れる川。秩父山地の笠取山に源を発し、東京都に入り、下流で神奈川県との境を流れて東京湾に注ぐ。河口付近を六郷(ろくごう)川ともいう。多摩川は、長さ138キロ。流域面積1,240㎢、東京の上水道の水源。

多摩川の名づけについては各種の説がある。多摩川から上流部を「丹波川」(たばがわ、たんばがわ)という。丹波川とは、山梨県北都留郡丹波山村を流れる多摩川の源流部から奥多摩湖までの川をいい、奥多摩湖からは多摩川と呼ぶ。人が上流部から中流部へ移動することに伴い、転訛して「たまがわ」となったという。

「タマ」とは「霊魂」のことで、つまり多摩川は「霊力をもつ川」「神聖なる川」である。武蔵国の総社である大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)の近くを流れ、禊のための聖水を提供していたことから名付けられたとも言われる。水神が取り憑く神聖な川から来たという説もある。また、昔にこの地に定住していた部族が国魂神を信仰していたため、神聖な地として「霊の郡」(たまのこおり)、神聖な川として「霊の川」と呼ぶようになったという説もある。「タマ」とは「玉石・美しいもの・優れているもの」を指す言葉で、この川の流れが「玉のように美しくきれい」であることから、「玉川」と名付けられたともいう。「タマ」とは「渟り」(たまり)から一部が脱落した言葉であり、水の欠乏に悩んだ古代人は多摩川の大きさに驚いて、「溜まれる水」と賛嘆したことに由来するともいう。

葛飾北斎 富嶽三十六景  武州玉川

 

川名と地名のどちらが先に「たま」と名づけられたか、それぞれの両方の説があるが、多摩川が先で、流域に多摩と名付けられたというのが、本筋のようだ。

まずは、多摩と多磨の地域を改めてご紹介して、市・町名の由来を探ってみよう。

《  》  ①読み:   訓∥みがく、音∥マ, バ

②字義 : 石をこすりみがく、物事をみがき窮める

《  》  ①読み:   訓∥する、 音∥マ、バ

②字義:   手でなでこする、なでる、みがく

 

  1. 多磨➡多磨町(たまちょう)

  • 多磨町の位置

府中市北東部に位置する多磨町は1~4丁目で構成され、この地には大正12年に開設された都立霊園最大の都営多磨霊園があり、霊園内には、著名人の霊が多く眠っており、近年は桜の名所としても知られるようになつた。公園墓地として市民の憩いの場となっている。また、都立武蔵野公園は野川の流れに接した静かな場所で休日の散策には最適の所だ。南から時計回りに朝日町、紅葉丘、若松町、浅間町、小金井市前原町、中町、東町及び調布市野水に隣接する。東八道路のように幅が広い道路が横切っているが、町内の半分以上は都内霊園最大の多磨霊園の敷地になっており、浅間山公園や武蔵野公園など広大な土地を有している

 

江戸時代は多摩川の洪水との生死をかけた住民のたたかいがあり、戦前はこの地に調布飛行場が建設され、戦後の一時期、それは米軍基地へと姿を替えた。この多磨町には「おおいやま地区」と言われた地区があり、大変痩せ細った地であったが、終戦後の厳しい食料難のために、食料補助の目的で小規模開墾が始められたそうだ。さらに昭和30年代に入り、調布塵芥焼却場建設の反対運動に始まり、おおい山地区を東京都が武蔵野公園用地として事業決定したことに対する反対運動、新人見街道建設の反対運動など、住民の意向を無視した行政権力に対する反骨のたたかいの歴史が、この多磨町に刻まれている。人口は、4千人弱で、1丁目と2丁目に集中し、3丁目の都立武蔵野公園は人口5人、都営多磨霊園の4丁目は東京ドームが28個入る広大な公園墓地で、人口は0人という。

2).多磨町の町名の由来

明治22年(1889)4月1日の 町村制の施行に伴い、上染屋村、下染屋村、常久村、押立村、小田分村、車返村、是政村、人見村が合併して北多摩郡の多磨村が発足。明治26年4月1日に東京府へ移管され、昭和24年(1949)に押立・常久の一部(多摩川右岸部出作地)を分離し南多摩郡稲城町に編入させ、昭和29年4月1日に、 府中町、西府村と合併して、府中市を新設した。同日多磨村は廃止。

