青梅・吉野梅郷再生に息吹 「令和」考案した中西進さん命名の梅も~日向和田駅前の顔

青梅線日向和田駅に降り立った。春到来を告げる花、梅の郷・吉野梅郷の玄関口だ。万葉人が詩歌に詠み込んだ梅は、人の温もりに恋い焦がれた胸の内を表すロマンあふれるものが多い。青梅から蔓延したウメ輪紋ウイルスの拡大ですべてが伐採された後、梅の里再生の植栽が終わった。その梅たちは来春に向けて頂芽を膨らませつつある。新型コロナウイルス感染が沈静化しかけているいま、人がまばらな青梅・吉野梅郷を歩いた。小春日和の吉野梅郷は、コロナウイルスの自粛疲れを癒してくれた分、コロナ感染第6波の来襲がないことを願うばかりの一日になった。

日向和田駅前の青梅街道に面して建つ「へそまんじゅう総本舗」

サービスのまんじゅう頬張る
駅頭で店を張って間もなく70年になる「へそまんじゅう総本舗」で8個入りの「へそまんじゅう」を買った。すると「これはサービスです」と店員が箱入りとは別に蒸したてのまんじゅうを1個差し出した。思いがけないサービスに気をよくして店頭で頬張った。粒あんと薄皮がふんわりと口中で溶けるようでマンゾクした。ショーケースにあった「梅大福」もおいしそうでスタートから充足感に満たされた。
「へそまんじゅう」の由来は、永禄6年(1563)まで遡る。小田原北条勢は青梅ゆかりの三田氏の辛垣城を攻めたが、落城に至らず、しびれを切らした北条勢は作戦を変えて辛垣城の西、雷電山口から猛攻に出て三田勢を追いやった。

名物の「へそまんじゅう」

この時の勇士が雷雨の中、兵糧のまんじゅうを腹に巻いて勇猛果敢に戦って恩賞を受けたとか。戦い終えた後、そのまんじゅうは全部、へその形をしていたという。よって、へそまんじゅう総本舗では今日までへそまんじゅうを食べて努力すれば成功する、と思いを込めて作り続けているという。
国立公園入口 神々しく光る
この一帯は、秩父多摩甲斐国立公園東の入口でもある。この起点は多摩川に架かる神代橋だ。橋の左岸に「秩父多摩国立公園」の碑がある。東京都はじめ、埼玉県、山梨県、長野県の2000m級の山々を含むエリアを昭和25年(1950)7月10日に指定した。公園名に甲斐(山梨県)を加えたのは平成12年(2000)8月10日。碑は初期の表記のままだ。

神代橋に立つと、多摩川が光り輝いていた

長さ132mあまりの神代橋から見た多摩川の水面は、光り輝いていた。神々しく、しばし見とれた。蛇行した川の上流奥には奥多摩の山々が壁になっている。天上は青い。雲がない。この地点は源流から73㎞ほどであり、北に青梅丘陵、西に日の出山(902m)から続く山が迫っており、橋の下約21mの流水面までの深さを際立たせている。行き交う人もカメラを向けていた。

静かなたたずまいの紅梅苑

和菓子に梅の風味生かす
再びまんじゅうに出合ったのは梅菓子処「青梅 紅梅苑」。平屋建ての瀟洒な店で、作家・吉川英治に縁が深い店だ。文子夫人(故人)が昭和58年(1983)に開いて以来、青梅ならではの梅の風味を生かした和菓子や冷菓を作り続けている。
代表格の「紅梅饅頭」は生地がカステラ風。北海道産の小豆を独自の鉄釜で練っており、甘みを抑えたあんがあっさりしていた。天然のユズをたっぷり使った焼き菓子「柚篭(ゆずかご)」も冬の季節に合いそうだ。店内で食事もできる。

しっとり感がある「紅梅饅頭」

菓子処、青梅を物語る煎餅

青梅には江戸時代末から地名に因んだ名物の「青梅煎餅」があった。青梅市広報(令和3年9月15日号)によると、片面に梅花、一方の面には金剛寺(天ヶ瀬町)の青梅(あおうめ)の漢詩を浮き立たせた煎餅だ。いまは「青梅せんべい」として生まれ変わって青梅の代表的な土産の一品になっている。
日向和田駅前付近で菓子商を営んでいた嶋田屋は、天保5年(1834)に発行された武蔵国多摩郡御嶽山道中記「御嶽菅笠」に描かれた商家で、この店にあった青梅八景煎餅の焼型が青梅市郷土博物館に収蔵されている。焼型は鉄製で長さ50㎝。先端には直径12㎝の円形の型がある。型の片面に梅花の総柄、もう一方の面に名所の図柄と「青梅八景」の文字とともに「金剛寺晩鐘」「愛宕山秋月」などと刻まれている。

「金剛寺晩鐘」と銘打った青梅八景煎餅の拓本(青梅市郷土博物館提供)

何年も使われたであろう青梅八景煎餅の焼型(青梅市郷土博物館提供)

同郷土博物館に所蔵されている焼型には金剛寺、愛宕山(愛宕神社)のほか、不動堂(清宝院)、玉川(多摩川)、住吉(住吉神社)、金比羅(金刀比羅神社)、秋山(秋葉神社)の七景があるが、残りの一景がない。いずれも明治時代から旧青梅町の名所を焼き付けた煎餅だった。
青梅八景の表記は、明治32年(1899)、小説家の大橋乙羽(おとわ)が紀行文「千山萬水(せんざんばんすい)」に挙げた個所で、近江八景の近江に呼び名が近い青梅になぞらえて名付けたという。同市広報紙では旧青梅町が大正13年(1924)に発行した「青梅案内」にも青梅八景の呼称があるという。