以前は押立山谷という名称で古くから親しまれてきた土地であったが、町名地番改正に伴い、旧多磨村の名前と、多磨霊園がその町にあったことにより、多磨町という名前にきまり、昭和39年(1964)に、府中市大字下染屋、押立、人見、是政、上染屋、常久、小田分、車返のそれぞれ一部(すべて旧多磨村所属の大字)により多磨町が成立した。「麻」が多い地でありそれが由来とする説がある。

多磨霊園(旧名は多磨墓地)が、「多摩」ではなく「多磨」であるのは、現在の東京都府中市東部に位置する多磨霊園一体の地域名が「多磨村」であったことから由来したとの由。

(多摩と記載されている霊園は、東京都町田市真光寺町にある 東京多摩霊園、東京都あきる野市菅生にある 西多摩霊園 etc)

 

都営多磨霊園 正門

 

西武鉄道多摩川線  多磨駅

(東京都府中市紅葉丘三丁目)

京王電鉄京王線  多磨霊園駅

(東京都府中市清水が丘三丁目)

 

多磨村の場所

 

  1. 多摩➡多摩市

  • 多摩市の位置と歴史

多摩市は東京都の多摩地域南部に位置する市。明治維新後の明治4年(1871)に、廃藩置県が行われ、関戸村など8カ村が神奈川県多摩郡に入る。明治11年には、多摩郡を東西南北の4郡に分け、明治22年の市制町村制施行により、関戸村・連光寺村・貝取村・乞田村・落合村・和田村・東寺方村・一ノ宮村の8ヶ村、および百草村・落川村両村の飛地が合併して多摩村となる。明治26年に東京府に移管され、昭和39年(1964)には町制が施行され多摩町となり、昭和46年には、多摩ニュータウン諏訪・永山地区の入居が開始され、11月1日には市制が施行され、多摩市となった。

  • 多摩市の市名由来

なぜ「多摩村」と称することに決定したかは定かではなく、記録等も残っていない。実際には旧村名などから決めると諸々の問題があるため、多摩川から命名したといわれている。また、類似の村名では、明治8年(1875)から15年に西多摩郡多摩村があったが、明治15年に解散していること、市町村制施行で北多摩郡多磨村(現府中市域)が成立したが、当多摩村は南多摩郡にあるため、同郡同村名とはならないことから採用されたと考えられる。

 

      京王相模原線、小田急多摩線、多摩都市モノレール線

多摩センター駅

 

   4. 武蔵国以来の「多磨」と「多摩」

  •  『日本書紀』安閑天皇元年(534?)条に記載されている、武蔵国造の乱(むさしのくにのみやつこのらん)は、古墳時代後期に起きたとされる戦いで、武蔵国造の笠原氏の内紛とされるが、この武蔵国造の乱の後に献上された4つの屯倉のうちの1つ多氷屯倉(おほひのみやけ)の位置は、「多氷」を「多末」(たま)の誤記として多磨郡の、特に現在の東京都あきる野市付近であると推測されている。
  •  万葉集の東歌(あずまうた)には著名な歌がある。東歌とは古代日本の辺境としての東国をさし,そこで行われた地方歌謡をいう。東歌の名は《万葉集》巻十四にみえ,その巻全体が230首の東歌で占められている。そのうちでも、多摩地方に因んだ歌として名高い歌は、『多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの子の ここだ愛しき』、これを原文で示すと、『多麻河伯尓 左良須弖豆久利 左良左良尓 奈仁曾許能兒乃 己許太可奈之伎』                         7世紀後半から8世紀後半頃の「万葉集」には、多麻の余許夜麻(多摩の横山)の記述がある。多氷→多麻→多磨→多摩と表記が変遷したようだ。
  • 「多磨」の地名が出てくるのは、飛鳥時代の武蔵野国が誕生した703年頃。その中心となった郡が、「多磨郡」であったことが記録に出てくる。武蔵の国府が置かれた現在の府中市は、多磨郡の中心であり、国庁の近くの東側には、「多磨寺(たまじ)」=京所廃寺という古寺があった。現在ある多磨寺(東京都府中市紅葉丘在)とは別。 このことから、「多磨」は武蔵国の誕生以前の古い地名であったことがうかがえる。多磨寺は、多磨郡の郡寺で、出土した瓦から、創建は8世紀初頭とされる。「多寺」「■磨寺」の文字瓦が出土している。
  • 平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである延喜式(えんぎしき)は、律令の施行細則をまとめたもので、延長5年(927)に完成し、康保4年(967)より施行された。延喜式には多麻郡の字であらわれ、のちには多磨郡とも書き、「たま」「たば」と読まれた。地名の由来は、丹波が転訛したものだとか、かつて麻が多い地域であったとか、かつて多摩郡を治めた大國魂命(おおくにたまのみこと)によるなど諸説ある。
  • 江戸幕府が作った地誌「新編武蔵風土記稿」は、川の表記は玉川と多磨川を併用する一方で、「地名(郡名)」は「多磨郡」しか使っていない。645年の大化の改新後、本格的な中央集権の律令制度が敷かれて、関東地方も6世紀ごろまでに大和政権の支配下に入っていたとされ、703年には武蔵国にも「国司」に任じられた朝廷の役人が配置された。713年、朝廷は「地名は2文字の好字(良い意味の文字)で記せ」というお触れを出した。なぜこんなお触れを出したのかは分からないが、これが「玉」を郡名に使わなかった理由かもしれない。
  • 明治時代の歴史地理学者、吉田東伍が編纂した「大日本地名辞書」は「多摩郡」の項で「多摩は古来、多麻や多磨と書いたが、天保国絵図(てんぽうくにえず)で多摩に定め、今もこれを使う」という説を紹介している。天保国絵図は、江戸幕府が国ごとに作製した絵地図で、郡・村名と石高が記されており、その中に「多摩郡」と書かれている。しかし、「天保国絵図」だけで、それまで公式の文書でも多用されていた「多磨」が「多摩」に統一されたと考えるのは無理と思われる。また、この絵図は、郡名が「多摩郡」だが、川名は「玉川」。「大日本地名辞書」は、郡名に「多摩郡」、川名に「多摩川」を主に採用しているが、よく見るとところどころ「多磨郡」や「玉川」が交じっている。
  • 「多磨」は、北原白秋主宰の歌雑誌。昭和10年(1935))創刊、1952年12月終刊。当時の『アララギ』に代表される現実主義的傾向や散文化傾向に危機感を抱いた白秋が、浪漫(ろうまん)精神や象徴的方法の復興と、新幽玄体の短歌を目ざして多摩短歌会を結成。『多磨』はその機関誌として『新古今和歌集』、松尾芭蕉(ばしょう)、新詩社の『明星』に続く第四の象徴運動を提唱した。
  1. 昨今の「たま」の表記事情

明治政府が進めた廃藩置県から、東京の中西部を区分した行政単位として、東西南北の各「多摩郡」を置いたことから、多摩の使用が一般化したようだ。「多摩地方」、「多摩ニュータウン」など、現在でも東京西部の地名として定着しており、「多磨」はあまり見かけない。

「多摩」の方は、「多摩川流域」という広い地域を表す一般的で新しい地名、「多磨」の方は、歴史ある古い地名ということになるのだろうか。

 

  1. というわけで…

南多摩郡の「多摩村」(現・多摩市)は多摩川の南岸で、北多摩郡の「多磨村」(現・府中市)は、その対岸にあった。両村とも全国に市制町村制が敷かれた明治22年(1889)にできた。この年には「調布村」という村が現在の大田区(田園調布の辺り)と青梅市に、「調布町」が現在の調布市に誕生している。多摩村と多磨村はあまりにも距離が近いために、判別のために漢字を変えたということになるのではないだろうか。

多摩川を管理する国土交通省京浜河川事務所によれば、「現在、国交省が作る文書は『多摩川』で統一している」そうだ。河川法に「一級河川」(国土保全や国民経済に特に重要な水系の河川)に指定する時は名称を公示すると定められ、多摩川も昭和41年(1966)に一級河川に指定された時に「多摩川」と公示された。

「多摩川」「多摩郡」の表記は、どこかの時点で一律に統一されたというより、地図や行政文書、教科書などで使われていく中で、一つにまとめられていったのであろう。

 

資料 Wikipedia 他