樹齢50年以上になる梅の「梅郷」

地元で生まれた梅、生き抜く
紅梅苑のはす向かいに青梅市原産の梅の木「梅郷」の古木があった。幹や枝ぶりに武骨さと力強さが表れていた。枝にかけられていた「樹齢五十有余年」の木札を見て、ウメ輪紋ウイルスに侵されず生き延びた証の木だと読み取った。

谷が深い梅の公園の高台から青梅丘陵が一望できた

1300本植え替えた梅の公園
吉野街道を横切り、梅の公園へ。細々とした若木が公園の斜面に透けて見えた。昭和47年(1972)開園。面積約5万8千㎡。園内の高低差は60m。起伏に富んだ公園だから見晴るかす眺望が楽しめた。花はなくとも青空の下で景色の屏風絵を広げたような展開だ。加えて小春日和。斜面で気持ちを浮かせた。
平成21年(2009)に国内で初めてウメ輪紋ウイルスが青梅市で確認され、その後、全市で4万本を伐採した。梅の公園も例外ではなく、約120種1700本以上を伐採せざるを得なかった。伐採前の開花時期には10万人を超える人出で、市内最大の集客地域だった。公園の斜面も谷も梅の花の緞帳だった。

梅の花が織りなして多色刷りの錦絵のようだった伐採前の梅の公園(平成22年3月22日撮影)

令和2年度までに再植栽された梅は市内全体で5500本ほど。そのうち梅の公園は1312本。いまはまだ、どれも若木だが、数年のうちに箒を逆さにしたような樹形になるだろう。待ち遠しい。ここには織姫、甲州、紅千鳥、鶯宿……種類が豊富にある。青梅原産の梅郷や玉英の花も来春期待したい。

中西進さんが命名した梅6本が植わるエリア

梅の里の象徴願い中西進さん命名
公園入口に近い斜面に万葉集の研究家で、元号「令和」の考案者として知られる中西進さんが令和2年11月7日に来園したのを機に、平成28年、最初に再植栽した6本の梅に令和に因んだ名前を付けたエリアがある。中西さんが新しい里の象徴になることを願って詠んだ句は

   令和の梅 平和の里に 令(うる)わしき香(か)

中西さんが命名した木は
1 三諸(みもろ)  神さまがいらっしゃる所のこと
2 初花(はつはな) 一年でもっとも早い花のこと
3 久方(ひさかた) 遠い空の彼方のこと
4 万代(よろずよ) 永遠の未来のこと
5 諸人(もろびと) みんなのこと
6 百鳥(ももとり) たくさんの鳥のこと

この日は、公園に人影がなく、斜面に腰を下ろして眼下の家並みや山並みを眺めていた。そこへシジミチョウの仲間だろうか、群れから離れた小ぶりのチョウが2頭やってきた。上へ下へと直線的に舞う2頭に見惚れた。谷に響いていた鳥のさえずりも耳に心地よかった。

吉野梅郷の再生を感じる梅林が点在する

すくすく育つ梅林と悲恋の梅
吉野街道の西側に並行する観梅通りは、里村の雰囲気が濃い道だ。沿道に梅園が点在する。どの梅園の木も若木だ。真新しい家並みの一画もある。梅園を手放した後の姿だろうか。家々の庭先の野の花々に気持ちが和らぐ。

梅を伐採した後、宅地になった土地も(天満公園で)

枯れ木となった「岩割の梅」は、そのままにあった。その昔、若武者と土地の娘が逢瀬を楽しんだ地といわれる。出陣する若武者が突き刺した一枝が岩を割って成育したことから名づけられた。

悲恋の「岩割の梅」。隣接するオープンガーデンでは季節になるとミツマタの群生が楽しめる

千年迎える社殿に幼いケヤキ
さらに西へ向かうと、清楚感漂う広い境内の下山八幡神社前に出た。980年前の長久2年に誉田別尊(ほむたわけのみこと)らを祭神として祀り、創建した神社で、木彫の神鳩を社宝にしている。拝殿は昭和59年(1983)に瓦棒鉄板葺から萱型銅板葺に改修されたが、本殿は都内でも少ない三間社流造りの構造を維持している。徳川家康から社領500石いただいたなどの歴史もある。数年前に訪れた時、境内に林立していたケヤキの大木は一掃されていたが、一株の根から若木が10本ほど育っていた。

ケヤキの切り株から生え出た若木が育つ下山八幡神社境内

開花待つロウバイと人道橋
神社参道から北上して多摩川沿いに出た。河岸段丘沿いにロウバイ400本以上を植栽したグリーベルトがあった。地元の梅郷6丁目景観を守る会が管理し、季節の草花を植えている。夏になると、近くの夫婦沢でホタルも飛び交うようだ。

観梅通りには瑞々しい竹林スポットもある

小中学生の通学や住民の生活路として架けられた好文橋

青梅市立西中学校の校庭側に着くと、目指して来た好文橋が目前だった。昭和50年(1975)3月、西中学校の生徒と地元民らが多摩川を渡れるように新設した人道橋だ。長さ138m、幅3mとゆったりしている。橋を中心に多摩川は上流から下流にかけてS字型になり、雄大さが手伝って、橋上から水面まで20mほどだというが、それ以上の高さを感じた。最寄りの石神前駅まで徒歩10分ほど。穏やかな里の一日を満喫した。

天に架かる橋のような好文橋